クリスマス、雪の降る夜に
２.
―――なんだろう………とても温かい……身体がふわふわして……こんな心地よい眠りは久しぶりだ………それにどこからか……子どもの楽しげな笑い声が………
「んっ……んぅ…………」
震える瞼をこじ開けると、淡く霞む視界いっぱいに人の顔が。
「うわぁっ」
思わず大声を上げた雅人だったが、すぐにそれは幼い少女だと気付いた。少女は少し不満げに唇を尖らせて、
「もおっ。せっかく私のキスで、王子様を目覚めさせてあげようと思ったのに〜」
しかしにこっと笑って「今からでも遅くないもんね」と言い、抱き付こうとした。すると少女より少し年上かと思われる少年が割り込んできて、
「おい、アニスっ。目を覚ましたら教えるようにってマージに言われてただろっ」
「やぁだ。キスしてからでも遅くないもんっ」
途端にぎゃあぎゃあ言い争いが始まった。その後ろからもう一人、古風な丸眼鏡をかけた少年が立ち上がり、窓を開けて大声で叫んだ。
「マージっ、王子様が目を覚ましたよ！」
すると細い路地を隔てた向かい側から、「はーい」という朗らかな声が聞こえた。丸眼鏡の少年は窓を閉め、雅人に向かって礼儀正しくお辞儀をして、
「失礼致しました。すぐに参りますので少しお待ちください」
気取った声でそう告げると、まだ喧嘩している二人を窘めた。雅人は何がなんだか分からず、ただ瞬きを繰り返すばかり。そうするうちにぱたぱたと足音が響き、部屋の扉が大きく開けられた。
そこから現れたのは、美しい金髪を後ろでひとつにまとめた若い女性。雅人に挨拶する余裕も与えず、「ああ、気が付いたのね、よかった」と言ってにっこり笑った。
雅人は戸惑いつつも「お陰さまで」と返し、そしておそるおそる伺う。
「あの……ここは一体………」
「ああそっか。ちゃんと説明しなくちゃね。ここはあたしの家。それはあたしのベッド。あなたはここから２ブロック離れた路地裏で倒れていたの。背中にいっぱい雪が積もって、ぴくりとも動かないから手遅れかと思ったけど、元気そうでよかった」
ようやく事情が呑み込めた。恐らく凍死寸前のところを、彼女に助けられたのだろう。
「びっくりしたわ。この若さで行き倒れなんて」
「すみません……。助けていただいてありがとうございます………」
本当は、あのまま静かに命尽きても良かった。いや、寧ろそれを望んでいた。しかし助けてくれた人に対してそんな本心を打ち明けるわけにもいかず、雅人は神妙な態度でとにかく礼を言った。
マージと呼ばれている女性は、一瞬厳しい眼差しで雅人を見据えたが、すぐに元の朗らかさを取り戻して明るく笑い、
「お礼を言うならこの子にもね」
そして続き部屋の扉を開けた。するとヴァンスが飛び込んできて、ベッドの周囲で嬉しそうに跳ね回った。
「ヴァンスっ」
手を伸ばして抱き取る雅人を、マージは目を細めて見つめ、
「その子がね、あたしが働いている食堂まで教えに来たの。最初は食べ物が欲しいのかと思ってチキンの骨をあげたけど、見向きもしないで必死に吠えるからその後を付いていった。そしたらあなたが倒れていたというわけ」
「そうだったのですか………」
腕の中で、尻尾を千切れんばかりに振って喜ぶヴァンスを見ていると複雑な感情が湧き上がる。なあヴァンス、俺はまだ生き続けないといけないのか………
「ねえねえ、その子の名前ヴァンスっていうの？」
これまで二人の会話にじっと耳を澄ませていた少女が、我慢しきれなくなったのか会話に割り込んできた。雅人は淡く笑って「そうだよ」と返す。
「ええ〜〜、チビちゃんの方が可愛いのに」
「チビちゃんなんてヘンな名前っ」
また喧嘩を始めた二人をよそに、丸眼鏡の少年は好奇心溢れる声で、
「もしかして、ヴァンスとはヴァン・ダインの探偵の名前ですか？」
「ん？ ああ、そうだよ。賢くなるようにってね」
少年は途端に瞳を輝かせ、
「ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』を読んだことがありますかっ？ あれは見立て殺人の最高傑作だと僕は思うのですが―――」
しかし途中でマージに「こらっ」と遮られる。
「いい加減になさい。彼は今目を覚ましたばかりなのよ。それにあんたはまた、そんな人殺しの本ばっかり読んで。ほらっ、ライアンとアニスもっ。喧嘩をやめてこっちに来なさい」
そしてベッドの横に整列させ、紹介を始めた。
「あたしはマーガレット、マージって呼んで。そしてこの小生意気なのがニール。このうるさい二人は、ライアンとアニス」
「俺は雅人。日本人です」
日本人という言葉に再び好奇心を刺激されたのか、三人とも我先にと質問を浴びせる。しかしマージの制止に遭って渋々口を噤んだ。
「ああ、それから」
マージはくるりと振り向いて手招きする。扉の陰にもう一人、小さな少年がじっとこちらを見つめていたのだ。
「この子は末っ子のジュリアン。以上、覚えられた？」
「はい、もちろん。ところで、みんなマージの子どもなんですか？」
マージはぱちぱちと大きく瞬きしたが、すぐに大声を張り上げて、
「あたしはまだ二十歳なのよッ。この子たちはみんなあたしの兄弟なのっ」
「うわっ、失礼しました」
「年が離れてるのは、あたしだけ前妻の子だから。全く、レディに対して失礼なんだから」
怒っていたと思ったら、またすぐに朗らかな表情に戻って、
「じゃあ、あたしは店に戻るから。ゆっくり休んでいてね」
「えっ？ いや、そんな………」
雅人は慌てて起き上がり、ベッドから下りようとする。これ以上世話になるわけにはいかない。しかし床に足をつけた途端かくんと膝が折れ、へなへなと座り込んでしまった。
みんな一斉に手を差し伸べて起き上がらせ、ベッドへ戻してやる。マージは呆れたと言わんばかりに肩を竦め、
「そんなへろへろの身体でどうするの。ここで大人しくしていなさい。後で食べ物を運んできてあげるから」
「いえ、でも………」
「あたしはこの子たちのベッドに潜り込むから大丈夫。何も考えず、ゆっくり身体を休めるの。分かったわね？」
雅人ははっと顔を上げてマージを見つめた。そして確信した。ああ、彼女は分かっているのだ、自分が自ら死へ向かおうとしていたことを。
雅人が頷くのを確認すると、マージはふわりと笑った。そして「あたしは雅人といっしょに寝るぅ〜」と駄々を捏ねるアニスを叱り飛ばして、部屋を出ていった。
こうして、奇跡のような雅人のクリスマス休暇が始まった。
その翌日、雅人は丁重にお礼を言って帰ろうとした。しかしまだ体力が回復していないことを指摘され、暫くここにいてはどうかと提案された。
マージの兄弟たちも雅人とヴァンスを気に入ったらしく、帰らないでと泣き喚いて腕にしがみ付いてきた。マージたちの父親も気のいい男で、ゆっくりしていけよと勧めてくれた。
雅人は正直困惑していた。こういう騒々しさは嫌いではないが、今はとても彼らと一緒に楽しく過ごせるような気分ではない。
それにキッチンを含めてたった三部屋しかないマージの家はすでに人員オーバーで、居候を迎え入れる余裕などないように見えた。しかしマージは全く気にしていない様子で雅人の肩をぽんぽん叩き、
「せめてクリスマス休暇の間はいてくれないかなあ。ほら、学校は休みだけど、あたしは食堂があるからこの子たちの相手をしてあげられないし。ね、いいでしょ？」
彼らの母親は数年前に亡くなったということだった。確かに子供たちだけ置いておくのは心配だろう。食堂は家のすぐ向かいとはいえ、しょっちゅう抜け出して様子を見にくることもできまい。
「……分かったよ。なら、クリスマスが終わるまで厄介になろうかな」
その言葉を聞いて、みんな手放しで喜んだ。普段は余り感情を面てにださないジュリアンまで、顔を真っ赤にして喜んでいた。
「みんな、雅人の言うことをちゃんと聞くのよ」
マージは一応釘を刺してから、仕事へ出かけていった。
それから雅人の奮闘は始まった。ライアンの相手は主にヴァンスが。狭い家の中でサッカーをして遊んでいるその傍らで、ニールの勉強を見てやる。膝の上にはアニスが。
ニールは向学心旺盛で利発な少年で、雅人がジルアード学院の学生だと知ると目を輝かせて授業内容を聞きたがった。
意外なことに、最も手の掛からないのは末っ子のジュリアンだった。ジュリアンはいつも部屋の隅でスケッチブックを広げ、一心に何かを書いていた。
「なあライアン。ジュリアンと一緒には遊ばないのか？」
雅人の言葉にライアンは驚きを隠さず、「そんなのできるわけないじゃん」と答える。そして再びヴァンスとサッカーに熱中してしまった。するとニールが声を低めて、
「ジュリアンは心臓が悪いんです。ライアンのように走ったり騒いだりしたら大変なことになる」
「そうなのか……。いや、済まなかった」
「いいえ、謝ることはありません。知らなかったのだから当然です」
大人びた声でそう返すと、テキストに戻って雅人に質問を始めた。雅人は丁寧に答えつつも、ちらと横目でジュリアンを見つめる。彼はまだ一心に何かを書いていた。
「ええ、ジュリアンは先天性の心臓疾患を持っているの。心臓の弁に異常があって、血液が逆流してしまう病気………」
その日の夜、仕事から戻ったマージにジュリアンのことを訊ねた。マージはいつもの朗らかな顔を微かに曇らせて、教えてくれた。
「投薬治療とあとはひたすら安静にしていることで、何とか普通の生活を送れてはいるのだけど、やっぱり他の子供と同じように遊びたいでしょうね」
「そうか……手術という選択肢はないのか？」
「あるわ。でもお金がない。入院費や手術費は、私たちのようにギリギリの生活を強いられている者にとって到底用意できる額ではない。ジュリアンの病を治すために、ニール、ライアン、アニスを飢えさせるわけにはいかないわ」
迷いのない口調。しかしそう言うマージの顔は苦悩で歪んでいた。雅人はそれ以上何も言えず、傍らにある小さなツリーを眺めた。
「ね、雅人。クリスマスの日は一緒に教会へ行きましょう。２５日と２６日は食堂も休みだから、特別ディナーをご馳走するわ。ま、大したものじゃないけど」
「俺は……教会には………」
自死を望んでいる人間に、教会の敷居は高い。それに親への反発から、雅人はキリスト教に対する複雑な思いがあった。
しかしマージは珍しく厳しい口調で、
「だめ。行くの。もしかしたら、何かが変わるかもしれないわ」
「何も……変わらないさ」
「もしかしたら、って言ったでしょ？ 神の御前でもう一度自分を見つめ直した時、進むべき道が見えてくるかもしれない」
マージの誠意は伝わったが、やはり無意味な言葉としか思えなかった。しかし断るのも億劫だったから、「分かったよ」と了承を告げる。
マージは嬉しそうに笑って、「神様は悩める者を導いてくださるのよ」と確信的な口調で言い置いた。
マージの家に来て三日目。珍しくニールが弟たちの相手をしてくれたため、雅人は部屋の隅にいるジュリアンの許へ。彼は相変わらず大きなスケッチブックに向かっている。
雅人は後ろからそっと近付いて覗き込んだ。と同時に、思わず声を上げてしまう。
「すごい……すごいな、ジュリアン」
ジュリアンはびくんと肩を揺らしてこわごわ振り向いた。雅人は「驚かせてごめん」と詫びながら、隣に腰を下ろした。ジュリアンのスケッチブックは、灰色の細かな描線で埋まっていた。
それは見たこともない美しい風景。色のない鉛筆描きにもかかわらず、木々の葉に反射する眩い光まで見事に表現されている。
雅人の賛辞に誠意を汲み取ったのか、ジュリアンは恥ずかしそうに俯きつつも絵を隠そうとはしなかった。
「他にもあるのか？」
ジュリアンは小さく頷いて、別のスケッチブックを手渡す。そこに描かれているのは全て、ジュリアンが行ったことのない、そしてこれからも恐らく行くことのないであろう異国の風景だった。
オリーブの木が輝く南イタリア、ギリシアの神殿、砂漠のキャラバン―――雅人は次々とページを繰り、ジュリアンが描く豊饒の世界に見入った。
「お兄さん、これも見て……」
珍しく、ジュリアンが自分から差し出してきた。それは、伏し目がちに優しく微笑む女性を描いた絵。雅人は見覚えがあった。これは確か………
「これは……ラファエロの聖母像か……」
ジュリアンはこくんと頷き、本で見たのを模写したんだ、と控え目に付け加えた。さらに声を低めて、
「この絵、マージへのクリスマスプレゼントにしようと思って……」
「マージへの？」
「うん。マージはこの絵がとても好きなんだ。この絵のポストカードを大切にしている。マリア様の顔がね、マージのママに似てるんだって」
そしてひと言、「喜んでくれるかなあ」と不安げに呟いた。雅人はその肩を優しく撫で、
「こんな嬉しい贈り物はないと思うぞ。マージは大喜びで、きっと大事に大事に飾ってくれる」
その言葉にジュリアンは心からの笑顔を見せた。そして頬を赤らめ、
「僕ね、いつかフィレンツェに行って本物のラファエロを見るんだ。それで毎日美術館に通って、全部の作品を模写するんだ」
しかし、最後に「無理かもしれないけど…」と付け足す。雅人は肩に置いた手に力を込め、
「無理じゃない。もっと大きくなったらきっと行けるさ。それまでこうしてたくさん描いて、腕を磨いておくといい」
「うんっ」
大きく頷いて再びペンを取り、創造の世界に没頭し始めたジュリアンを、雅人は目を細めて見つめた。
絵を描くのが大好きで、出来上がるたびに少し誇らしげに見せに来た弟、雅紀の面影を重ねながら。
２４日、クリスマスイブ。食堂を閉めた後、みんなで教会へ向かった。夜遅いこともあり、アニスやライアン、ジュリアンたち年少組はうつらうつらしていたが、外に出るといつもと違う華やかな夜の景色に目が冴えたらしく、早速はしゃぎ出した。
「ミサの間は静かにしてるのよ」
マージの言い付けなど頭を素通りしているように見えたが、教会に入って席につけばみな神妙な表情になり、敬虔な祈りを捧げた。雅人も形だけは従順なクリスチャンを装ってみたものの、やはり心の中は冷めていた。
荘厳な教会も、透き通るような賛美歌も、一心に祈りを捧げる人々の表情も、胸の中央に大きく穿たれた虚（あな）を埋めることはできない。
この数日間、マージたちと一緒に過ごしたことで、久しぶりに人間らしい生活ができたことは確かだ。しかしそれも、絶望という死に至る病を癒すことはなかった。
もちろん雅人もそれを期待していたわけではない。この病を癒すことができるのは、この世でたった一人だけなのだ。
「さあ、家に帰ってクリスマスのご馳走を食べましょう」
マージの号令に従ってみな立ち上がる。外に出ると、一段と冷え込んだ夜気が皮膚を突き刺した。教会の中も寒かったが、外の冷え込みはその比ではなかった。
「うう〜、寒いっ。早く帰ろお」
アニスの言葉に同調しつつ、コートの襟を立てる。が、マージが突然きょろきょろして「ジュリアンは？」と誰にともなく訊いた。確かに、さっきまで一緒にいたはずなのに近くに見当たらない。
「あ、あそこっ」
ライアンが指差す方、教会の裏手にちらと小さな人影が見えた。みんな「しょうがないなあ」とぶつぶつ言いつつ、迎えに行こうと歩き出した。
「やっぱりジュリアンだ。祠のマリア像を見てるんだな」
ニールの言葉通り、小さな祠を身を乗り出して眺めている。その時、ジュリアンの身体がぐらりとよろめいた。と思ったら微かな水音と共に、その身体は闇に呑まれるように消えた。
一瞬の出来事で、誰もが呆然と立ち尽くす。祠の手前にある池に落ちたと気付いたのは、数秒後のことだった。
「ジュリアン！」
最も早く行動を起こしたのは雅人だった。全速力で駆け寄ると、池のほとりに膝をついて手を伸ばす。
「ジュリアン、掴まれっ」
ジュリアンは悲鳴も上げず、ただ必死に手をばたつかせて浮き上がろうとする。雅人はその手を掴もうとさらに身を乗り出した。そして手が届いたと思った瞬間―――
「………ジュリアンっ！」
ジュリアンの身体は、黒い水の中へ沈んでいった。雅人は迷わず池の中に飛び込み、その身体を抱いて引き上げる。掠れた悲鳴を上げて震えるマージでは駄目だと判断し、ニールに向かって救急車を呼ぶよう言い付けた。
ニールはガタガタ震えつつも気丈に頷き、教会へ向かって走っていった。腕の中のジュリアンはぐったりして、ぴくりとも動かない。雅人はその場に横たえて、祈るような気持ちで人工呼吸を繰り返した―――
ジュリアンの死亡が確認されたのは、それから四時間後のことだった。もともと弱い心臓は、冷たい水のショックに耐えられなかったのだ。
遺体を家に引き取ると、家族は突然の不幸にどうしてよいか分からず、悲しみと疲労に沈み込むようにぐったりと倒れ込んだ。
「………雅人」
部屋の隅で頭を抱え込んでいる雅人のもとに、マージがそっと近付く。マージは泣き腫らした目をしていたが、涙を流してはいなかった。
「マージ……みんなは？」
「泣き疲れて眠ってるわ。その方がいい。これからの方が大変でしょうし」
「そうか……。済まない、助け……られなかった…………」
マージは労わるような笑みを向け、
「あの池は……前から危険だと思っていたの。柵も何もないし。ジュリアンはきっと、聖母像に気を取られて………。あなたは迷わず飛び込んでくれた。ありがとう、きっとジュリアンも感謝して―――」
しかし雅人は激しく首を振って、マージの言葉を遮る。そして爪が喰い込むほど強く両手を握り締め、
「違うんだ……あの時、俺の手はジュリアンに届いた。確かに届いたんだ。でも―――」
「あの子が、自分から手を離したのね？」
淡々と問い返すマージに雅人は驚きを隠さず、弾かれたように顔を上げて一心に見つめた。対してマージは、優しく包み込むような眼差しで応え、
「雅人、あの子はね、自分が生きていることにずっと罪悪感を抱き続けてきたの。母親は、ジュリアンを生んでから体調を崩してそのまま亡くなってしまった。そして心臓の病。その治療費が家計を圧迫していることを、言われなくてもちゃんと察していた。自分のせいで、自分が生まれたせいで家族を不幸にしてしまった、と………」
「あああ………」
兄ちゃんごめん、こんな弟でごめん―――血塗れの唇でそう告げ、死んでいった雅紀。僕は生まれてきてはいけない子供だったの―――涙も見せず、淡々と自分の存在を断罪する純―――
「そんな……罪悪感だなんて……ジュリアンは生きたかったはずだっ。なのに―――」
「そうね。でも、生きたくても生きられない子供はたくさんいるのよ」
その瞬間、マージの表情が険しく尖った。透徹した厳しい眼差しで雅人を突き刺し、
「あたしはあなたのことを何も知らない。あなたの苦しみも悲しみも何も分からない。それでもあなたに命じます。生きなさい、生き続けなさい。何があっても」
「マージ………」
「死んで解決することなんて何もない。何もないのよ。生きてさえいれば………」
マージはその場にがくりと膝をつき、喉の奥から叫んだ。
「生きてさえいてくれればっ――――」
あとは言葉にならず、掠れた嗚咽を搾り出すばかりだった。
「さあ、ヴァンス。行こう」
小さな棺、悲しみの葬列。それらに背を向けて、雅人とヴァンスはマージの家を後にした。
たった数日間の居候の身で、家族の悲しみに割り込むことはできない。雅人は後ろ髪引かれる思いで狭い路地を歩いた。
「生きてさえいれば………」
胸奥に刻み込まれたマージの言葉。これから自分は、この言葉を何度も噛み締めることになるだろう。
純のいない痛みに潰され絶望しそうになった時、生きてさえいればと自分に言い聞かせて踏みとどまる。生きてさえいればいつか逢える、きっと逢える、と。
「ああ、寒いと思ったら………」
灰色の空から白いものがひらひら舞い降りる。雅人はポケットから手を出して、小さくて冷たい雪の結晶を受け止めた。
―――なあ純……お前の住んでいる町にも雪は降ってるのか？ 寒くないか？ 風邪なんて引くんじゃないぞ………
雅人は再びポケットに手を入れると、ゆっくり歩き始めた。
生きてさえいればいつか逢える、きっと逢える――――
（Fin）
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