Snow Christmas
１.
お兄たん、かおるお兄たん―――あいつはそう言っていつもいつも俺の後を追い駆けてきた。
泣き虫で、ちっこくて、寂しがりやで、俺がいなくちゃ何にもできない、そんなあいつを俺は必死で守った。大事に大事に慈しんだ。
何があってもずっと一緒だから、兄ちゃんがお前を守ってやるからと、何度も言い聞かせては小さな身体をぎゅぅぅと抱き締めた。
この世にたった一人の、俺の弟―――
晩秋の夕暮れ。太陽は地平線の彼方に沈み、群青色の黄昏が広いグラウンドを浸食してゆく。一日で最も物悲さを誘うこの時間帯が、何故か薫は大好きだった。
「はー、この寒い中、よくやるよなぁ……」
薫は凍えた両手をすり合わせ、暖かい息を吹きかける。耳元がひゅうと鳴ったと思ったら、身を切るような冷たい木枯らしが吹き抜けていった。
蒼薇学園中等部の敷地内にあるすり鉢形のグラウンド。その斜面に設けられたベンチにちょこんと腰かけ、身体を丸めて膝を抱えた薫は、グラウンド上の練習風景を一心に見つめる。
互いに指示を出し合う声や、シュートが決まって喜び合う歓声が時折耳に届く。薫の視線は自然とその内の一人に向かった。
ひょろりと背が高くて足が早くて、優雅な身のこなしと巧みなボールさばきでゲームを作り上げる彼。そして今も、コーナーキックからの見事なセットプレーで、相手のゴールネットを揺らした。
「いつの間に……あんなにでかくなったんだか」
ぽつりと呟くその声は誇らしげに聞こえたが、幽かな憂愁を含んでもいた。しかし薫はそんな自分の感情に気付いているのかいないのか、「俺よりでかくなりやがって」と不貞腐れたように続ける。そう言いながらも、口許には笑みが浮かんでいた。
小さい頃はひよわで病気がちだった弟が、今ではサッカー部の中心となって仲間を引っ張っている。そう思うと何だか不思議で、胸の奥がくすぐったい。
そんな感慨に浸りながら練習風景を眺めるこのひとときが、薫にとって何より大切な、充実した時間だったのだ。
ピリピリと笛が鳴ると共に、グラウンドに散らばっていた部員らが一カ所に集合した。すると薫もつられるように立ち上がり、一気に斜面を駆け下りてゆく。
「おおーーーい、明良ぁーーーー」
集まっていた部員らは一斉に振り向き、みな一様に屈託ない笑顔を浮かべてこの騒がしい闖入者を迎え入れた。但し、当の明良（あきら）と、そしてもう一人を除いて。
「よお、藤崎」
「こんな時間まで熱心だな。寒くねえか？」
「藤崎先輩っ、見ててくれたんすか？」
後輩も同輩も親しげに声を掛け、輪の中に薫を呼び込む。その内の一人が明良をこづき、
「ほら、兄ちゃんが迎えに来てくれたぞ。早く着替えて来いよ」
しかし明良ははあ、と濃厚な溜息をついて、
「また来たのかよ〜、薫」
「あんだとぉ？ てめえ、それがお兄様に向かって言う言葉か！」
すると周りの部員たちも、「そうだそうだ」と囃し立てる。明良はがっくり肩を落とし、
「はいはい、分かりました……」
「分かればいいんだよ。んじゃ、俺は門のとこで待ってるからな。母ちゃんに買い物頼まれたんだよ。荷物持ち頼んだぞ」
「ええ〜〜、俺疲れてんのに」
しかし薫にじろりと睨まれ、「荷物持ちでも何でもいたします、お兄様」と頭を下げる。薫は「よろしい」と頷いて、にぱっと笑った。
薄暗いグラウンドが、一瞬明るくなる。誰もが目を細めて、黄昏に咲いた愛らしい花を観賞した。その時、
「なるほど、噂以上のブラコンだな」
聞き慣れぬ声に痛い指摘をされ、薫は声のした方を睨んだ。するとそこには、見たことのない長身の男が立っていた。
やけに大人びた空気感をまとって、こちらをじっと見据えている。どこか近寄り難い冷たさが感じられるのは、切れ長の目と色素の薄い虹彩のせいだろう。
風が通ると長めの髪がさらりと流れ、表情に乏しい顔に剣呑な陰翳を刻む。夕暮れのグラウンドという日常の風景には相応しくない、非日常的な美しさを湛えていた。
しかし薫は意に介さず、誰だよお前っ、と険しい声で返そうとした。が、それに先んじて明良が駆け寄り、
「片瀬先輩っ、お疲れさまです。今日はこんな遅くまでありがとうございましたっ」
きびきびした動作で、深く頭を下げた。片瀬はごく淡く笑って、
「いや、俺も楽しかった。久しぶりだったから、勘が戻るまで時間がかかったけどな」
「そんなことないです。すげえ勉強になりました。あの……また来てくれますか？」
「ん？ そうだな。大野が呼んでくれれば」
元部長で３年の大野はちらと肩を竦めて笑い、「んなこと言ったら毎日呼ぶぞ」と脅す。明良は「やったぁ」と飛び上がって素直な喜びを表わし―――
「明良っ、門のとこで待ってるからなっ」
話に付いてゆけず、微妙な疎外感に囚われた薫はほんの少し声を尖らせた。そしてくるりと背を向けると、グラウンドから走り去った。
明良は慌てて声を張り上げ、
「薫！ 門の傍は暗いから、外灯の下で待ってるんだぞっ」
しかし薫からの返事はなく、小さな後ろ姿はあっという間に闇に融けた。
「どっちが兄貴だか分からねえな」
片瀬の率直な感想に、明良も思わず苦笑い。
「まあ兄といっても、一つ上なだけですし」
「そうか？ どう見てもお前の方がしっかりしてるぞ。あんなのに兄貴ぶられちゃ、お前もたまらねえだろ」
明良は何故か否定せず、苦笑を浮かべたまま黙り込んだ。やがてためらいがちに口を開け、
「薫は―――」
思索の跡が窺える低い声で続ける。
「一生懸命兄でいようとしてくれているんです。その必死さが辛くて切なくなることも、確かにあります」
「藤崎は藤崎なりに、お前のことを想ってるんだよ」
横から大野がフォローを入れる。明良は神妙に頷いて、
「では、お疲れさまでした。片瀬先輩、絶対にまた来てくださいねっ」
爽やかな挨拶を残してクラブハウスへ急いだのだった。
「なんだよあいつ〜、すっげえムカつく」
校門で落ち合った二人は、頼まれた買い物をするため商店街へ向かっていた。片瀬に「ブラコン」と揶揄されたのがよほど悔しかったのか、薫はむぅっと口を尖らせてはぶちぶち文句を垂れた。明良はまあまあと宥め、
「確かにずけずけ物言う人だけど、でもとってもいい人なんだよ」
「だいたい何者なんだよ、あいつ。うちの３年か？ にしては見たことねえけど」
明良は「ああ」と応えて破顔する。まるで、彼のことを説明できるのが嬉しくてならないという風に。
「片瀬圭祐（かたせ・けいすけ）さん。ひと月くらい前に、九州から転校してきたばかりなんだ。あの人のいた中学のサッカー部って、超名門でレギュラーになるのも大変なんだけど、片瀬先輩はそこでずっとセンターフォワードだったんだよ。しかも、九州地区大会優勝の立て役者。憧れの人なんだ」
「へー、ぱっと見は体育会系ってカンジじゃねえけどなあ」
薫の暢気な感想に明良は熱烈に頷き、
「そこがまたあの人の凄いとこなんだ。頭脳派っていうか、ゲームの組み立て方が論理的で、しかも咄嗟の判断力に優れてる。根性と力でぐいぐい突き進むいかにも体育会系とは違うんだ」
自分とは違って、何事も客観的に冷静に判断する明良がここまで手放しで褒めるのは珍しかった。薫もつい興味を持って話を続ける。
「まあ、うちのガッコの編入試験に合格するくらいだから、頭はいいんだろな。でもずいぶん中途半端な時期に編入したんだなあ」
「親の仕事の都合でこっちに来たんだって。海外にいたこともあるって言ってたよ」
薫は「ふうん」と気のない返事を返し、
「で、その伝説のストライカーが、我が蒼薇学園中等部の弱小サッカー部の救世主となるべく、さっそく入部してくれたってわけか」
薫は嫌味や皮肉を込めて“弱小”と言ったわけではなかった。それはひとつの、厳然たる事実。
もともと蒼薇学園では、運動系のクラブ活動が他の私立校と比べて盛んではない。大会で優勝を目指すというより、お坊ちゃんお嬢ちゃんたちの娯楽、道楽といった意味合いが強かった。
だから明良も薫の言葉に眉をひそめたり、不快を表すことはなかった。ただ小さな溜息をついて首を振り、
「サッカー……やめちゃったみたいなんだ」
「え？」
「地区大会で優勝した試合が最後だった。あれ以来もう二度と試合には出ないって。もちろんサッカー部に入部もしないって」
「な、なんで？ もしかして怪我したとか」
明良は俯いたまま足下の小石を蹴り、
「違うよ。今日初めて練習試合に参加してくれたけど、ちっとも衰えてない。やめた理由を訊いても、別に、とか何となく、とかそんな曖昧な答えしか返ってこないんだ。何で急に……」
自分に言い聞かせるように呟くと、立ち止まって顔を上げる。そして白い息を吐きながら、
「あーあ、ホント、なんでやめちゃったんだろうなあ。今日の練習試合だってさ、ずいぶん前からずっと参加をお願いしてて、やっと聞き入れてくれたんだ。憧れの人が傍にいるのにさ、もどかしいよ」
切ない笑みを浮かべる。薫は半ば呆れ顔で、
「お前、本当にそいつのこと崇拝してんだなあ」
「崇拝は大袈裟だけどさ。例の九州地区大会で優勝した時の試合ビデオ、一度だけ大野先輩に見せてもらったんだ。凄かったよ。
ドリブルなんてボールが足に吸い付いてるみたいで。ゴールを決めても淡々としてて、すぐ自分のポジションに戻る。カッコ良かったなあ。男が惚れる男ってああいうのを言うんだろうな」
そう言いながら再び歩き出した明良の横に並んでうんうん頷き、
「確かにあいつ、女にはモテなさそうだよな。顔はまあいいけど、無愛想だし」
「そうかなあ。俺はけっこうモテると思うけどな。愛想がよくて優しいだけの男より、ああいう寡黙でストイックな感じの方が女心をくすぐると思うけど」
やけに大人びた意見を披露する明良をまじまじと見つめて、ちょんと首をひねり、
「そんなもんかねえ。ううむ、女心は分かんねえや」
眉根を寄せた真剣な表情でこぼす兄を、「薫はまだまだ子供だからなあ」とからかう。
案の定薫は「なにおぅっ」と憤慨し、鞄を振り上げて威嚇した。明良は笑いながら走り出し、ちょうど目的の商店街の入口でくるりと振り返った。
「ほら、さっさと買い出しして帰ろうぜ」
薫はまだむくれつつも、素直に駆け寄って商店街の敷石にぴょんと飛び乗る。そして辺りを見回して、「わあ」と明るい声を上げた。
「すげー、もうクリスマスの飾り付けになってる。ほらほらっ、明良。見ろよっ」
店の中はもちろん、道の両側に一定の間隔をおいてクリスマスツリーが飾られている。外灯にはリースが付けられ、その全てがイルミネーションに彩られていた。
薫は頬を真っ赤にして興奮を露わにし、「すげえすげえ」とはしゃぎながら目を輝かせて、クリスマス色に染まった商店街に見入った。
明らさまに苦笑いしたら「何笑ってんだよっ」と噛み付かれると分かっていたから、明良は神妙な表情を拵えて「ちゃんと前見て歩けよ」とさりげなく注意。確かに、これではどちらが兄だか分からない。
しかしクリスマスイルミネーションにすっかりご満悦の薫は気にした風もなく、「そろそろうちもツリー出さなくちゃなあ」と明良に笑いかけた。
「まだ早いよ」
「ええ〜、いいじゃん。今年のイブは家でパーティーなんだから。去年はみんなでレストラン行ったけど、やっぱ俺は家でやるのがいいなあ。明良もそう思わねえ？」
笑顔全開の薫とは対照的に、明良は曖昧な笑みで口許を汚し、
「ん？ まあ……そうだね………」
「なぁんだよ〜。レストランの方がいいって？ 母ちゃんが作ってくれるローストビーフの方が絶対に旨いって」
明良は何故か気まずそうに視線を逸らし、「ほら、あの店で買うんだろ？」と強引に話を変えた。しかし薫は気に留めることなく「ツリーどこに仕舞ったっけなあ」と暢気に呟いている。
明良はそんな薫の後ろ姿を切なげにじっと見つめ、小さな溜息と共に後に続いたのだった。
どうやら片瀬はこの弱小サッカー部を気に入ったようで、あれ以来幾度となく訪れては練習試合に参加した。
薫はいつもの指定席にちんまりと座って、凍える手に息を吹きかけて温めつつ、彼らが広いグラウンドを駆け回るのを眺めていた。
初対面で薫をブラコン呼ばわりして怒りを買った片瀬だったが、あれから薫に絡むようなことは全くなく、寧ろ存在を無視しようとしているようにすら見えた。
絶頂期に突然サッカーをやめ、と思ったら何故か足繁く弱小サッカー部を訪れるこの不思議な男が、気にならないと言えば嘘になる。しかし薫は知らん振りを貫き、自分から声を掛けることはしなかった。
これまでのようにひたすら明良のプレーを見守りつつ、ふと気付くと何故か片瀬を目で追っていることがあり、慌てて視線を戻すことも少なからずあったのだが。
「やっぱ……ずば抜けてるよなあ………」
指先をこすり合わせながら、誰にともなく呟く。オフサイドがどんな反則なのか辛うじて知っている程度の素人だけど、片瀬と明良の動きが周囲から抜きん出ていることくらいは分かる。
片瀬はともかく、明良は相当もどかしい思いをしているのではないだろうか。もっとサッカーの強い学校へ行きたいという願いが生まれて当然かも―――
「そんなことないっ。あいつが俺と違うガッコに行きたがるはずが………」
しかし、強い否定の言葉は途中で力なく途切れた。あれは確かひと月ほど前。学校からの帰り道だった。
どんな話をしていたのかは覚えていない。たぶん教師の悪口とか最近出たゲームの話とか、そんな他愛もないことだったろう。明良は突然口を閉ざして俯き、そしてこう言ったのだ。俺がもし、家を出るって言ったらどうする？ と。
その時薫は、咄嗟に笑い飛ばした。お前みたいなガキが一人で家を出てどうするんだよ、小さい頃から俺の後ばっかくっついてきたお前がさ―――
すると明良は立ち止まって薫をじっと見つめ、
「なあ薫。俺さ、薫より１０センチも背が高いんだ。もう薫に守られてた頃の俺じゃないんだよ。だから―――」
あの時、明良は続けて何か言おうとした。しかし薫が「生意気言ってんじゃねえよっ」と小突いたせいで言いそびれてしまい、それっきりになってしまったのだ。
明良が何を言おうとしたのか気にはなるけれど、聞くのは恐かった。何故だかはっきり分からないけれど、“それ”を聞いてしまったら大事なものが、これまで必死に守ってきたものが壊れてしまうような気がして………
「ああーーーっ、もう！ 気にしない！」
薫は自分を鼓舞するように叫んですっくと立ち上がった。どうやら、鬱々と考え込んでいる間に練習試合は終わっていたようだ。一年が片付けをして、残りの部員はグラウンドの中央に集まっていた。
薫はいつものようにぱたぱたと勢いよく駆け下りて、真直ぐ明良の元へ向かう。が、思わず途中で足を止めた。一人の女子生徒が明良に近付くのを見たからだ。
彼女は控え目ながらもはっきりと「藤崎くん」と声を掛けた。すると明良は驚いたものの、すぐに嬉しそうに破顔して「おう」と返す。
「あの……もしよかったら一緒に帰らない？」
「お、おう。いいよ。すぐ着替えてくるから待ってて―――」
「明良ッ」
意識したわけではないのに、つい刺々しい声で名前を呼んでしまう。薫の声にびくんと肩を震わせた明良は、困惑も露わに近付く薫を見返した。
「明良っ、一緒に帰るぞ」
「あ、えと……いや、俺は………」
彼女の方をちらと見て、困ったように眉根を寄せる。しかし構わず薫はずんずん近付いて、明良の腕を掴もうとした。が、
「俺はこいつと一緒に帰る。だからお前らも二人で帰れ。じゃあな」
片瀬がぬっと手を伸ばして薫の腕を取り、そのままぐいぐい引っ張っていった。もちろん薫は顔を真っ赤にして暴れる。
「ちょっ………離せよ！ なんで俺がお前と一緒に―――」
「小猿は大人しくしてろ。じゃあな、明良。兄貴はちゃんと家まで送り届けるから」
離せっ、殴るぞっと喚く薫を易々と引きずり、グラウンドを後にする。明良は暫し呆然と見送っていたが、やがて優しく目を細めて微笑むと、「じゃあ、俺たちも帰ろうか」と言って彼女の手を取ったのだった。
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