任侠Child
第三話
「おっきなおうちですねえ」
“姐さん”と呼ばれた女性の後に続いて、朔斗は家に上がった。この中のどこかに大門がいると思うと、自然と神経が研ぎ澄まされる。もちろん、そんな素振りは見せず、あくまで無邪気な子供としての振る舞いを堅持したが。
「そうかい？ 普通の家だよ」
「ぼくのいえよりうんと広いです。たんけんしたくなっちゃう」
「はは、探検か。可愛いこと言うねえ。別に構わないよ。ただし、」
姐さんは芝居がかった低音で、続けた。
「地下室はやめておいた方いい。怖い目に遭いたくなかったらね」
朔斗はぶるっと震えてみせた。
「おばけが……でるの？」
「ああ。それも、子供が大好物なお化けがね」
朔斗は顔を歪め、「こわい…」と呟く。姐さんはからからと笑い、
「地下にさえ行かなかったら大丈夫だよ。さ、この部屋で手当てしてやろう」
こじんまりした応接セットのある部屋に通された朔斗は、そこで応急手当を受けた。
「さ、これで応急手当は完了だ。家に連絡してあげるから、電話番号を教えな」
朔斗はまず手当てのお礼を言ってから、小さく首を振り、
「家にはだれもいません。パパもママもおしごとで」
「何時ごろ帰ってくるんだ」
「えと、ママはゆうがたの5時にはかえってきます」
女性は少し迷ったようだったが、「仕方ないね」と笑い、
「ならそれまでうちにいな。変態男がまだこの辺りをうろついているかもしれないしね。ただし、ここで大人しくしてるんだよ」
「はい。あの、しゅくだいしててもいいですか？」
女性は感心したように頷いて、
「あんたいい子だねえ。うちのバカ息子に見習って欲しいわ。ま、うちのはもう高校生だから手遅れだけど」
そう言ってからから笑いながら、部屋を出ていった。その背中を見送った朔斗は、大きく息をつく。ともかく、第一段階は成功だ。
しかし問題はここから。大門はおそらく、地下室に監禁されているに違いない。もし部屋の前に見張りがいたら、遠ざける必要がある。
その方法はすでにいくつか考えてあったが、どれが最も確実且つ安全かもう一度簡単に検証しよう、そう自分に言い聞かせた時だった。部屋の外がざわつき、複数の足音が重なる。
朔斗はもしやと思い、窓から顔を出して外を見た。やはり、推測通り。組長の出迎えだ。玄関前の車寄せに、屈強な男たちがずらりと列を作っている。朔斗も、金剛組の本家で何度か目にしたことがある光景だ。
「今しかない」
朔斗は素早く荷物を片付け、部屋を飛び出した。今、家の中には誰もいないはず。朔斗はまず一階を見回り、その構造と裏口の存在を確認した。そして地下室へ。見張りがいないことを確かめてから、扉を開けて部屋へ飛び込んだ。
「………ッ！」
呼吸が止まり、身体が凍り付く。私刑の痕も生々しい大門の姿にショックを受けたからではない。この程度のことは想定済みだ。朔斗を驚かせたのは、大門の全身から発せられた攻撃性だ。それは凶気と呼び得るほど研ぎ澄まされ、朔斗の身体を射抜いた。
双眸には、冷たい焔が揺らめいている。ああ、これが。これが朔斗の知らない大門なのだ。捕縛され、傷付けられ、窮地にありながらも、彼は決して敗者ではなかった。闘気を捨ててはいなかった。
しかし、凍り付いたのは大門も同じだった。入ってきた人間を認めた瞬間、瞳孔がキリキリと収縮する。それは甚大な驚きを物語っていた。腫れた唇が動いたが、思考がもつれてしまったのか言葉は出てこない。
先に我を取り戻したのは朔斗の方だ。駆け寄って持参したナイフを取り出し、大門の両手を縛っている縄に宛がう。ようやく驚きの第一段階を消化した大門は、それでも「朔斗、か……？」と掠れた声で訊ねるのが精いっぱいだった。
「うん、そうだよ」
ナイフを動かしながら、朔斗は答える。
「お、お前、何やってるんだ！ こんなっ───」
「動かないで！ 説明は後でするから。今は一刻も早くこれを……」
小さな手が恨めしい。非力さが恨めしい。大人の力ならもっと早く切れるだろうに、七歳児の力では必死に動かしても刃はわずかしか進まない。
早く、早くと急かす自分と、落ち着けと宥める自分のせめぎ合いに翻弄されながらも、朔斗は歯を食いしばって縄を切ることに専念した。そしてようやく、
「切れた！ あとは自分でやって！」
自由になった両手にナイフを渡し、朔斗は部屋の外に耳をそばだてた。大丈夫、まだ戻ってくる気配はない。さすが大門はナイフの扱いに慣れており、あっという間に身体の縛めを解いた。
「おじさん、こっち！」
一階へ駆け上がり、先刻確認した裏口へ回る。表玄関の方から、複数の足音が聞こえてきた。危ないところだった。あと少し遅かったら鉢合わせしていたかもしれない。
彼らが地下室を確認し、大門が逃げたことに気付いた時にはすでに、敷地の外へ出ているはず、だった。しかし、
「きゃああああッ」
大門が裏口の扉に手を掛けようとすると、扉は向こうから開いた。現れたのは、初老の女性。おそらく、この家の家政婦だろう。身体が小さい割りに悲鳴は大きく、聞きつけた男たちが一斉に集まってきた。
「てめえ！ 一体どうやって」
驚きは一転して怒りに変わり、空気をびりびりと震わせる。しかし大門は落ち着いていた。逃げる素振りも見せず、朔斗を庇うようにして扉を背にし、男たちに向かい合う。
大門の大きな身体に守られた朔斗は、唇をきつく噛み締めた。大門一人なら逃げ切れたかもしれないが、朔斗を連れて逃げるのは無理だと判断したのだろう。助けるつもりが、自分が足手まといになってしまった。さらに大門を窮地に追い込んでしまった。
「ふざけやがって、ぶっ殺す！」
金髪の若い男が、血気に逸った行動に出た。バチンと重い金属音を響かせて折り畳みナイフを取り出し、大門に飛びかかる。大門は最小限の動きで避けて男の手首を掴み、片手でひねった。
男は呻きとともにナイフを離す。床に落ちた物騒な金属の塊を見た瞬間、朔斗の脳裏に鋭い閃光が走った。大門を押しのけてナイフに飛び付き、じかに触らないようハンカチで柄を包んで握る。突然の七歳児の行動に、大門も剛道会の男たちも一様に驚いた。
「おお？ 坊ちゃん、そんなもの拾ってどうするんだぁ？」
にやにや笑いながら坊主頭の男が近づいてきた。が、途中でぴたりと足を止めた。その顔には驚愕の色が。無理もない。朔斗が、ナイフを反転させて刃を自分の方へ向けたからだ。
「動かないでください。ちょっとでも動いたら、僕は自分で自分の腹を刺します。もちろん死なないように、皮膚と脂肪で留めておきますけど。で、」
高揚も怯えもない淡々とした口調でそう言って、朔斗は金髪の男に視線を向けた。
「あなたに刺されたって証言します」
金髪の男はどんな表情をしたらいいか分からないのか、目を見開いたまま頬をひくつかせる。しかし朔斗は構わず、
「組員が子供をナイフで刺したなんて、組の存続に関わる大事件ですね」
朔斗の意図をようやく察したのか、坊主頭の男は「ははは」と乾いた笑いを漏らし、
「そんなもん、ここにいる俺たち全員が証人だ」
しかし朔斗は意に介さない。呆れたと言わんばかりに肩をすくめ、
「七歳の子供が自分で自分の腹を刺したって？ 誰が信じますか、そんな戯言。しかも、あなたたちみたいなヤクザの証言を」
男は反論のしようがないとばかりにぐっと詰まる。朔斗は対峙する男たちを見渡し、
「僕と大門おじさんをこのまま行かせてくれたら、何もなかったことにします。組のためにはどうすべきか、さすがに分かりますよね」
そう言う間も、自身に向けられた刃先が揺らぐことはない。これまであらゆる修羅場に遭遇してきた彼らでも、子供からの脅迫はさすがに未経験だろう。どう対応すべきか正解が分からず、ただ立ち尽くす。
顔にはみな一様に凶悪な陰翳を刻んでいたが、それが困惑を隠し体裁を保つための作為的なものであることは、手に取るように分かる。しかし、停滞は長く続かなかった。
「ナメてんじゃねえぞ！ ガキ」
金髪の男が唾を飛ばしながら喚く。声帯がうまくコントロールできないのか、声はみっともなく裏返っていた。ぎらぎらした目を朔斗に据えたまま、真っ直ぐ近づいてくる。
朔斗は鋭く、短く息を吐く。そしてナイフを握る手に力を込め、自分の腹に突き立てようとした、が───
「おじ、さん……」
大きな手が刀身を包み込むように掴み、刃先は寸前で止められた。鮮血の紅い筋が、手首に巻き付く。
「おじさんっ、手を離して！」
「まず、お前が離せ」
「僕が刺されたことにすれば、剛道会の力を削ぐことができるんだよ」
「どんな理由があろうと、お前が傷付くことは俺が許さん」
大門は断固たる口調で宣告すると、刀身を握る手に力を込めた。流血が増すのを見て、朔斗は慌てて手を離す。
しかしまだ諦めてはいなかった。脳細胞を奮い立たせ、この場を切り抜ける方法を探す。考えろ、考えろ、考えろ───
「こいつさえ無事に帰してくれたら、俺のことは好きにして構わない。抵抗はしねえよ」
そんなの駄目だ。自分は大門を助けるために来たのだ。むしろ自分はどうなってもいい。大門だけは───
「よう、大門。久し振りだな」
居並ぶ男たちの向こうから声がした。と同時に、空気の質感が変わる。不穏な熱に淀んでいた空気に、肌を刺すような緊張感が生まれた。男たちは二列に別れ、その真ん中をゆったりと歩きながら近づいてくるのは、
「道明寺か」
大門より背は低いが、堂々たる体躯はひけをとらない。スーツの上からでも、筋肉の鎧をまとっていることが分かる。
その表情や眼差しから、過剰な暴力への嗜好性は感じられないが、こういう男の方がビジネスライクに残虐になれるのだ。彼がおそらく、剛道会のトップ。大門の若頭就任に不満を持ち、盃を返して金剛組を飛び出した男だろう。
「こんなガキを送り込んでくるとは、金剛組もいよいよ断末魔かと思ったんだがな……」
道明寺は朔斗に真っ直ぐ視線を向けた。身長差があるため、どうしても“見下ろす”という構図にはなる。しかし朔斗は決して、“見下ろされている”という意識を持たなかった。下に見られる謂れはないという静かな気魄を持って、道明寺の視線を受け止めた。
「……大門、さっさとそのガキを連れて出てけ」
道明寺の言葉に対し、剛道会の男たちは驚きを隠さなかった。対して大門は、警戒を強める。当然ながら、裏があると考えたのだ。しかし、
「裏の思惑なんてねえよ。そのガキ、まだ諦めていない。またなんかやらかしそうだ。うちは今、大事な時期でね。危ない橋を渡るのはごめんだ」
大門は警戒こそ解かなかったが、頷いて朔斗の手を取った。すると道明寺はわずかに声を和らげ、
「おい、坊主。十年後こっちに来ねえか？ 幹部待遇で迎えてやるぞ」
朔斗は「お断りします」と返し、大門と共に裏口から出ていった。
「親父さん！ いいんすかあの野郎をっ……」
「あんなガキのはったりを真に受けるなんて！」
不満の言葉を、道明寺は鷹揚に受け止めた。笑いながら、
「あのガキは本気だった。本気で腹にナイフを突き立てるつもりだった。だからこそ、大門は止めたんだよ。まったく、呆れたもんだ。昭和任侠じゃあるまいし、今どき屠腹をやらかそうなんてヤクザにもいねえぞ」
しんと黙り込む男たちをぐるりと見渡し、
「本気とはったりの区別もつかねえようじゃ、お前らもまだまだだな」
声のトーンが一段低くなった。男たちは一斉に首を縮め、罰を待つ子供のように項垂れた。
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