任侠Child
第四話
大門の自宅マンション。広く殺風景なリビングは、異様な緊張感で張り詰めていた。一歩足を踏み入れれば、事情を何も知らぬ者でも背筋に冷たいものを感じてしまうに違いない。空気の粒子ひとつひとつに棘があり、それがビリビリと肌を刺してくるような感覚に陥る。
「西嶋、俺が聞きたいことが何か分かってるな」
「はい」
大門が戻ったことで取引は問題なく行われ、金剛組の信頼は保たれた。しかし大門にとって、それでめでたしめでたしというわけにはいかなかった。
自宅に西嶋を呼び出したが、その時点で西嶋も覚悟していたようだ。部屋に入るなり大門の前に膝をつき、深く頭を垂れた。
「お前が、朔斗にあんな真似をさせたんだな」
「はい」
西嶋が答えると同時に、鋭い蹴りが顎に入った。西嶋は後ろにのけぞり、後頭部から壁に激突する。しかしすぐに起き上がり、再び膝をついて頭を下げる。床にぼたぼたと血が落ち、毛足の長い絨毯に吸い込まれ大きな血痕となった。
「申し訳……ありません。朔斗君なら……奴らも警戒せず……うまくいくと思っ───」
再び、西嶋の身体が吹っ飛んだ。今度はさっきのようにすぐには起き上がれない。しかし大門は容赦なく、「起きろ」と匕首を突き付けるように鋭く命じた。
西嶋は両手をついて何とか上半身を起こす。朔斗は、この一方的な制裁を隣室から見ていた。
「西嶋さん……」
彼は、全て自分が仕組んだことにするつもりなのだ。もちろん、朔斗の秘密を守るためだ。
おそらく大門は、朔斗を危険な目に遭わせた西嶋を許さないだろう。兄弟関係を解消し、自分の側近から外すに違いない。しかしそれは大門にとって大きな損失になる。大門には、西嶋が必要なのだ。
「おじさん、待って！」
朔斗は部屋から飛び出し、二人の間に割って入った。大門は驚きを見せたものの、それは一瞬だった。すぐに表情を険しく尖らせ、
「朔斗、お前は引っ込んでろ。大人の話に口を出すな」
こんな厳しい言葉を大門から浴びせられたのは初めてだ。が、もちろん朔斗は怯まない。
「西嶋さんに非はないよ。全て僕が自分で考えて、自分で行動したんだ。西嶋さんはむしろ止めてくれた。それを僕が振り切って、半ば強引にやってしまったんだ」
普段とは異なる朔斗の口調に不審を覚えたのか、大門の眉間に浅い皺が浮かんだ。それが消えぬまま、大門は首を振る。朔斗が、西嶋を庇うために拙い嘘をついていると考えたのだろう。それも無理なからぬことだ。大門に信じてもらうには、あのことを打ち明ける必要がある。朔斗はすでに、覚悟を決めていた。
「おじさん、聞いてください。僕は普通の子供ではないんです」
この前置きに込められた重みを、大門がどれだけ真剣に受け止めたかは分からない。だが少なくとも、耳を傾ける意思はあるようだ。朔斗はできるだけ主観的な表現は排して、事実のみを客観的に伝えた。
大門の顔に驚きが広がってゆくのを見るのは辛く、また怖かったが、曖昧な言葉でごまかしたらいずれ後悔することになると分かっていた。
「天才児……？ 大人と同等の思考力だと？」
否定の響きが強い疑問形が、大門の内心を物語っていた。可愛い朔斗の言うことを無下には否定したくない、しかし到底信じられない。
「おじさん、黙っててごめんなさい。おじさんには本当のことを言いたかったけど、ヘンな子だって思われるのが怖くて……」
朔斗の切実な訴えを受けて、大門も信じる方に傾き始めたようだ。
「西嶋、お前は知ってたのか？」
息を詰めて成り行きを窺っていた西嶋は、びくりと身体を震わせた。しかしすぐに大門を見上げ、
「知っていたというより気付いたというか。朔斗君はもちろん普段は子供らしく無邪気ですが、時折こちらの腹の奥まで見透かされているように感じることもありました。まあ、それだけ俺の底が浅いってことなんでしょうけど」
西嶋はそう言って、自虐的に笑った。しかしこの場の空気が弛緩することはなかった。大門は硬い声で、
「両親は知っているのか」
朔斗は静かに首を振る。大門は難しい顔のまま天を仰いだ。さまざまな思考や感情が点滅しているのが、その不動の姿勢から読み取れる。
「なぜ、親に黙っているんだ」
その問いを引き取ったのは西嶋だった。
「朔斗君は分かっていたんですよ。もし親に打ち明けたらどうなるか。本人の意思に関係なく、しかるべき特殊な教育機関や研究機関に預けられたに違いない。子供が天才児というのは、親にとっては途轍もない誘惑ですからね」
「しかしそれは親として当然だろう。子供の才能や可能性を伸ばしてやることは───」
「それを本人が望んでいなくても、ですか？」
大門は答えず、朔斗の前に膝をついて目線を合わせ、
「朔斗、お前の望みは何だ？」
朔斗はこくりと喉を鳴らした。気付いたからだ。今、大門は保護者としてではなく、一人の人間として対等な立場から朔斗に訊ねている。
朔斗の答えは決まっていた。一歩、二歩と大門に近づいて、その身体に抱き着き、
「大門さんのそばにいることです」
大門の身体が強張るのが分かる。これまでも何度も、“おじちゃんといっしょにいたい”と甘えてみせたことはあった。しかし今の台詞は子供の甘えではなく大人の意思表明だ。それが、大門にも伝わったに違いない。
朔斗は怯えていた。本当にこれで良かったのだろうか。もう少し“可愛い子供”のままでいて、無邪気な甘えを見せているべきではなかったのか。
子供の身体に大人の心。この歪さを大門がどのように受け入れるか、あるいは拒絶するのか、朔斗には予測できない。今にも突き放されるのではないかと思うと、怖くて自分から逃げ出したくなってしまう。それでも耐えた。意思表明を貫いた。
「……朔斗」
低い声で名を呼ばれ、朔斗はびくりと身じろいだ。そしておそるおそる顔を上げると、研ぎ澄まされた二顆の黒瞳に出会った。その中に閉じ込められた自分はひどく不安げで、今にも泣き出しそうだ。しかし顔を背けることはできず、朔斗は小さくて脆弱な自身の像に向き合った。
しかし、不安に苛まれていたのは朔斗だけではなかった。
「俺は、怖い。お前の可能性や輝かしい未来を潰してしまうのではないかと」
時に冷たい理性を宿し、時に残忍な高揚を見せる黒瞳が、まるで迷い子のように揺らいでいる。金剛組若頭という鎧を脱いだ生身の大門の苦悩が、その表情から痛いほど伝わってくる。
「大門さん……」
「お前を説得し、正しい道に導いてやるのが大人の務めってもんだろう。俺みたいな男の傍にいたって、百害はあっても一利なしだ。現に今回、お前を危ない目に遭わせちまった。怪我までさせて……」
大門の視線が、朔斗の膝に注がれる。大門の監禁場所に侵入するためわざと怪我をしたと知った時、大門がどれほど己を責めたか想像に難くない。
「でも、俺は……くそっ……」
煮え切らない自分への苛立ちを吐き出すと、大門は朔斗を真っ直ぐ射抜いた。と同時に、朔斗の体温は急上昇する。眼差しに含まれる熱量が、保護者の域を超えていることを感じ取ったからだ。あからさまな所有欲に湧く双眸が、大門の“答え”そのものだった。
「おじさんの望みは僕の望みでもあるんだよ」
朔斗が静かに告げると、大門の肩がすとんと落ちた。
「俺はまだ……確信が持てない。この判断が正しかったと思える時が来るのか」
大門の迷い、戸惑い、苦悩が痛いほど伝わってくるが、不謹慎を承知で朔斗は思った。その全てが愛おしいと。
「この判断が正しかったと思えるようになるのかどうか、それはこれから次第じゃないかな。未来は変えられるもの。でもね、僕には自信があるんだ。きっと幸せになれるって」
朔斗の言葉は無邪気な子供の夢にも聞こえるが、その底には確固たる信念と思考の痕跡があった。それは、大門にも西嶋にも伝わった。
「そうだな。お前を幸せにするのは俺の務めだ」
大門は力強くそう言って立ち上がった。迷いは吹っ切れたのか、その表情は晴れ晴れと輝いている。そして、西嶋に向かって深く頭を下げた。
「すまなかった」
西嶋は粋な仕草で肩をすくめ、
「謝罪なんて必要ありませんよ。それよりさっきの言葉、まるでプロポーズですね」
軽い冗談のつもりだったろうが、大門の腹にはずしんと響いたようだ。「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」と西嶋を睨みつつも、かすかに顔が赤らんでいる。そして朔斗も、
「プロポーズ……」
その言葉は媚薬のごとく朔斗の体内を駆け巡り、身体のあちこちに熱をともした。朔斗はのぼせそうになったが、使命感が火照る神経を冷ましてくれた。
───僕が、大門さんを幸せにしてあげる。
朔斗は声に出さず誓いを捧げる。七歳児の秘かなプロポーズを、大門はもちろん知る由もなかった。
そして、夜。
「おじちゃん、お部屋に入ってもいい？」
寝室の扉がわずかに開き、細い隙間から遠慮がちに伺いをたてる声が届いた。
轟音をまき散らす雷も、窓を叩く強風も雨音もない。あるのはただ、ベルベットのように滑らかな闇だけ。そんな静寂の夜に現れた朔斗に、心の準備をしていなかった大門はみっともなくうろたえた。
「どっ、どうしたんだいきなり」
「ねむれないの」
「怖い夢でも見たのか」
「うん……こわいおじさんたちに追いかけられるゆめ……」
大門の眉間に深い皺が寄る。たった一人で敵の陣地に乗り込んできた朔斗。大門を救出するため無我夢中で行動していた時は、恐怖を感じる余裕もなかったに違いない。今になってあらためて、恐怖が悪夢の形で襲ってきたのだろう。
「……一緒に寝るか？」
さりげなく誘ったつもりだったが、さりげなさを追求することにこだわったせいでさりげなさから遠のいてしまった。そもそもさりげなさを意識していること自体、よからぬ意図を持っていると自覚している証拠なのだが、「うん！」と嬉しそうに声を弾ませて部屋に入ってきた朔斗の天使の笑顔を見た途端、さりげないとかさりげなくないとか全てがどうでもよくなってしまった。
「ほら、来いよ」
布団をめくって呼びかけると、もぞもぞと身体をくねらせながら空いたスペースに入り込んで、ぴたっと身体をつけてきた。毎度お馴染み、煩悩との戦闘開始合図。夜通し一本勝負だ。
「また怖い夢を見たら、起こして構わねえからな」
大門の言葉に、朔斗は驚いたように目を見開き、
「でも……明日おしごとなのに……」
「関係ねえよ」
そう、どうせ今夜は朝まで耐久レースなのだから。
「ありがと……。でも大丈夫だと思う。だってここは、世界一安全な場所だもんね？」
いたずらっぽい眼差しで見上げてくる朔斗は、天使というより小悪魔だった。いつもよりちょっと大人びたその表情に電流めいたものを感じた大門は、欲望に対する防御本能から身体を反転させて朔斗に背中を向けた。
「おじちゃん？ ねえ、こっち向いて」
鼻にかかる甘え声が、大門の背中やうなじを火照らせる。くそぉ、朔斗め。いつの間にそんな声が出せるようになったんだ。悶々としつつも、少し（かなり）不自然だが寝たふりを貫いた。
「いいもん。こうするから」
不貞腐れた声もただ可愛い。朔斗は身体を大門の背中にぴたっとくっつけて、小声で「おやすみなさい」と囁く。大門は声に出さず“おやすみ”と返すと、長い長い夜を覚悟したのだった。
（Fin.）
BACK TOP シリーズ外小説INDEX NOVEL INDEX