Blue Rose is...

６.

「では、盗聴器があるのではとお考えになる理由をお聞かせください」
「はい」

腹を括った游月は、ここ数日来掛かってきている脅迫めいた電話について、包み隠さず打ち明けた。田高は顎に手を当て、彫像のごとき不動を保ったまま聞き入っている。やがてのっそりと顔を上げ、

「なるほど、“別れろ”と……。そして今日になって盗聴を示唆するような電話が……。もう一度確認しますが、聞こえてきたのは間違いなくあなたと恋人の会話だったのですね？」

游月は恥ずかしさで身の縮む思いだったが、頷くより他なかった。田高は立ち上がり、

「では、その部屋へ案内してください。調べてみましょう」

游月も立ち上がって、田高を寝室へ案内した。部屋に入ると早速、田高はショルダーバッグから無線機のような機械を取り出した。

「これから調べますので、すみませんが電話線を抜いていただけますか？」

游月は頷いて言われた通りにした。すると田高はきょろきょろと室内を見回しつつ、窓辺やベッドの周囲などに機械を翳してその反応を確認した。

「盗聴器はごく微量ですが特殊な電波を放出しています。それをこのスペクトラム・アナライザーと呼ばれる機械で察知するのです。」

説明を続けつつも、室内をくまなく探査する。しかし機械が何の反応も示さないのか、田高は首を傾げ、

「おかしいな。何も反応がない」
「そんな……」

茫洋と呟く游月を横目でちらと一瞥して、

「気を悪くしないで下さいね。游月さん、気のせいではないですか？　いや、よくあることなんですよ。自分の部屋は盗聴されていると大騒ぎする人に、おもちゃの盗聴器を見せてほら見つかりました、もう大丈夫ですよと言う。するとその人は安心して―――」
「違います！　それに、あの電話は―――」
「もう一度落ち着いて思い出してみてください。それは本当に、あなたたちの会話でしたか？　恋人同士の寝室の会話なんて在り来たりなものでしょう？」

游月は羞恥と苛立ちに襲われて、喉が締め付けられるような苦しさを味わった。田高はこう言わんとしているのだ。セックスの時の会話なんて、みな似たり寄ったりではないのか、と。

しかし游月は感情を押し殺して、毅然とした声で「間違いありません」と答える。そしてさらに、

「実は、電話だけではないのです。その前にも……」

そう言って、あの黒い手紙を田高に見せた。これを見た田高はこれまでの不審げな表情を一変させ、険しく目を細めた。

「これは……」
「はい。郵便受けに投函されていました。これが来なくなると同時に、電話での脅迫が始まったのです」
「なるほど……これは危険だ」
「えっ？」

田高の言葉に弾かれたように顔を上げ、游月は不安げに訊き返す。田高は深刻そうに眉根を寄せて唇を噛み締めると、徐に口を開いた。

「游月さん、僕はあなたに忠告します。今の恋人とは別れた方がいい」

突然の忠告に、游月は返す言葉を失って呆然とするばかり。そんな游月に田高は畳み掛ける。

「もう一度言います。恋人と別れなさい。それがあなたの安全を守る唯一の手段だと僕は思います」

游月は首を振って拒絶を表すのが精一杯だった。田高は一歩、二歩と近付いて肩に手を置き、

「このテのケースを嫌というほど見てきた僕には分かります。游月さん、この相手は危険だ。こいつはあなたに殺意すら抱いている可能性がある」
「殺意……どうして、なぜっ？」
「もちろん、あなたが邪魔だからですよ」

あっさりと恐ろしいことを言う田高。これも数々の修羅場を見てきた探偵だからこそ言えることなのだろうか。田高はふぅ、と深い溜め息をつき、

「ここまで執拗に“別れろ”と強要しているということは、ただの嫌がらせというより、別れれば何もしないということだと思われます。つまり、犯人の目的は明らかなのです」

游月は頷きを返した。それは分かる。最初から一貫して、別れろと迫ってきていたのだ。

「このやり方を見ると、犯人はあなたの代わりに恋人になりたいといった欲求ではなく、あなたの恋人に対して抱いている崇拝にも近い純粋な感情に突き動かされていることが分かります」

游月は息を呑んだ。まさか透麻の熱狂的ファンが―――

「おや？　どうしました？　顔色が………」
「あ、いえ……田高さんの分析力に感心していたのです。確かに仰る通りかもしれません」

田高は満足そうに頷いて、

「僕が別れた方がいいと忠告する理由が分かったでしょう？　こういう相手に正攻法は通用しない。もちろん警察なんて何もしてくれません。ですから、ね……？」

田高は肩に置いた手に力を込め、游月の決断を促した。しかし、

「別れません。こんなやり方には絶対に屈しない」

田高は眉を吊り上げて、「ほぅ」と感心したように声を上げ、

「何故です？」
「何故って、決まってます。愛しているからです」

田高はククッと嘲るように喉を鳴らし、

「自分の身に、これほど明瞭な危険が迫っているというのに……」
「危険は一時的なものに過ぎません。でも―――」
「あなたの言う愛だって、一時的なものだ。ひとときの感情ではないですか」

これまで冷静に、プロ意識をもって対応していた田高だったが、その様子に徐々に変化が現れてきた。游月の肩に乗ったままの手が小刻みに震え出し、声に隠し切れない苛立ちが灯る。

「田…高……さん？」

田高は口端を不自然に吊り上げて、游月の顔を見下ろした。そして游月の困惑を無視して自分の言葉を続ける。

「そうでしょう？　永遠に咲き続ける絶対の愛なんて存在しない。なのに、そんなものに執着するなんて愚かの極みだ」

田高はゆらゆらと顔を上げると、ある一点に視線を注いだ。そこにあるのは、あの青い薔薇。田高はうっとりと眺めつつ、熱っぽい口調で謳い上げる。

「青い薔薇は絶対の愛、不可能の象徴。永遠に咲くからこそ美しい。ねえ游月さん、あなたが大事に思っている愛なんて、大した価値もない、移ろいやすいものなんですよ。自分の身を危険に晒してまで守ろうとするほどのものでもない」

いつの間にか、田高の表情から苛立ちが消えていた。慈しみ込めて游月に微笑みを向け、

「もう一度頭を冷やして考えてご覧なさい。本当に大事なものは何なのか―――」
「本当に大事なものは、今あの人を想い、あの人を愛しているという一瞬一瞬の感情です。不動の愛なんて求めていない。永遠に咲く花なんて、虚しいだけです」

明晰な口調で即答を返す游月。田高の顔はきりきりと音をたてて氷結した。

「……なるほど。では、僕の忠告は受け入れられない、と」
「はい」
「……そうですか。では、仕方ないですね」

田高は捨て台詞とも聞こえそうな素っ気ない言葉を叩き付け、掴んでいた游月の肩を突き放した。そして挨拶もせず部屋から出て行った。

游月はふらふらとよろめいて、ベッドの上にどすんと腰を落とす。そうしてようやく、額や手のひらがじっとり汗ばんでいることに気付いた。

額をそっと拭って深く息をつく。そして顔を上げると、窓辺に飾ってある青い薔薇が視界に入った。すると一刻も早く忘れたい田高の言葉が蘇って、游月の鼓膜を揺さぶった。

『愛なんて大した価値もない、移ろいやすいものなんですよ』

「ちがう……そんなこと……ないもん…………」

しかし游月の抵抗も虚しく、田高の言葉はいつしか透麻の言葉へ変わってさらに游月を苦しめる。

『人が人を愛することは、不可能なのかもしれない』

「いや……不可能じゃない、僕は透麻さんを………」

『青い薔薇は不可能の象徴であり、絶対の愛を表わすとも言われるのです』

「もうやめてッ」

游月はベッドから飛び下りて窓辺へ駆け寄り、青い薔薇の宝石箱を振り上げて床に叩き付けた。

それは見かけの繊細さからは想像もつかないほど鈍く重い音をたて、ばらばらに散らばった。その音に頬を叩かれた游月ははっと我に返り、

「あ……ぼく、何てこと…………」

その場にぺたんと座り込み、床に散乱する薔薇の花弁を拾い集める。

「ごめんね………」

花に罪はない。そんなのは分かりきったこと。なのに自分を制することができず、こんな風に当たってしまうなんて。しかもこの花は―――

「可哀想な花……」

元々は白い薔薇だったのだろう。それを人工的に染められ、不可能の象徴である青い薔薇の振りをし続けねばならないのだ。なんて健気な花。

游月は謝罪と労わりの想いを込めて、ひとつひとつを丁寧に拾い上げて埃を払った。その時、

「え？　何……これ………」

床に伸ばした手がぴたりと止まる。青い花弁に混じって、見慣れぬものが落ちていたからだ。

黒い小さな箱で、短いアンテナのようなものが飛び出ている。こんなものが宝石箱の中に入っていたなんて、全く気付かなかった。これは一体―――

その時、游月の頭の隅で何かが閃いた。

「まさかっ……」

その黒い箱を手に、游月は部屋を飛び出た。そして―――隣の部屋、田高の部屋に向かった。




「着信が……８件？」

取材を終えた帰り道、携帯の電源を入れた透麻は不審げに眉をひそめた。取材中は電源を落としていたとはいえ、それほど長時間の取材ではなかった。１時間も経っていないはず。

なのにその僅かな間に着信が８件も入っているということは、まさか游月に何かあったのでは………

慌てて確認すると、それらは全て二階堂からの電話だった。少し安心した透麻は、公園のベンチに腰を下ろして二階堂の番号を呼び出す。すると２コールほどですぐに出て、『今どこにいるんだ？』と勢い込んで訊ねられた。

「取材の帰りです。これから家に戻るところですが」
『そうか。できるだけ早く帰ってくれ。俺も今、そちらへ向かっているところだ』

何が何だか分からないが、二階堂の声に普段の彼にはない不安の翳を感じた透麻は、言われた通り腰を上げて大通りに出て、運良く通りかかったタクシーを止めて乗り込んだ。そして「どういうことです？」と事情を質す。

『お前、少し前だが、身の回りで何か変わったことが起きてないかと俺が訊いたのを覚えているか？』
「ええ。覚えています。いつになく真剣な声だったので、私も真面目に応じたつもりですが」

二階堂は『そりゃどうも』と返してから再び声を引き締め、

『詳しく話せば長くなるから簡単に言うぞ。俺の大学の後輩で、お前の熱狂的なファンの男がいるんだ。まあありがちな作家志望くずれの文学青年だ。ところがそいつ、最近のお前の作品がお気に召さないらしく、俺のところにしょっちゅう電話したり家に押しかけては、あんなもの書かせるなとくどくどうるせえ』
「なるほど。厄介な後輩ですね。それで？」
『おう。俺もほとほと手を焼いていたんだが、ひと月くらい前からか、ぱたりと来なくなった。あいつのねちっこい性格上、飽きたとか諦めたということは考えにくい。何度か俺の家に来ている間に住所録でも盗み見て、お前の家を突き止め、何かとんでもねえ行動に出るつもりじゃないかと危惧していたんだ』

透麻はこくりと喉を鳴らした。確かにデビュー時からの熱狂的ファンにとっては、最近の作風や読みやすい文体は気に入らないかもしれない。それは承知の上なのだが。二階堂もそれは心得ているらしく、

『お前の昔からの読者は、お前を偶像的に崇拝する傾向があるからな。まあ歪んだ特権意識なんだろう。この難解な作品を理解できるのは自分たちだけ、という』
「あなたの言う通りです。しかし、私の身の回りには何も…………まさか、游月に？」
『それは分からねえ。けれど游月ちゃんの様子がおかしいこと、そして隣の部屋に新しい住人が引っ越してきたことがどうしても気にかかった。それでひとつの符合に思い当たったんだ。透麻、隣人の名前をもう一度教えてくれ』

気にも留めず、ほとんど薄れかけていた名前だったが、透麻は記憶を掘り起こして何とか教えた。

「田高樹、です」
『……俺が気にしていた後輩の名は、高槻大、っていうんだ。透麻、分かるか？』
「いえ、心当たりは……」
『そうじゃねえ。よく考えろ。田高樹に、高槻大……』

透麻は口に出して呟いた。ただかいつき、たかつきだい―――

「ああ……アナグラムか……」
『ご名答。高槻は、謎解きもののミステリーも好きだったからな。こういう幼稚な言葉遊びに耽って一人悦に入る………ありそうなことだと俺は思ったんだよ。だからともかく游月ちゃんに、隣の男には気をつけろと忠告しようと電話したんだ。ところが全く通じない。今日はお前も取材で家にはいねえはずだし、何か気になっちまってな』

透麻は居住まいを改めて、「あなたの機転に感謝します」と低い声で礼を言った。そして窓から外を眺める。

急に車の速度が落ちたように感じられるのは、不安と焦燥のゆえだろう。早く、一刻も早く家に帰り、游月の笑顔に触れ、その身体を抱き締めたい。何もなかったことを、二階堂の不安が杞憂であったことを確認したい。

『透麻、お前今、どの辺りだ？』

透麻は有名なファッションビルの名前を告げた。二階堂は『おお、』と声を上げ、

『お前の方が少し早く着きそうだな。ともかく俺はまず、隣の住人を確かめる。そいつが高槻でないのなら、それに越したことはない』
「分かりました。お願いします。私も早く安心したい」
『ああ。俺の思い過ごしならいいんだが………』

二人は携帯越しに、互いの不安を交換した。

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