Snow Christmas

２.

「離せっ、離せよっ！」

半ばヤケ気味に暴れて掴まれた腕を払おうとするけれど、片瀬はびくともしない。どうやら見た目以上に頑丈で精悍な身体をしているようだ。

そのままずるずる引きずられ、グラウンドから出たところでようやく解放された。何すんだっ、と怒鳴って睨み付けようとしたが、それに先んじて片瀬が口を開いた。

「お前、いい加減にしろよ」
「な、何がだよッ」
「邪魔してどうするんだ。あいつが可哀想だろが」
「お前には関係ねーだろ！」

冷静に諭す片瀬に対し、子供みたいに喚くしかできない自分が惨めで情けなくて、自然と涙が浮かんでくる。しかし、目を拭ったら泣いているのを肯定してしまうような気がしたから、潤んだ双眸のまま片瀬を睨んだ。

何か反論してくるだろうという予想を裏切って、片瀬は小さく溜息をついただけで何も言わず、黙って薫の手を引いた。

さっきのような強引さも荒々しさもない。まるで保護した迷い子を導くかのような優しさと、思いもよらぬ手の温かさに気をとられ、気が付けば大人しく手を引かれて歩いていた。

「そこに座ってろ」

ぶっきらぼうな命令に、反発する気持ちは起こらなかった。薫はこくんと頷いて、中庭のベンチにちょんと腰を下ろす。

まだ完全に日は落ちていなかったけれど、傍らの外灯には明りがともり、ベンチとその周りをぼんやり照らしていた。

「ほら」

いつの間に買ってきたのか、片瀬は湯気の立つ紙コップを差し出した。一応「ありがと…」と礼を言って受け取る。薫はすぐに口を付けず、紙コップ越しの温もりで冷えきった指先を温めた。

「手、冷たいのか？」
「う、うん。でもいつものことだから……」

さっきの勢いとは比較にならぬほど弱々しい声で答え、紙コップをじっと見つめる。隣に座った片瀬はそっと手を伸ばしたが、薫の手に触れぬまま引っ込めた。

そんな片瀬のためらいに気付くことなく、薫は紙コップに顔を近付けて、

「ココアだぁ……。いい匂い。何で俺がココア好きだって分かったんだ？」

見れば、片瀬のコップにはコーヒーが。

「子供はみんな、ココアが好きだ」
「俺は子供じゃねえぞっ」
「そうか。ならこのコーヒーと取り替えてやる」

薫はむすっと唇を尖らせて、「ココアでいい」と不貞腐れたように答える。そして舌がとろけるほど甘い飲み物を、ふうふう吹きながら少しずつ味わった。

そういえば、明良も最近はココアや紅茶ではなく、コーヒーを飲むようになった。途中で嗜好が変わるのはよくあること。それでも暗に「俺はもう子供じゃない」と言われているように思えて、薫は半分ほど残ったコップをベンチの上に置いて大きな溜息をついた。

「………そろそろ潮時じゃないのか？」

何の前置きもなく、片瀬が口を開いた。薫は、彼が何を言わんとしているのか分からない振りをして、「何のことだよ」と問い返した。本当は分かっていたけれど。

しかし片瀬はそんな薫の本心を見透かしたのか、問いには答えず淡々と言葉を続けた。

「あいつ、高校からは違う学校を希望してる。でもそれをお前に言い出せずにいるんだ」
「なっ………なんでそんなこと分かるんだよ！」
「明良に直接聞いた。相談を受けたんだ」

違う学校を希望していることもショックだったけれど、そんな大事なことを兄である自分ではなく、最近知り合ったばかりの片瀬に相談したという事実に、薫は打ちのめされた。

「う、うそだ……だって、だって明良は―――」

ちっちゃくて、ひよわで、泣き虫で、いっつも俺の後ばっか付いて回って―――

「明良は俺がいなくちゃダメなんだっ。だから俺が守るって………何があってもずっと一緒だから、って………」

いつの間にか片瀬は薫の腕を掴んでいた。さらにぎゅっと力を込めて握り、

「はっきり言うぞ。明良はもうお前の保護を必要としていないし、お前が思ってるほどお前に執着もしていない」
「う、うるせ………」
「なあ、藤崎。もうそろそろ“頼れる兄貴”を演じるのはやめたらどうだ。そんなに必死にならなくたって、お前は十分―――」
「お前なんかに何が分かるんだよッ」

片瀬の言葉を鋭く遮り、掴まれた腕を振り払って立ち上がる。その姿は大事なものを傷つけられた子供のように悲しく勇ましく、見る者の胸を締め付けた。

「あいつは小さいころから身体が弱くて、友達もいなかったんだっ。だから俺がいつも傍にいて守ってやるって決めたんだ！　何があってもずっと一緒だって……なのに、なのになんでっ―――」

再び瞳が潤み始めたが、やはり頑なに拭おうとはしない。

「藤崎……」

片瀬は立ち上がり、感情を押し込めようと小刻みに震えている薫にそっと近付いた。

しかし薫はとん、と突き飛ばし、意表を衝かれた片瀬がよろめいている隙に背中を向けてその場から走り去った。

「藤崎、待てっ―――」

あっという間に小さくなってゆく背中を慌てて追いかけたが、途中で見失ってしまった。

「あいつ……無駄に足速え………」

この季節の黄昏は、すぐ闇へと変じる。片瀬は不安を持て余しながら、薫の後を追いかけた。




―――明良はもうお前の保護を必要としていない


「そんな……そんなの分かってるっ………」

薫はただ、闇雲に走った。いや、逃げた。片瀬の言葉から、突き付けられた現実から。

心の表層では必死に否定していたけれど、全て承知していたことだった。明良に執着し、兄弟という関係に執着し、“本当の家族”に執着しているのは自分だけなのだと。

「でも……大事なんだっ………」

父親が再婚したことで、初めて自分に弟と優しい母親ができた。

夢にまで見た温かな家族。騒がしい朝、夕べの団らん。夏休みの家族旅行、手作りのバースデーケーキ、そして家族で過ごすクリスマス―――嬉しくて、幸せで、何より大切な日常。

これからもずっとそれが続くと信じていたし、家族を守るためなら自分は何でもすると決めていた。なのに―――

「ヤダ……ヤダぁ………」

壊さないで、奪わないで、俺の大事なものを。それが大人になるということなら、ずっと子供のままでいい。大人になんかなりたくない。このままずっとみんな一緒に―――

「ひゃッ………い、痛ぁ…………」

どこをどう走ったのか分からない。気が付けば辺りは薄暗く、前から歩いてきた人とぶつかってしまったようだ。

泣き顔を見られたくなかったから、薫は俯いたまま取り敢えず「すみません」と小声で謝り、そのまますり抜けようとする。しかし腕を掴まれて引き戻された。

つい先刻、片瀬に掴まれたのと同じ場所。あの時はちっとも嫌じゃなかったのに、何故か今は怖気が立つほど不快だった。

「あれェ？　もしかして薫チャン？」

“薫ちゃん”なんて、母親以外から呼ばれたことはない。いやそれ以前に、声にまとわり付く軽薄さが不愉快だった。

薫はもう一度「すみませんでした」と謝って、この場を切り抜けようとした。しかし腕をしっかり掴まれている上、さらに二人現れて周囲を囲まれてしまった。

「やっぱり薫チャンだ。中等部のお姫さまが、こんなところにいちゃ危ないよ」
「そうそう。高等部の恐いお兄さんたちがうろうろしてるからね。ほら、あっちは安全だから」

どうやら高等部の敷地内に迷い込んでしまったようだ。三人は薫を取り囲んだまま道を逸れて、植え込みの方へ向かおうとする。

「ちょっ………離せよ！　何すんだッ」

拘束から逃れようと暴れる薫をニヤニヤ笑いながら抱え込み、

「先輩への口の利き方がなってないなあ。お仕置きだな」
「まあ、こういうやんちゃな姫さまもいいけどな」

そして背の高い植え込みの蔭まで連れてくると、三人がかりで押し倒した。殴られると思った薫は咄嗟に頭を庇おうとしたが、彼らはその腕を芝生に押さえ付けて身動きを封じただけで殴ろうとはしない。そう、彼らはもっと別の欲求に囚われていたのだ。

薫が着ているセーターを捲り上げ、ズボンのベルトを素早く外す。彼らの目的が全く分からぬ薫はただ呆然とされるがままだったが、まるで焦らすようにゆっくりとジッパーを下ろされると、訳が分からぬながらもようやく抵抗を始めた。

「なっ、なにすんだよ！　このヘンタイっ」

足をばたつかせて蹴り上げようとしたが、呆気なく押さえ付けられてしまう。相手は高校生、しかも三人がかりとあっては、まともな抵抗ができるはずもなかった。

「ヘンタイ、だって。可愛いなあ」
「さすが、姫候補ナンバーワンだよな」
「来年が楽しみだ」

緩んだ唇からこぼれる言葉は、熱っぽく浮かれていた。薫はまだ状況が掴めないながらも、殴られる恐怖とは異質のおぞましい戦慄が湧き上がるのを感じた。

すると突然、下半身を冷気が舐めた。下着ごとずり下ろされたのだ。

「ヤダヤダッ、やめろよぉ…………ぅっ、ぅぅ…………」

抵抗の叫びは、大きな手のひらで抑え込まれた。低くこもった呻きを漏らしつつ、首を小さく振ることしかできない。

縮こまった性器や外気に晒された胸を男たちに撫でられ、悪寒と吐き気が込み上げる。しかしどうすることもできない。

「ありゃりゃ、泣いちゃった。そんなに恐がらなくていいんだよ。すぐに気持ちよくなるから」
「そうそう、最初はちょっと痛いけどね。にしてもホントに可愛いなあ。君が高等部に来るのを心待ちにしてる先輩は多いんだよ。まさか俺らが最初に頂けるとは、思ってもいなかったけど」
「すげえ幸運だよな」

勝手なことを口々に言いながら、性器を撫でていた手を後ろへ滑らせる。自分でさえ触ったことのない場所を無雑作に弄られ、薫の恐怖と嫌悪は頂点に達した。

下半身を嬲るのに集中しているせいか、口を覆う手が少し緩んだ。薫はここぞとばかりに首を振って手を払い、喉を嗄らして叫んだ。

「いやだーーーーーッ、はなせ、はなせぇっ！！」

男らは慌てて口を塞ごうとするが、渾身の力で暴れる薫を巧く御することができない。

「くっそ……布だっ、何でもいいから布で縛っちまえ！」

薄手のマフラーを外して薫の口に当て、縛ろうとする。その時、植え込みの向こうから誰かが駆け寄る音が。

「どこだっ、藤崎！」

それは紛れもない、片瀬の声。薫は鼻から思い切り息を吸い込んで、

「ここだよぉーーーーっ、たすけてっ」
「薫ッ」

植え込みを掻き分けて現れた片瀬は、下半身を剥かれた薫とその周りに群がる男たちを見た瞬間、別人に変容した。

整った鼻梁には威嚇する猛獣の如き皺を寄せ、額に鉛の翳を落とす。明日地球が滅亡すると聞いても表情を変えないのではと思われるほど、無機質で鉱物めいた面てはあっという間に怒りの熱で覆われ、助けを求めた薫ですら怯えた。

「な、なんだ貴様っ、邪魔すんな―――」

最後まで言い終わる前に蹴り飛ばされた男は、腹を押さえてその場にうずくまり、激しい嘔吐感にげえげえ言って悶えた。

その姿に残りの二人は戦意を喪失したのか、刃向かうことなく腰を浮かせて逃げ出した。腹を蹴られた男もよろよろと立ち上がり、苦しげに腰を折りつつ走り去った。

「か、片瀬……俺っ…………」

涙のたまった双眸を一心に向け、唇を震わせて何か言おうとする薫。しかし片瀬はふいと横を向いて視線を逸らし、

「いいから、とにかく服を直せ」

いつも冷静な彼には珍しい、狼狽えた表情。しかも、頬が微かに赤らんでいる。もちろん薫はそんな片瀬の様子には気付かず、言われた通り慌てて乱された服を直す。

「な、直したよ……」
「ん、そうか……」

片瀬は近付いて薫の前に腰を屈め、優しく声を撓めて、

「怪我はなかったか？」
「うん、へいき………」
「そうか、それなら良かっ―――」

途中で言葉を呑み込む。それまで比較的冷静だった薫が、突然口をへの字に歪めて肩を激しく上下させたのだ。それと連動するように大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。

「こ、こわかった………」
「薫……」
「こわかったぁ………ぁぁ、ぅぁぁぁぁーーーーん」

抑え込んでいたものが堰を切って溢れ出すように、薫は涙を振りまいて号泣した。恐くて、悲しくて、悔しくて………

「薫、大丈夫、もう大丈夫だ」

気が付けば、片瀬の腕にすっぽり包まれていた。子供をあやすように背中を撫でながら、大丈夫、大丈夫と繰り返す。

「んっ、ふぇっ、ぇっ……」

薫はしゃくり上げながら、自然な仕草で片瀬の胸にすがり付く。こんな風に、誰かに甘えたのは初めてかもしれない。

物心ついた頃にはすでに、家の中に母親の姿はなかった。仕事が忙しい父親に甘えてはいけないと、知らぬ間に自分を制していた。

新しい家族ができてからも、長男として兄としてしっかりせねばならない、そんな矜持が薫に甘えや泣き言を許さなかったのだ。

抱き締めてくれる腕の温もり、涙を吸収する胸の寛さ、背中を撫でる手のひらの大きさ。全てが薫にとって未知の安らぎそのものだった。

くすんくすんと鼻を鳴らしながら、顔をぎゅぅと押し付ける。すると片瀬は何故かたじろいで薫の肩をそっと押し戻し、

「わ、悪い……さっき部活で汗かいたままの服だから………臭くねえか？」

薫はきょとんと目を見開いて、ばつが悪そうに顔を背ける片瀬をじぃっと見つめた。暗いからよくは見えないけれど、少し顔が赤らんでいるようにも見える。

いつも冷静沈着な彼がこんなことを気にして表情を変えるのかと思うと、言い様のない愛しさが込み上げる。

薫は黙って抱きついて再び顔をこすり付け、

「全然。俺、汗の匂い好きだし」

そう言って、ふふっと秘めやかに笑った。

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