BitterSweet
―あの頃に戻れたら―
２.
―――あ、もうこんな時間かあ……
柚葉は本から目を上げて、モニュメントのてっぺんにはめ込まれた大きな時計を眺める。この時間、柚葉は講義がなかったから、こうしてベンチで本を読みつつ龍逸の講義が終わるのを待つのが習慣になってしまった。
柚葉は待つのが好きではなかった。いや、好きではないはずだった。待つことの苦しさ、虚しさを嫌というほど知っているから。
いつか助けてくれる、自分は捨てられたんじゃない、見放されたんじゃないと言い聞かせて、あの男のもとで両親が迎えに来るのを待ち続けた。
そして気が遠くなるほどの長い時間待ち続け、何もかも失い、取り返しのつかないほど穢されてしまってからようやく助けられた。しかし待ち望んだ救出も、家族の団欒も、実際には虚しく息苦しいものだった。
待ち続けている間にそれらは頭の中で輝かしく美化され、一人歩きを始めてしまったのだ。空想の美わしさに匹敵する現実など存在しない。
―――でも、例外はあるんだ
龍逸と出会って、柚葉はそれを知るに到った。一人ぽつんと待っている柚葉の許に全速力で駆けてくる龍逸はいつも、柚葉が想像していた以上の輝く笑顔を浮かべていた。
そしてはあはあ息を荒げながら、「ごめんなあ、待たせて」と少し照れ臭そうに謝る。そんな龍逸が眩しくて、柚葉はいつも目を細めてしまうのだ。
最初は腹立たしかった。自分を金で買おうとしたくせに、いきなり「好きだ、恋人になってほしい」だなんて何を考えているのか、この男に常識や羞恥心というものはないのかと。もちろん相手にせず、頑なに無視して遠ざけた。
しかし龍逸は怯むことなく付きまとい、柚葉の姿を見つけると幸せそうに顔を綻ばせて「好きだよ」と言い続けた。
そうするうちに、今度は恐くなってきた。無意識のうちに彼の姿を探している自分に気付いたからだ。
こちらから執着を持ってはいけない、どうせいつかはゲームに飽きて、他の女にあっさり標的を移すに違いないのだから。そうなった時、傷付くのは自分の方。
だから柚葉はさらに頑なに顔を背けて、避け始めた。この頃が一番辛かったように思う。嫌われるように意地悪したり、蓮っ葉な娼婦を装ったり。
それでもますます勢いを増す龍逸の求愛行動に業を煮やした柚葉は、ついに全てをぶちまけることにした。そう、自分の過去について。
今まで誰かに打ち明けたことなどなかった。不幸自慢はしたくないし、打ち明けたところで何かが変わるわけもない。過去が清算されるわけでもない。
それ以前に、膝を突き合わせて語り合う友人も恋人もできたことがなかったのだが。
柚葉は飽くまで淡々と、感傷を排して語った。全て終わったことだし、泣いたって嘆いたって今さら取り返しのつくことではない。
それに目的は龍逸の情熱に冷水を浴びせて遠ざけることなのだから、それを忘れて話にのめり込んでは本末転倒というもの。
だから柚葉は腹の底に力を入れて、低く平坦な声と投げやりな口調で話した。
しかし、先に限界が来たのは自分の方だった。
最初のうちはまだよかった。全て自分の中で消化してしまった過去、どこかの可哀想な少年の物語、そのつもりで客観性を保って、観客の目を持って話していた。
が、すぐに誤魔化しはきかなくなった。
口からこぼれる言葉のひとつひとつが無視できない重みをもってのしかかってくる。ああ、僕はまだ苦しんでいたんだ、そう気付いた時には既に遅かった。双眸からは涙が溢れ、胸奥からは苦い塊が次から次へと込み上げてくる。
それでも柚葉は語るのをやめなかった。自らを傷付ける言葉を全て、最後まで出し切った。
それで何かが変わったわけではない。心が少しでも晴れやかになったとか、自分の過去と真っ直ぐ向き合えるようになったとか、そんな素敵な奇跡は起きる気配すらなかった。ただひとつ、ひとつだけ予想外のことが起こった。
失望や嫌悪感を露わに去っていくか、大変だったんだねえと同情めいたことを言って追従笑いをするかどちらかだろうと思っていた龍逸に、お礼を言われたのだ。生きててくれてありがとう、と。
柚葉は驚いて、嬉しくなって、そして恐くなった。このままでは……この人に惹かれてしまう。だから柚葉はさらに自分を汚して、そのさまを龍逸に見せ付けることにした。
一度くらいならデートしてあげると言って有頂天になった龍逸を誘い出し、待ち合わせの場所に男連れで行った。ごめん、これからバイトなんだ、このヒト僕のお客さん―――そう叩き付けて、堂々とホテルに入っていったのだ。
そして２時間後、ホテルから出た柚葉は、何の期待も持たずさっきの待ち合わせ場所に戻ってみた。するとそこには龍逸が、今にも泣き出しそうな顔をしてまだ立っていた。
そして柚葉の姿を見つけるなり顔をくしゃりと歪めて「ごめんな、柚葉」と謝ったのだ。そう、龍逸は気付いていた。柚葉が自分を遠ざけるために、わざとそんなことをしてみせたのだと。
龍逸はゆっくり近付いて、呆然と立ち尽くす柚葉の身体を少し乱暴にぎゅぅっと抱き締めた。そして「もう付きまとったりしないよ」と言い置いて、くるりと背中を向けたのだ。
思えば、この瞬間が分岐点だった。柚葉は咄嗟に手を伸ばして彼のシャツを掴み、「ごめんなさい」と謝った。心から。そして口に出さずこう告げた。僕を見捨てないで、と。
その瞬間から、恐怖が希望に変わった。捨てられるかもしれない、飽きられるかもしれないという不安はいつもあったけれど、それに左右されることはなかった。彼と共に歩む道行き、その輝きの方が確かなものに感じられたから。
柚葉は迷いを捨てた。その頃にはすでに夏季休暇に入っており、龍逸からの誘いも頻繁にあった。それを柚葉は断ることなく、二人であちこち出かけては親密な時間を楽しんだ。
とはいえ、まだ恋人同士というわけではなかったから、龍逸は決して部屋に上がることはなく、日付が変わる前に必ず送り届けた。不用意な接触は避け、徐々に、少しずつ柚葉の心を解きほぐすことに専念したのだ。
そして休みが終わって後期日程の始まり。いつものように、掲示板の前で龍逸が「好きだよ、柚葉」と言ってくれた時、柚葉ははっきりこう返したのだった。「僕も好きだよ」と。
あの時のことを思い出したら、思わず口許が綻んでしまう。
何がなんだか分からないという風にぽかんと口を開けた龍逸は、次の瞬間肩を激しく上下させて泣き出したのだ。辺りを憚らぬ号泣。これまでの想い全てが、溜め込んだ感情が迸るかのような。
柚葉は必死に宥めながら改めて実感した。自分はもうずい分前から、この純粋で真っ直ぐな人に囚われてしまっていたのだ、と。
「はやく……会いたいなあ………」
ぽつりと呟いてから、その言葉に赤面する。でも会いたいという思いを誤魔化すことはできず、柚葉は立ち上がって教室まで迎えに行こうとした。
その時、前方から３人の女性がこちらへ真っ直ぐ向かってくるのが見えた。彼女らはみな一様に、険しい敵意を歪んだ笑みで隠しているのが明らかな、何とも卑屈で邪悪な表情を浮かべていた。
柚葉は綿毛のような溜め息をつき、わざとらしくならないよう自然に顔を逸らした。
「あら？ 美並さん。もしかして一条君と待ち合わせとか？」
どうせ嘘をついたってバレる。無視したらしたで何様のつもりなのと噛み付かれる。柚葉は素直に「そうだよ」と答えて、ちらと時計を見上げた。するとそのうちの一人が甲高い声で、
「よかったぁ。じゃあ、まだ続いてるんだ」
その言葉に呼応して、残りの二人も申し合わせたように「よかった」と胸を撫で下ろす。そしてにっこりと引きつった笑みを浮かべ、
「あたし達さあ、他の学科のコたちと賭けしてんの。１カ月はもつ方に賭けてるから、あと１週間はがんばってよ。負けたらロブションの豪華ランチ奢らなくちゃならないの」
「そうそう。他のコたちは１カ月もたないって思ってるみたいだけど、美並さんって男相手にウリやってたんでしょ？ そっちのテクがあるだろうから、そのくらいは惹き付けておけるってあたし達は踏んだワケ」
柚葉は何も言い返さず、ただ冷ややかな視線を向けるに留めた。言いたい奴には言わせておけばいい。そういうバイトをしていたのは事実だし、これまでだって誹謗、中傷、下世話な噂の的にされていたのだ。
それに、彼女らは龍逸にあっさり振られたクチだろう。それがこんな男娼まがいの男に取られたのだから、嫌味のひとつでもぶちかましてやりたくなる気持ちも分からなくもない。柚葉は飽くまで冷静だった。
「ねえ、黙ってないで決意表明みたいなのしてよ。何とか１カ月はもつよう頑張ります、ってさ」
「そうだね。がんばるよ。あっさり振られないように」
君たちみたいにね、と胸の中で付け加えたが、どうやら伝わってしまったようだった。途端に凶暴な顔付きになって、詰め寄ろうとする。その時背後からカサリと足音が近付いた。
何気なく振り向くと、そこにはぞっとするほど冴えた双眸に極限の怒りを湛えた龍逸が立っていた。
「たっちゃん……どうし―――」
「ふざけんじゃねえぞ、お前ら」
怒りで荒廃した重苦しい呪詛を叩き付けながら、それとは対照的な優しい仕草で柚葉の肩をそっと抱く。女たちは明らかに怯えつつも、「どうしたのよぉ」とからから笑い、
「ヤダ、一条君てば。何マジになってんの？ あたし達は別に―――」
「命より大事なものを傷付けられて、マジにならねえ男がいるかよ。お前らなんかに柚葉の美しさや清らかさが解るはずもねえが、これだけは言っておく。今後柚葉を汚すようなことを言ったら容赦しない。お前らに騙されたっつう阿呆な男をたくさん知ってるからな。いくらでも使い道はあるぜ。せいぜい気を付けろよ」
「な、なによそれ……まるで脅迫じゃない………」
龍逸はバカにしたように鼻先で嗤い、
「おお、そうだ、その通り。よく分かったな。その位の頭はあるわけだ」
３人は何か言い返そうと口を開きかけたが、視線を交わすと口を噤んだ。そしてくるりと背を向けると、ミュールの踵をガツガツ鳴らして去っていった。
「たっちゃ―――」
声を掛けようとして、ふと気付いた。龍逸の拳がぶるぶる震えていることに。きっと、彼女らを殴らないよう必死で耐えていたのだろう。
「ゆず、ごめん、ごめんな……」
たっちゃんが悪いんじゃないよ、そう言いかけてやめた。この言い方では、ますます龍逸を追い詰めてしまうかもしれないから。柚葉は正面に回って胸にそっと手を置き、
「たっちゃん、ありがとう。一生懸命守ってくれてありがとう」
そして心からの笑顔を向けた。龍逸は、さっきまでの鬼の形相はどこへやら、途端にふにゃふにゃと顔を崩し、今にも泣き出しそうな表情で首を振る。柚葉は胸に置いた手に力を込めてシャツをきゅっと掴み、
「すごく嬉しかった。だからそんな顔しないで。ね？」
「ゆず……」
「誰に何を言われてもへいき。そう簡単に傷付いたりしないよ。たとえ離れていても、僕はいつも守られているのだから。でしょう？」
今度はうんうん頷く龍逸。手を伸ばしてその頭をよしよしと撫でてやると、その手を掴んで引き寄せられた。そのまま龍逸の胸に倒れ込む。
「たっちゃん、もう………離して………」
「ゆずにキスする」
「だっ、だめだよこんなとこで……」
柚葉はあたふたして身体を離そうとする。しかしすかさず龍逸の腕が腰に回り、さらにぎゅっと抱き締められる。
「たっちゃんっ、だめだってば。誰かに見られたら―――」
「じゃあ、こうすりゃいい」
龍逸は持っていたファイルケースをかざして、二人の顔を隠す。
「反対側から丸見えなんだけど」
「それは、柚葉の本で隠す」
「………これじゃあ、キスしてるのバレバレだよ」
ファイルケースと本で挟まれた狭い空間は親密な空気で満たされ、不思議と寛ぐことができた。二人はくすりと微笑みを交わし、ゆっくりと唇を近付ける。
「なんか……どきどきする」
「うん、すげえイケナイことしてるみたいだ」
微笑みの形を描いた唇はさらに近付き、そして温かく幸せな抱擁にうっとりと溺れた。
舌先を軽くちょんちょんと触れ合わせてから口を離し、本とファイルケースを下ろす。そしてほんのり赤らんだ互いの頬を見ながら、恥ずかしそうに笑みを交わした。
「ねえ、たっちゃん。そういえば、どうしてあんな所にいたの？」
あんな所とは、ベンチの後ろにある木の蔭のこと。龍逸はそこから鬼の形相で現れたのだ。柚葉の問いに龍逸はもじもじしつつも、
「いや……ゆずを驚かしてやろうと思って……だから―――」
冷ややかな半目で睨む柚葉。龍逸は赤くなって、
「ゆずの驚く顔が可愛いから……あと悲鳴も………」
「もお、そういうとこが子供なのっ」
龍逸はかくんと首を折って項垂れ、
「はい……ごめんなさい」
柚葉はじっと見上げていたが、やがて肩を震わせてくすくす笑い出し、
「うっそ。たっちゃんはそのままでいいんだよ」
「え、えっ？」
「叱られてしょげるたっちゃんの顔って可愛いんだもん。粗相をした大型犬みたいで。ふふっ、驚かそうとしたお返し」
「あっ……ちっくしょぉー」
柚葉はそっと身体をすり寄せて、「だいすき…」と囁く。再び見上げた龍逸の顔はさらに赤くなって、今にも泣き出しそうに歪んでいた。その赤い鼻のてっぺんをつん、とつついて、
「泣いちゃダメ、男のコでしょ？ それからね、ああいう女の子には余りきついこと言わない方がいいよ。後でどんな仕返しされるか……。そういう修羅場、経験済みだよね？」
「うう……よくご存知で………」
情けない顔でがっくり肩を落とす龍逸。そういうカッコ悪いところもありのまま見せてくれるのが嬉しくて、悪いと思いつつもつい笑みがこぼれてしまう。
「なんだよぉ、笑うなっ」
「笑ってないもーん」
じゃれ合いながら学生食堂へ向かう二人。柚葉の指摘が後に現実のものになろうとは、この時想像すらしていなかった。
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