Innocent Future
１.
「桐生くんっ。待って、ちょっと待ってよ」
「何だよ」
「こ、この前の返事聞かせて。今彼女はいないって―――」
「この前？ なんだそれ」
「なんっ……あたし必死で告ったのよ！ なのに―――」
「悪い。覚えてねえ」
呆然と立ち尽くす彼女を振り向きもせず、雪仁はすたすた去っていった。
「ゆっきひっと、おはよー。見てたわよぅ。またまたやっちゃったのねえ」
屈託のない笑顔をまき散らして元気いっぱい声を掛けてくるのは、クラスメートの桜井那智（さくらい・なち）。しかし雪仁はじろりと睨んだだけで、挨拶を返そうともせず自分の席にどっかり座り込んだ。
「覚えてない、って一番傷付くのよ。あの人、高等部の２年生よね。相変わらず年上におモテになることで。雪仁もいい加減にさあ―――」
「名前で呼ぶな」
男女問わず、他の人間なら一発で竦み上がってしまう低い声。しかし那智はちらと肩をすくめて舌を出し、
「へえへえ。名前で呼んでいいのは大事な想い人だけ、ってわけ？」
雪仁は一瞬こめかみをびくりと波打たせたが、否定も肯定もせず見事に無視して読みかけの本を広げた。しかしいつもにも増して教室内が騒がしいのに気付き、ぱたんと本を閉じて那智に訊いた。
「おい、何かあったのか？ やけに騒がしいな」
「そうなの。何でもね、高等部の新しい保健の先生がすっごく綺麗な人なんだって。こっそり見に行ったり、みんな大騒ぎ」
「は…ん。でも、女も騒いでるじゃねえか」
「そりゃそうよ。その先生って男の人なんだもの」
雪仁の頭の中で何かが点滅した。そういえば少し前にあの人に会った時、何だか思わせぶりな笑顔を浮かべて思わせぶりなことを言ってたような……。もうすぐ雪仁くんとおんなじ所に通うことになるんだあ、と。
「おい、その保健医ってどんな奴なんだ」
雪仁は立ち上がって、騒いでいる輪の中に入っていった。自分たちが夢中になっている話題に彼が興味を示すなんて初めてのことで、みな驚いて一瞬固まったが、すぐに女子生徒が頬を赤らめつつ上目使いで見つめて、
「うん、あのね。この学園の卒業生で、伝説の“姫”で、とにかくもうすっごく綺麗な人。特にね、深い紫色の瞳が―――」
雪仁は最後まで聞くことなく教室を飛び出した。もちろん目指すは隣接する高等部の校舎。こんな風に慌てた彼の姿を見るのも、一年の頃からのクラスメートにもかかわらず初めてのことだった。
「うーん、青春じゃのぉ」
那智も事情はよく分からなかったものの、突然の行動の核に制御しきれない熱情のようなものを感じて、思わずうなって頷いた。
「な…んだよこれ………」
まだ授業開始前だというのに、高等部の保健室前には人が溢れていた。登校しただけでこんなに怪我人、病人が出ていては、授業が終わる頃には学校閉鎖である。
雪仁はためらうことなく人だかりの中に飛び込み、力任せに掻き分けて中に入る。中等部の彼にとっては全員先輩であるのだが、もちろんそんなことお構いなし。すでに１８０センチ近くある長身は、周囲から頭ひとつ抜きん出ていた。
そうしてぐいぐい前に進むうちに、聞き慣れた柔らかな声が耳に届いてきた。
「………あ、ここ擦りむいちゃったんだね。うん、今消毒するからね。そっちの君は……あ、指切ったんだ、それから君は……熱っぽいの？」
人ごみを掻き分けて保健医のもとに辿り着いた雪仁は、思わず声を荒げて叫んだ。
「純さんっ、何をしているんですかッ」
「あ、雪仁くんだぁ。わあ、わざわざ来てくれたの？」
忙しさのせいか頬を真っ赤にした純が、雪仁を見るなり嬉しそうに微笑んで声を上げた。
皺ひとつないぱりっとした白衣が眩しかったが、それ以上に眩しかったのはその笑顔。雪仁は思わず目を細めてじっと見入ってしまった。
「おい……こいつ中等部の桐生じゃねえか」
「げっ、これがあの………」
周囲がざわつき始めたが、当の雪仁は気にも留めずずかずかと近付いて、
「なんで……こんな学園の保健医なんかに」
雪仁の刺々しい質問にも、純は笑顔で答える。
「前任の先生が辞めることになってね、それで僕が来たんだ。ここにはお世話になったから、恩返しができるかなあ、って」
純が来るまでは、宗一郎がずっと保健医を務めていた。しかし日向が新しい理事長になるとその補佐役としての仕事が忙しくなり、辞めざるを得なくなってしまったのだ。
「だからって………」
「それにね、あと一年したら雪仁くんも高等部に来るでしょ？ 一緒のとこに通えるんだよ。わくわくしない？」
余りに脳天気な言葉に、雪仁は思わずカッとなった。
「そんなことどうでもいい。まったく、あなたには呆れて言葉も出ねえ」
くるりと踵を返すと、先輩方を払いのけて帰っていった。
「ゆきひとくん……」
何か気に障ることを言ってしまったかと、純はしゅん、と項垂れた。
「先生……あいつの、桐生の知り合いなんすか？」
「う、うん……ちっちゃい頃から知ってるんだあ。って、みんなも知ってるの？」
すると、周囲にいた高等部の生徒たちは一斉に頷き、
「あいつを知らない奴なんていないすよ。来年は高等部に来るってんで、男はびくびくしてるし女はうきうきしてるし」
「いわゆる不良ってもんじゃないけど、女はとっかえひっかえだし、カッとなったらすぐ手は出るし、すでに伝説の類いは数え切れないほどあって―――」
―――うう……昔聞いたことあるようなないような……
純は思わず額を押さえて、遺伝子の神秘について想いを馳せてしまったのだった。
―――何であんなに……無邪気に他人を信用できるんだよ………
保健室を飛び出した雪仁は、高等部の校舎にもかかわらず、周囲の視線などお構いなしにどかどか足音を荒げて歩いていた。
腹立たしくて仕方がない。あのぽわんとした無邪気さが純の魅力であり、美貌にさらなる輝きを添えていることはよく解っている。けれどこの学園の、しかも高等部の保健医になるなんて、暴挙以外の何ものでもない。
現に、さっき保健室に集まっていた生徒の中にも、かなり怪しい目つきをした、欲情していると言っても過言ではない男たちも多数混じっていた。
授業中、或いは放課後といった人のいない時間を狙って忍び込んできた男たちに、保健室のベッドに押し倒されて――なんて想像するのもおぞましい事態だって十分あり得る。なのに―――
「おや？ あなたは確か中等部の………」
怒りに任せ、周りも見ずに歩いていたから、今自分がどこにいるのか分からなかった。が、声を掛けられ顔を上げると、目の前には新しい理事長がにっこり笑って立っていた。
彼が理事長になった時、生徒たちはみんな大喜びでこの若く美しく優しそうな理事長を、アイドル並みの熱狂で迎えた。しかも彼は、蒼薇の自由な校風を今後も尊重しつつ学園を運営していくと約束したのだから尚更、彼への賛美は高まった。
しかし雪仁はその熱狂の渦の中で、この新しい理事長の聖母のごとき微笑みに、何か油断ならぬものを感じていたのだった。
権力や統制というものは、気付かぬうちに組織に浸透してゆくもの。自由に判断し自由に行動していると思い込んでいたのが、実は知らぬ間に誘導されていた、というのは歴史上でもよく見られる悲喜劇だ。
だから安易に自由を口にして、それを餌のように振りかざす人間には気を付けるよう、雪仁の半ば本能的な警戒心が働いたのかもしれない。
だから今も、軽く一礼しただけでその前を通り過ぎようとした。しかしさらに呼び止められたため、立ち止まって渋々ながら顔を上げた。
「何でしょうか……日向理事長」
「純の様子はどうでしたか？ 会いに行ってきたのでしょう？」
会いに来たことを否定しても無駄だと分かっていたから、雪仁は素直に答えた。
「次から次へと怪我人や病人が押しかけて、真っ赤な顔して対応してましたよ。何だか熱っぽいとか、怪しげな病状を訴える奴にまで真剣に対応して。見ているこっちが辛くなってくるほどにね」
雪仁の刺々しい返答に、日向はうっとりと目を細めて微笑み、
「ああ……純らしいですね。真っ赤に染まった愛らしい頬が目に浮かびます」
雪仁は苛立ちも露わに奥歯を鳴らした。まったくどいつもこいつも、どうしてこう脳天気なのか―――
「桐生君、あなたの不安もよく解ります」
雪仁ははっと顔を上げて日向を見た。彼はもう笑ってはおらず、心の奥まで見透かすような透徹した眼差しをこちらに向けていた。背筋に冷たいものが走る。
「私も、純の周辺にはなるべく目を光らせておくつもりです。よからぬことを考える輩から彼の安全を守るために。ですからあなたにもお願いしたい。来年には高等部に来るのでしょう？ どうか純のことを頼みます。守ってあげてください」
日向は深々と頭を下げた。一介の生徒に過ぎぬ、しかも中等部の雪仁に対して。そして颯爽と去っていった。
雪仁はその背中を見送りながら、自嘲めいた嗤いを漏らした。日向の真意に気付けぬような雪仁ではない。
―――俺の、あの人への気持ちはお見通しってわけか。だから……
そう、だから先手を打ってきたのだ。雪仁が純に対して暴走しないように、先にナイト役を押し付けるというやり方で。
雪仁はチッと豪快な舌打ちを残して、中等部の校舎へ戻った。
「あ………もう帰ってるんだぁ」
自宅の窓から杏色の灯りがこぼれているのを見た純は、灯りに誘われるようにすたすたと歩調を速めた。
そして家に着くと、荷物だけ置いてキッチンへ。すると玉ねぎを炒める香ばしい匂いが漂ってきた。
「ただいまあ」
「おう」
上着を脱いでネクタイを外し、ワイシャツの袖を捲り上げた尭村が、こちらに背を向けたまま軽く手を上げて応えた。純は迷うことなくその背中にぎゅっと抱き付いて、「早かったんだね…」と囁く。
「ああ。明日から学会で京都だからな。今夜ぐらいはゆっくりしたい」
調理の手を止めてゆっくり振り向き、唇を軽く触れ合わせる。
「ごめんね、ご飯作らせちゃって……」
首筋に顔をうずめて、力ない声で詫びる純。しかし尭村はちらと眉をたわめて、
「何で謝るんだ？ お前が飯を作る義務はねえぞ。俺の方が早く帰ってきたんだから俺が作る。それだけのことだ」
「うん………ありがと」
尭村は腰に回した腕に力を込めて、身体をさらに密着させた。そして、
「初日だからな。張り切り過ぎて疲れたんだろう？」
明らかに今朝家を出た時よりしおれている純を、さりげなく気遣う尭村。純はいつも、自分が甘やかされていることを自覚しつつも、差し伸べられる温かな手に頼ってしまうのだ。
「それもあるけど……雪仁くんがね、何かちょっと変で………」
「雪仁が？」
「うん。保健室にわざわざ来てくれたと思ったら、何で保健医なんかになったんだ、って怒ったような口調で………」
雪仁がそう言いたくなる気持ちが、尭村にはよく解った。しかし敢えて的外れの宥めをかける。
「照れがあるんじゃねえの？ 自分の知り合いが、しかもガキの頃を知ってる知り合いが、保健医とはいえ教師として学校にいるってのは気恥ずかしいものだぜ、きっと」
「そっかなあ……」
「ああ。あの年代のガキは難しいからな」
尭村の宥めが効いたのか、純も徐々に納得していった。
「そうだね、いつまでもちっちゃくて可愛い雪仁くんじゃないものね」
「お前よりずっとデカイじゃねえか」
純はもおっ、と膨れてから少し淋しそうに笑って、
「きっと喜んでくれるだろう、って勝手に思い込んで、そうじゃなかったから落ち込むなんて、しかもそれを雪仁くんのせいにするなんて身勝手だったね。はあ、反省」
かくん、と首を折って項垂れる純の頬を大きな手のひらで包み込んで、
「それにな、お前の生徒は雪仁だけじゃねえだろ？ あいつばかり特別視してたら保健医失格だぞ。ほら、前の保健医の―――」
「宗一郎先生？」
「ああ。あいつはもともと日向のことが心配で保健医になったはずだ。けれど決して、他の生徒を疎かにするようなことはなかった。お前の身体のことも本気で心配してたしな。俺もよく怒鳴られた。欲望を押し付けるだけのセックスはするな、と」
純は懐かしさと恥ずかしさを反芻しながら、こくんと頷いた。尭村はその頭をそっと胸に押し付けて、
「あいつ、よく言ってたよな。“俺は全生徒の健康を預かってるんだ”――」
「ふふ、覚えてる………本当に僕たちのこと思ってくれてたね…………」
純は微かに潤んだ瞳で尭村を見上げ、心を込めて言った。
「成仁、ありがと………僕がんばる…………」
尭村の顔がゆっくり近付いて、唇が重なった。これまで何千、何万回としたキスなのに、いつも触れ合った唇の、絡まり合った舌の甘さに翻弄されてしまう。
「純……明日から三日間一人だぞ。ちゃんと戸締りして飯も食って―――」
「だいじょうぶっ。お土産は湯豆腐セットね。土鍋にお湯沸かして待ってます………」
強気なことを言いながらやはり淋しさは隠せないのか、背中に爪を立ててしがみつく。尭村はもう一度唇を味わおうと純の顎に手を掛けて上向かせた。が―――
「ひゃッ」
小さな悲鳴を上げる純。何事かと振り向いた尭村は険しく眉を吊り上げて、
「おまえ〜〜、貢希（こうき）ッ。覗いてんじゃねえぞ」
キッチンのドアの陰から、小学生ぐらいの男の子がじぃっと覗いていたのだ。
「貢希くん、来てたんだぁ。ごめんね、気付かなかった」
純はにこにこ笑いながら近付いて、貢希をぎゅっと抱き締める。
「またママと喧嘩したの？」
貢希は不貞腐れたように頷いて、
「ぼく……ゲームしたいのにママがやっちゃだめ、って」
「うーん、ママはゲーム絶対にやっちゃだめって言ったの？ 違うよね？」
貢希は口ごもったものの、観念したのか素直に頷いた。
「学校と塾の宿題が終わったらしてもいいよ、って」
「うん、僕も宿題が終わってからの方がいいと思うなあ。その方がゲームにも集中できるでしょ？ まだ宿題やってない、っていう思いが頭に残ったままじゃあ、ゲームも楽しくないよ、きっと」
貢希はもじもじしつつ、それでも顔を上げて「うん、宿題やってからにする」と言った。そしてにっこり笑ってみせた。尭村は呆れたように、
「ったくよ、それくらいのことで家出すんなよな。いい迷惑だ」
そんなことを言いつつも、ちゃんとお菓子を出してやってるのだ。そして帰り際はいつも、また来いよとぶっきらぼうに言う。そんな無骨な優しさを、貢希もちゃんと受け止めていた。
「僕がいると純とイチャイチャできないからだ」
「おう、そうだ。その通り。お前みたいなガキがいるとな、純とあんなことやこんなことができねえんだよ」
純の呆れた表情をよそに、楽しげな言い争いを始める二人。しかしそれは家中に響くチャイムの音で断ち切られた。
「げ、ママだきっと」
貢希の予想通り、部屋に飛び込んできたのは―――
「貢希ッ、あんたはまたここに来て………どうしてママの言うことが聞けないのっ」
「だってぇ……ゲームしたかったんだもん………」
「もうっ。言ってるでしょ？ 貢希は将来Ｔ大に現役合格して、成仁より１年でも１カ月でも早く助教授になって、それで純より綺麗なお嫁さんを貰うのっ」
尭村は思わず額を押さえて、
「薔子、お前いい加減にしろよ……。大体なあ、純より綺麗な嫁さんなんていやしないぜ」
「はいはいごちそうさま。１万３２７９回目のノロケありがとうございますっ」
純も苦笑を漏らしつつ、「まあまあ」と薔子を宥めた。
「ねえママぁ。じょきょうじゅってそんなにすごくないみたいだよ。だって純も働き始めたんだもん。きっと安月給なんだよ」
「ええっ？ 純、ホントなの？」
「え、まあ働き始めたのは事実ですけど………」
「まあっ。成仁ってばえらそうなこと言ってる割には甲斐性なしなのねぇ。純、何かあったらいつでも言ってね。力になるから」
ぎりぎりと奥歯を噛み締め反論しようとする尭村を、純は視線で宥めた。そして、
「そうですよ。貢希くんだってどんな才能があるか分からないし。今は色んなことを経験させてあげた方がいいと思いますよ。ねっ？」
薔子は真剣な顔でうんうん頷いて、「じゃあ助教授は保留ね」と貢希にウインクしてみせた。そして、
「そろそろ帰るわ。純、いつもこの子のお守りありがとね。あ、成仁にも一応お礼言っとくわ」
「いらねえよ。早く帰ってくれ」
「この子がいると純とイチャイチャできない、ってね。分かりましたっ。貢希、帰りましょ。パパが一人で淋しがってるわよ」
薔子は息子の手を取って玄関に向かった。見送りのため付いてきた純に「それじゃ、またね」と短いながらも親愛のこもった挨拶をする。
純も笑顔で返して、手を繋いで寄り添いながら帰ってゆく二人の後ろ姿をじっと見送った。
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