Snow Christmas

４.

「薫っ、待て！」

背後から、自分の名を呼ぶ声がする。あれは紛れもなく片瀬の声。しかし薫は足を止めず走り続けた。

どこへ向かっているのか自分でも分からなかったが、とにかく逃げたかった。ふと気を抜くと、ついさっき見た映像が鮮烈に蘇って胸が苦しくなってくる。

歓声、歓喜の渦の中で、迷い子のように独りぽつんと佇む片瀬のシルエットが―――

「薫ッ」

いつの間にか、足音と荒い呼吸がすぐ背後に迫っていた。恐慌をきたした薫がさらに速度を上げようとした時、腕を掴まれて乱暴に引き寄せられた。

「は、離せよっ」

手を払って逃れようと暴れる薫を、片瀬は険しい声で怒鳴り付けた。

「馬鹿野郎ッ、この前と同じ目に遭いたいのか！」

薫はびくんと肩を竦めて、辺りをこわごわ見回した。すでに薄暗く、人の気配もない。

闇雲に走った挙句高等部の敷地内に迷い込み、欲望を持て余した男たちに襲われかけたのは数日前のことだ。片瀬が怒鳴りたくなるのも尤もだった。

「こんな時間に一人でうろうろして、また高等部の奴らに掴まって襲われたら―――」
「なんだよッ、お前には関係ないだろ！　お、俺が何されたって―――」

片瀬は掴んでいた腕を荒っぽく突き放した。勢いに押されてよろめく薫を冷たく見下ろし、

「ああそうか。なら勝手にしろ。俺は知らん」

くるりと背を向け、そのまま足早に去っていった。寛い背中が黄昏に呑み込まれて見えなくなると、急に辺りが暗くなってきたように思えて、薫は思わず慄えた。ざわざわと木立が鳴る音も、やけに耳に障る。

「ここ……どこだよぉ………」

クラブハウスの裏手なのか、見たことのない倉庫のような建物があるだけ。部活をしていない薫には縁のない場所で、どちらへ行けば門の方へ出られるのかよく分からない。

とにかく歩き回ればいずれ知った場所に出るのだろうが、間違って高等部の敷地へ入ってしまったらと考えると足が竦んでしまう。

がさりと枝が鳴るたびに、にやけた表情の男たちが現れるような気がする。数日前のあの恐怖が生々しく蘇ってきて、薫はついにその場で泣き出した。

「んっ……ぇっ、ふぇっ………やだぁ…………ぅ、ぅゎぁぁぁぁぁーーーーん」

恐くて、寒くて、淋しくて、涙が次から次へと溢れてくる。恥ずかしいとかみっともないとか考える余裕もなく、薫は声を上げて泣いた。するとがさがさと足音が近付いて、

「ったく、そんなに恐いなら最初っから―――」

薄闇から再び姿を現した片瀬を見ると同時に薫は駆け寄り、その胸に飛びついた。

「ぅぇっ……ぇっ、ぇぇっ………」

背中にがっしり腕を回し、力一杯しがみつく。そして苦しそうにしゃくり上げる薫を片瀬は抱き返し、ふわふわとハネる柔らかな髪の中に指を滑り込ませて優しく撫でた。

「恐かったんだろ？　ん？」
「こ、こわくなんかないっ」
「本当に素直じゃねえな」
「うるせえ………ばかぁ……片瀬のばかやろー………」

んくっ、んくっと涙を呑み込みながら、拙い口調で「片瀬のばかやろ…」と繰り返す。片瀬はコツンと頭を叩いて、

「おい、お前に馬鹿呼ばわりされる筋合いはねえぞ」
「うるせっ。バカだからバカって言ったんだ！　な、なんだよあの試合、せっかく勝ったのに、優勝したのに、なんであんな淋しそうにぽつんとしてんだよッ」
「…………」
「なんで………独りぼっちなんだよ………」

片瀬は黙り込んだまま、ただ薫の背中を撫で続けた。そうすることで自分の気持ちに整理をつけ、痛い事実を告白する勇気を貯えようとしていたのだ。やがてふっと息を吐き、

「思い知らされたんだよ、周りの仲間とは逆の方向へ走っていたことを」
「逆…の……？」
「ああ。レギュラーもそうでない奴も、みんなそれぞれが目標を持っていた。試合に出たい、地区大会で優勝したい、全国大会で優勝したい、プロになりたい……掲げている目標に差はあっても、それに向かって前進していることに変わりはない。でも俺は逃げてた」

薫はゆるゆると顔を上げた。ちゃんと目を見て話すべきだ、話さねばならないと感じたからだ。薫の真直ぐな視線に脅威を感じた片瀬は、思わず目を逸らす。しかし、

「片瀬、こっち向いて」
「………お前には敵わねえな」

片瀬は苦笑いしつつ薫に向き直った。そして再び口を開く。

「俺には何か目標があったわけじゃなかった。ただグラウンドを走ってボールを追いかけていれば、頭の中が空になって嫌なことを忘れられた。
親父が複数の愛人を持っていることも、そのせいで母親がアルコールに溺れて俺に当たることも、愛人からの無言電話に毎日悩まされてることも………」

薫の瞳が悲しげに揺らいだ。同情されるのは決して好きではなかったが、薫の瞳に宿った純粋な感情はただ美しく、愛おしかった。

「そういったどろどろの日常から逃げるためだけに、俺はサッカーに打ち込んでたんだよ。だからシュートを決めても、試合に勝っても、少しも嬉しくなかった。そんなのどうでもいい、ただ嫌なことを忘れられればそれで良かった」

薫は黙って耳を傾ける。しかしその瞳は何より雄弁だった。虹彩がすっと透き通ったと思ったら、大きな涙の珠がひとつ、ふたつと生まれてこぼれ落ちる。その繊細な造形に目を奪われ、片瀬は一瞬言葉を失った。

しかし薫が息を詰めて続く言葉を待っているのに気付き、無骨な指先でそおっと涙を拭ってやると、再び口を開いた。

「試合でいい結果を出すたびに、仲間は手放しで喜ぶ。その幸せそうな笑顔を眺めながら、俺は自分に言い聞かせた。ずっと続けていれば、きっといつかああいう気持ちが芽生えるはずだ。だから余計なことは考えず、サッカーに打ち込めばいい、と。でも―――」

不思議だった。こうして話しているうちに、どんどん胸が軽くなってゆく。

これまで誰にも打ち明けたことはなかったし、これからも打ち明ける相手など現れないだろうと思っていた。そんな不幸自慢みたいなことはしたくなかったから。

けれど、今、やっと気付いた。こうして衒うことなく全てをさらけ出せる相手を、自分がどれほど欲していたのかを。

「でもあの試合、お前が見た試合だ、あれで俺は思い知った。俺の中には、仲間たちとは逆のベクトルしか存在しないことを。このままどれだけ続けても、マイナスはマイナスのまま。前進することなんてあり得ない」
「そんなっ―――」

小さく叫んですがり付く薫に優しい笑みを向けて、

「お前だって気付いたんだろう？　あの試合、劇的な逆転、地区大会優勝。誰もが手放しで喜んで抱き合い、歓喜の涙を流す。
でも俺は、ちっとも嬉しくなかった。喜ぶべきだとは分かっていた。凄いことだとも。でも……どうやって喜んでいいのか分からなかった。そう、途方に暮れていたっていう表現が、一番ぴったりかもしれないな」
「だから……やめたのか？」
「ああ。あれ以上続けていても虚しいだけだからな。その頃ちょうど、親の離婚が正式に決まって、親父の転勤の話も出ていた。環境も変わるだろうし、いい機会だと思ったんだよ」
「そう……だったのか………」

薫は溜息混じりに呟くと、ゆったりと瞬きした。涙を含んだ長い睫毛がしんなりと撓み、いつもの天真爛漫な表情に艶めいた憂愁の翳を添える。そこに口付けを落としたい欲求を何とか抑えて、片瀬は指先を這わせた。

薫はその、冷たい愛撫をうっとりと受け入れる。確かに指は冷たかったけれど、涙を拭ってくれる仕草はとても温かかった。

「……明良が知ったら、幻滅するだろうな。あいつは俺を過大評価してるところがある」

片瀬の言葉に確信をもって首を振り、

「そんなことないよ。お前は今、真剣にあの弱小サッカー部を指導してくれてる。その事実が何より大事なんだ。それに、今は逃げてない。あいつらと走り回って、あいつらに教えてる片瀬はとても楽しそうだ。そうだろ？」

薫の真直ぐな言葉に、片瀬も正直に頷いた。

「ああ、楽しい。あいつらには本当に……感謝している」

その言葉が何より嬉しくて、感情に煽られるまま片瀬の胸に抱きついた。片瀬もすぐに抱き返し、そのまま無言の抱擁に酔い痴れる。


―――ああ……あったかいなあ………


無表情で無愛想で、ずけずけ遠慮なく物言う憎たらしいヤツだけれど、涙を拭ってくれたり手を握ってくれたり、こうして抱き締めてくれる仕草の全てがとても温かい。

明良を含めサッカー部の部員たちが片瀬を慕うのも、言葉を超えた人間性を感じ取っているからなのだろう。

「………送っていくから、そろそろ帰ろう」
「ん………」

ずっとこの温もりに微睡んでいたい、そんなことを考えてしまう自分に気恥ずかしさを覚えつつ、薫はゆっくり身体を離した。あっという間に失われた体温が愛しくて、自分の身体をぎゅっと抱き締めた。

「寒いのか？」
「う、ううん。だいじょうぶ………」

俯いて首を振る薫の手を掴み、そのまま黙って歩き出す。こうして手を繋いで歩くのは二度目。恥ずかしさはまだ少しあったけれど、守られているという安心感の方がずっと大きかった。

「携帯持ってるか？　明良が心配してるだろうから、連絡を入れておいた方がいい」
「あ、うん。そうだね……」

薫はポケットを探って携帯を取り出し、明良にかけた。２コールですぐに出たから、片瀬の言う通り心配していたに違いない。

「あ、俺。うん……大丈夫。ごめんな、心配かけて。あ、あの………片瀬に送ってもらうから……うん、そんじゃ」

電話を切った薫に、「明良は何て言ってた？」と訊ねる。薫はほんのり頬を染めて、

「片瀬先輩と一緒なら安心だ、ってさ。生意気なこと言いやがって……」

赤い頬を膨らませてぶつぶつ言う薫をちらと一瞥して、片瀬はぼそっと呟いた。

「俺と一緒なら安心、か……」

そして溜息をつき、

「そうでもねえんだけどな……」
「あ？　何か言った？」
「………何でもねえよ」

ぶっきらぼうに答えると、繋いだ手にぎゅっと力を込めた。




家の明りが見え始めると、薫はそわそわ落ち着かなくなってきた。前回の別れ際の記憶が鮮明に蘇ってきて―――

「そ、そそそんじゃこの辺でっ」

薫は自分から手を離し、強張った挨拶をして背中を向けようとした。が、「あっ」と声を上げてポケットを探り、

「これ、お前に返すの忘れてた。あ、ありがと……」

手袋の片割れをずいと差し出す。そして再び背中を向け、明らさまにぎくしゃくした歩みで真直ぐ家へ向かった。

「………薫っ」

背後から名前を呼ばれ、びくんと肩を震わせつつ立ち止まる。そしておそるおそる振り向いた。片瀬は近付こうとはせず、その場で声を張り上げる。

「この前言ったけれど、もう一度言う。クリスマス、会ってくれないか？　お前に渡したいものがあるんだ」
「な、何だよ渡したいものって……」

片瀬は呆れたように微笑って、

「クリスマスに渡すものって言ったら、プレゼントに決まってるだろ」

それは確かにそうかもしれない。しかし薫にとっては意外な返答だったらしく、ぱちくりと大きく瞬きした。次の瞬間ぼっと顔を赤らめ、

「なんで俺にプレゼントなんてっ―――」

片瀬はそれには答えず、一方的に告げた。

「２４日の夕方６時。いつもの場所で待ってる。じゃあな」

そして薫の答えを聞くまでもなく、くるりと身を翻して帰っていった。薫は暫し呆然と佇んでいたが、我に返ると何度も首を振って、

「駄目だって……。クリスマスは必ず………家族と過ごすって………」

片瀬に対してというより自分に言い聞かせるように呟いて、とぼとぼと家へ帰っていった。

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