２.

「成仁様、新婦の登場ですよ」

額賀の声は心なしか浮かれていた。たとえ“ごっこ”だと分かっていても、こういったシチュエーションには感動してしまうのが人情というもの。しかも花嫁は、眩いほどの美しさで。

額賀は本来なら、今日は貴仁のお供で家を空けるはずだった。しかし「ドレスの着付けや髪のセットやら、純一人では心細いだろうから」という貴仁自身の求めにより、家にいることになったのだ。もちろん、ちゃんと写真を撮っておくという条件付きで。

―――ああ、旦那様、感謝致します。このような晴れの日に私のような者を遣わして下さって

ウエディングドレスを着せるなんて……と成仁坊ちゃんの行く末に一抹の不安を感じていた過去は綺麗さっぱり忘れ、額賀は感涙に咽びながら純の仕度を手伝ったのだった。そして―――

尭村の待つ部屋へ、純の手を取って連れて行った。まるで、新婦の父親のように。額賀は、いつか見た映画のワンシーンを思い出して、本気で泣きそうになった。娘を嫁に出す父の気持ちとは、こういうものなのか、と。

もちろん純は娘ではないし、男だし、突っ込みどころは満載なのだが、それは野暮というもの。
額賀は、微かに震えの伝わる純の手を優しく包んで、「大丈夫、とてもお綺麗ですよ」と微笑んだ。





―――こ、これはヤバい。マジで泣きそうだ

尭村はそもそも、ウエディングドレスというものに深い思い入れがあったわけではなかった。いつかは純にやらせたいコスプレのひとつ、という軽薄そのものといった認識しか持っておらず、それ以上の意味を付加しようとは思っていなかったのだ。が―――

「純……こっちへ来てくれ。そんな…俯かないでくれ、頼む」

それを着た純は、まるで尭村のためだけに降臨した天使のようで、見る者に敬虔な感動を刻み込んだ。思わずその前に跪いて手を取り、恭しい口付けを贈りたくなるほどに。

「あっ、尭村さん………」

尭村はその通りの行動をした。純の前に膝をついて手を取り、華奢な指先にそっと口付ける。純は驚いたものの手を引っ込めることはせず、自分の手にうっとりと口付ける尭村をぼおっと見下ろした。

指先から伝わる仄かな温もりは徐々に純の緊張と不安を融かし、尭村が唇を離して立ち上がった時には、震えの代わりに微熱がしっとりと皮膚を覆い、薄桃色に染まった肌が甘い芳香を立ちのぼらせていた。
尭村が、不謹慎にもごくりと喉を鳴らしたのも仕方ないといえよう。

純が着た、もとい、着させられたドレスは、それはそれは可憐で愛らしいものだった。

きゅっと絞ったウエストからふわりと広がるスカートは、いわゆるプリンセスラインと呼ばれるデザインで、華やかさの中にも初々しさがそっと息づいていた。

貴仁の意見を取り入れて、丈は短すぎず膝が隠れる程度の長さだったが、３段ペチコートで布を贅沢に使ってあるため、ちょっと動いただけで裾が大きく広がって満開の花のようになった。その時にちらりと垣間見える膝小僧は、確かに、剥き出しの脚より艶かしい印象を与えた。

上半身部分はシンプルなベアトップで、装飾品も付けていない。華奢な頸や鎖骨が、唯一にして極上のアクセサリー。その上からシフォンのスカーフで緩く包み、背中で大きなリボンにして留めていた。

髪は緩くアップにして、ウエディングドレスの真髄、白いヴェールを留めて背中に沿わすように長く垂らしている。純が顔を上げると、ヴェールがふわりと漣（なみう）った。

「悪い………ちょっと言葉が出ねえ」

綺麗だとか感動したとか、そんな単語ならいくらでも思い付く。しかしどれもこれも、今の自分の胸中を表すのに相応しいとは思えなかった。

口にした途端、灰になって消えてしまうような陳腐な日本語。珠玉の沈黙に匹敵する自分だけの言葉を持ち合わせていないことに、尭村は口惜しさを覚えた。しかし、

「純……」

浴衣の時もそうだったが、いつもは不安げな上目使いで尭村の表情を窺おうとする純が、目を輝かせてうっとりと微笑むと、尭村の胸に頬を寄せた。大丈夫、僕には伝わってますから―――

暫しそうやって温もりを確かめ合った後、純は顔を上げて真摯な表情で訴えようとした。

「尭村さん……僕………」

しかし尭村はその唇を指先で優しく塞ぎ、

「駄目だ、純。先に言わせてくれ。俺は、お前を一生愛することを―――」

その時、玄関のドアチャイムが無情に響き渡った。





―――その数分前

「何なんだよ、日向ぁ。いきなり呼び出して。しかも沖秀まで」
「いいから黙って付いてきて下さい。どうせヒマなんでしょう？　極上のヒマ潰しをさせてあげますから」
「ったく、生徒会長様のやることはわけ分かんねえな。………って、おい。ここ尭村ん家じゃねえか」

森下は、見慣れた尭村家の門扉を前にして、日向に食ってかかった。秀はというと、日向の真意が掴めず、かといって森下のように喚くこともなくただひっそりと眉をしかめた。

「ええ。ですから、極上のヒマ潰しをさせてあげるって言ったでしょう？　ちなみに森下、今日は何の日だか知ってますか？」
「え……？　８月８日は……フジテレビの日か？」
「微妙に古いですね。そうじゃなくて、あなた、親友のくせに忘れているとは。友だち甲斐のない男だ」
「あ、あっ。あの野郎の誕生日か、……って、何で日向がそんなこと知ってるんだ」

日向はにっこり笑って、

「こう見えても、実は尭村とは仲良しなんですよ。……何ですか二人とも、その苦虫を噛み潰したような顔は。さあ行きましょう。可愛らしい花嫁が待ってますよ」

そして秀に意味深な視線を送ると、迷わずインターホンを押した。





「お邪魔します。今日は成仁君の誕生日ということで、私たちも呼ばれたのですが」

しゃあしゃあと言ってのける日向を、額賀は多少の不審感を抱きつつも、失礼のないよう穏やかな笑顔で迎え入れた。

「左様でございますか、成仁様が……」
「はい。何でも、ぜひ我々にも立ち会って欲しい、とか」

額賀は思わず目頭を押さえた。成仁様は、そこまで強い決意をもって今日に臨んでおられるのか……。

「分かりました。さあさ、どうぞこちらへ」

もちろん森下と秀は、何のことかさっぱり分からない。しかし、妙に確信的な日向の態度に口を挟むこともできず、黙って後を付いていった。

「成仁様、失礼いたします。お友だちの皆様がご到着されましたが」

すると、中で何やらばたばたと慌ただしくしているようで、扉を開けた尭村は明らかに狼狽している様子で声を張り上げた。

「なっ、何でお前らが来るんだよっ」
「何でって、今日はあなたの誕生日でしょう？　親友の我々がお祝いに来て当然ではありませんか」

憎らしいほど綺麗な笑みを浮かべる日向。額賀は、想像とは違う展開におろおろしている。尭村と日向は暫し睨み合っていたが、

「……分かった。ちょうどいい。お前らにも立ち会ってもらおう。入れよ」

顎をしゃくって３人を中へ入れた。そしてドアを閉めると、そのまま奥の寝室へ声を掛ける。

「純、出てこいよ。３人だけだ。日向と森下と沖秀」
「やっ、やだぁっ。何で秀までいるのっ。見せるのは尭村さんだけって約束したもんっ」
「しょうがねえだろ、来ちまったんだから。こいつらなら変に言い触らしたりしないだろうし。立ち会ってもらおうぜ」
「ふぇ〜〜ん」

そして半泣きの状態でおずおずと出てきた純の姿に、３人は息を呑んだ。

「なっ、なんだよ尭村、これはぁっ」
「何って、見りゃ分かんだろ。ウエディングドレスだ」

森下は頭を抱えて「うああぁぁ〜」とのけぞる。

「お前の変態度もとうとうここまで来ちまったかぁぁ」
「あのなぁ、俺は変態新婚プレイをするためにこんな小道具揃えたんじゃねえんだよ」

心の中で、“まあ、それもあるけどよ”と補足しつつ。

そんな遣り取りを横目に、さすが日向は素早く純の傍へ寄り、目の縁にじんわりと浮んだ涙を震える指で拭って、

「ああ……何かに感動して震えるなんて、本当に久しぶりです。純、そんなに恥ずかしがらないで、萎縮しないで。晴れの日に、涙は似合いませんよ」

恍惚の表情で囁く。そして腰に手を回して大きなふわふわリボンごと抱き寄せようとしたが、

「ひゅうぅがぁ〜、それは俺のだっつってんだろっっ」
「はいはい。そんな凄まないで下さい。まんま美女と野獣ですよ」

日向は優雅な所作で純の腕を取り、尭村の元へ返す。そして、

「さあ、尭村。ちゃんと言うことがあるでしょ？　“病める時も健やかなる時も……”」
「うるせっ、分かってるっ」

さすがに尭村も照れが隠せないのか、普段よりさらに凶暴なオーラを発して日向に噛み付く。しかし、本来の強かさを取り戻した日向は薄笑いでさらりと躱して、

「では私が神父役を務めさせていただきましょうか。さあ、二人並んで」
「おまえっ、悪ノリしすぎなんだよ」
「尭村ぁ、一番悪ノリしてんのはてめえだろがっ」
「さあさ、早く誓いのキスをしないと、神父さんが代わりにやっちゃいますよ」
「ふざけんな、このエロ神父っ」
「わーん、もう、何とかしてぇっ」

と、ドタバタしている間に、気を利かせた額賀は食事や酒の用意を完璧に整えていた。そして森下の「こうなりゃ宴会だ、宴会っ」という号令に背中を押されて、一行は尭村の部屋を出てリビングに向かったのだった。

この騒ぎの間中、秀だけはひと言も発さず、ただじっと純を見つめて深い思慮に沈んでいた。それに気付いていたのは日向だけだった。





「うわっ、すげっ、シャンパンだ。ピンドン、ピンドン」

森下は、ピンク色の超高級シャンパンを片手にはしゃいでいる。何だかヤケになっているとも見えるのだが。

「ほらね、来て良かったでしょう？」

と、細かな気泡が瞬く細長いグラスを優雅に掲げた日向は、しゃあしゃあと言ってのけた。ちなみに、全員未成年。

―――い、いいのかなぁ……

と殊勝なことを呟いている純も、しっかりグラスを握っている。薄いピンクのシャンパンに、純のだけは特別にイチゴ入り。真っ赤な果実にしゅわしゅわと白い泡がまとわりついて、とても美味しそうだった。

―――ま、いっか。夏休みだし。尭村さんのお誕生日だし

そんなの全く理由になりゃしないのだが、ともかく自分が納得できればそれでいいらしい。純は嬉しそうにグラスを掲げた。

「そんじゃ、早く飲みてえから始めようぜ。いいよな？」
「ああ。もう勝手にやってくれ」

尭村は呆れ顔で答えた。本当はこんなはずではなく、二人きりでしっとりねっとり過ごす予定だったのだが、ピンクのシャンパンを嬉しそうに見つめる純は何だか可愛いし、日向と秀に純は自分のものだと強烈にアピールできただろうから、まあこれはこれでアリかな、とそんな風に思えてきた。

それに、今日という日はまだまだこれからなのだ。新婚初夜という大イベントも控えていることだし。

「では僭越ながら、乾杯の音頭を取らせていただきます」
「よっ、生徒会長！」
「我が蒼薇学園に舞い降りた、美の天使秋原純の幸せを願って―――」
「主役は俺だぞ……」
「乾杯！」

そうして宴会は始まったのだが、彼らがたったひとつ失敗したことがあった。それは、純がどれだけアルコールに弱いか把握していなかったこと。

ようやく気付いた時にはすでに、箸が転がってもきゃらきゃら笑う状態にできあがっていた。

「純、純、大丈夫ですかっ」
「んー、いちごぉ、このシャンパンいちごの味がするのぉ」
「こらっ、それ以上飲むんじゃねえっ。貸せっ」
「やっ、あきむらさんのいぢわるぅ。いいもん、しゅうー」

純は秀の隣にぴたっとくっついた。しかし秀はグラスを取り上げ、

「ほら、これで我慢しとけよ」

イチゴの実を摘んで純の口へ。呆気なく餌付けされた純は、

「おいしい〜」

とご満悦で秀にじゃれついた。スカートをぱふぱふと叩いて、

「ね、これすごいふわふわするんだよぉ」
「ああ。可愛いな。よく似合ってる」
「えへ」

丸い頬を紅く染めて、無邪気に笑う純。その笑顔と、嘗て幼馴染としていつも自分の隣にいた幼い純の笑顔がオーバーラップする。

「お前は……尭村さんのものなんだな」
「しゅう？」
「もう、俺の手は必要ないんだな」

秀は自分に言い聞かせるように低い声で呟いた。そしてじゃれつく純の肩に手を掛けてそっと引き離し、

「俺は、これまでお前を守ろうと必死だった。何かあったらすぐ手を差し伸べることができるように、できるだけ近くにいようとした。が、お前には尭村さんがいる。俺はもう、必要ないんだ」

純は、自分の中で何かがさーっと凍りつくのを感じた。ほとんど無意識のうちに、秀の腕にすがりつく。しかし秀は淡々と言葉を続ける。

「いつかは離れなくてはと思っていた。だから純、俺たちは少し距離を置いた方がいい。でないといつまでたっても―――」
「やだっ。やだやだやだっ。ずっと、ずっと一緒だって、僕が守ってあげるよって秀ゆったもんっ」

スカートが乱れ、脚が露わになるのも構わず、秀の膝の上に乗るようにして首にかじりつく。

「純……」
「やだぁ、僕を置いてっちゃやだよぉ……しゅう………」

ぽろぽろと、熱い涙を振りまいて必死に訴える純を、秀は険しい顔でじっと見つめた。

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