BitterSweet
―あの頃に戻れたら―
１.
「えー、それではまことに僭越ながら、始めさせていただきます」
「は、はいっ。こちらこそよろしくお願いいたします」
キングサイズのふかふかダブルベッドの上で二人は向かい合わせに正座をし、神妙な表情で互いを見詰めて頭を下げた。
ベイエリアの高級ホテル、その最上階のベッドルームには相応しくない振る舞いだったが、その格好だけ見ればこれから二人が何をしようとしているのか分かる。
龍逸は全裸、柚葉は備え付けの真っ白なバスローブで素肌をくるみ、紅くのぼせた首筋から甘い匂いを漂わせている。
「ゆず……こわくないか？」
「うん、こわくないよ。だって……たっちゃんだもん」
ずっと俯き加減だった顔をそっと上げて、恥ずかしそうにふふっと笑う。その瞬間、龍逸の脳内で天使たちが荘厳な愛の合唱を始めた。
「ゆじゅーーーーッ」
みっともないとか慎みがないとかただの野獣だとか、そんな反省をする間もなく龍逸は鼻息を荒げて飛びかかり、二人の生の触れ合いを邪魔するバスローブを剥いだ。そして羞恥と緊張のゆえか奥床しく色づいた柔肌を外気に晒す。
すると湿り気のある微かな熱気と共にみずみずしい果実のような匂いが漂って、龍逸の五感を暴力的な激しさで揺さぶった。
龍逸は我を忘れた蜜蜂のように飛び付いて柚葉の唇を吸い、何度も吸い、酸素を奪われた柚葉の意識が朦朧と白み始めた頃ようやく唇を離して、首筋へ、そして胸への愛撫へと移った。
「はぁ……ん、たっちゃぁん………」
激しすぎるキスのせいで呼吸を乱した柚葉は、平らな胸を緩やかに波打たせて無意識のうちに龍逸を誘う。女のように丸みはないものの、なだらかで真っ白な胸は神聖な雪原のようで、這わせた舌が温もりと滑らかさでとろけるのを感じた。
龍逸は片方の乳首を指で優しく捏ねながら、もう片方に口を寄せてちゅっと吸う。突然の刺激に柚葉は眉根を寄せていやいやと首を振ったが、腰を浮かせて脚を龍逸の逞しい腰に巻き付け、ゆっくり上下させて行為の続きをねだった。
「たっちゃ………もっと……食べて…………」
柚葉のおねだりに応えるように、龍逸は歯をたててやわやわと甘噛みし、ほんの少し盛り上がった乳輪ごと唇で挟み込んできつく吸い上げた。
「あっ、やっ、ん…………」
柚葉は控え目な、それでいて男の理性をわし掴みにする嬌声を上げ、腰に巻き付けた脚にさらに力を込めた。暫し果実の弾力性を堪能した龍逸は唇の中の乳首を解放し、じぃっと観察する。
真っ赤に色づいてぴちぴちに勃ち上がった小さな突起は、柚葉の呼吸に合わせてぷるん、ぷるんと震える。その無邪気な動きが可愛くて、龍逸は思わず目を細めて見入ってしまった。
しかし柚葉は何を勘違いしたのか、ふいと顔を背けて「どうせ胸ないもん」と呟く。
「ゆず？」
「やっぱり女の人とは違うでしょ？ いいんだよ、無理しなくて………き、気持ち悪いならはっきりそう言って―――」
などと涙声で言いながら、ころんと横を向いてしまう。そして手で顔を覆って、くしゅくしゅと泣き始めた。
「ち、ちがっ………ゆずっ」
龍逸は慌ててその身体を抱き上げようとするが、横を向いた柚葉のお尻に目がいって、そのままカチンと硬直してしまう。
ずっとずっと恋い焦がれ、夢にまで見た柚葉のお尻。真っ白で、つやつやしてて、見ただけでぷりんと弾力性に富んでいることが分かる。
いつかこれをわしっと掴み、割り広げて、谷間の奥の蕾に猛る一物をずぶずぶ埋め込みたい………そう願い続けてはや半年。
そして今、ようやくその願いが叶う時が訪れようとしているのだ――――
―――や、やばい、これはまた………
眉間がカーッと熱くなり、鼻の奥がむずむずしてくる。何の前兆かはもう、嫌というほどよく分かっていた。
「うう……ゆじゅぅ………上から鼻血が、下から精液が噴き出そう………」
「えっ？ って、わ、わわっ、もう出てるよぉっ、たっちゃん！」
柚葉は慌てて起き上がり、ティッシュを取ってそっと鼻に当ててやる。
「そおっと、そおっと横になるんだよ。無理しないで、そう………」
そしてそのままベッドに寝かせ、濡らしたタオルを額に乗せて冷やしてあげた。
「ぅ、ぅぅっ………ゆずぅ、ごめんなぁ………」
グズグズ泣き始めた龍逸の目尻にちょん、とキスを落として、
「ううん、僕の方こそごめんね……僕が変なこと言ったから………」
「何言ってんだ……お前のせいじゃねえよ………」
泣きながらも男らしく否定する龍逸。とはいえ、実際その通りなのだ。実はこれで３回目だった。初エッチということで、興奮し過ぎた龍逸が鼻血を噴き、結局失敗に終わってしまったという笑えない結末。
そのたびに龍逸は遣る瀬ない思いと疼く下半身を抱えて激しく落ち込んだが、柚葉はいつも「焦ることないよぉ」と宥めてくれる。その優しさがまた、龍逸に言いようのない罪悪感と物悲しさを刻むのだ。
「ぅっ、ぅぅ………どーしてこうなんだ、肝心の時に俺はっ―――」
「こら、泣くんじゃないの、男の子でしょっ。また次の機会があるんだから。ね、時間はたっぷりあるよ」
めっ、と怒ってみせたと思ったら、聖母のように清らかな微笑みを向ける。龍逸はうっとりと目を細め、
「そうだなあ……ゆずのその笑顔見てるだけでなんつーかこう、頭の中で天使が大合唱するっつうか………」
「た、たっちゃん、大丈夫？ もしかして意識が……」
再びあたふたしながら、目の前で必死に手を振る柚葉。龍逸は力ない笑いをこぼして「お迎えの大合唱じゃねえから大丈夫」と答える。そして鼻を押さえていたティッシュをそっと外して、
「おお、もう血が止まったみたいだ」
「ほんと？ ああ、よかったぁ」
ほっと胸を撫で下ろし、無邪気に微笑む柚葉。その愛らしい姿を目の前にして、龍逸の傍若無人な雄は再び脈動を開始する。しかしぐっと下腹に力を入れてこらえた。
また柚葉に心配をかけるようなことはしたくない。今夜はこのまま大人しく寝て、機会を改めて再チャレンジした方が男らしいというもの。
「ね、たっちゃん………隣にいってもいい？」
「ん？ あ、ああ……」
龍逸が答えると同時に柚葉は毛布をめくり、器用に身体を滑り込ませた。そして龍逸の片腕を無理やり伸ばして腕枕を作り、身体をもぞもぞとねじ込んでぴったり密着させた。
「ふふっ、きもちいーい」
龍逸の胸に頬をすりすりして、幸せそうに笑う。龍逸もつられて笑い、
「ああ。こうしてるだけでも、十分気持ちいいな。セックスに負けないくらい」
「うん。すごく、すごくしあわせ………」
腕の中の身体は少し冷えていた。龍逸は謝罪の言葉を呑み込んで、四肢を絡めてぎゅっと抱き締める。すると徐々に肌の温もりが蘇り、いつもの柚葉の甘い馥りが漂ってきた。
「このまま……融けちまいそうだ………」
愛しさと切なさのこもった声で、ぽつりと呟く。まだ信じられないというのが本音だった。柚葉とこうして素肌を合わせているなんて。安心しきった顔で、身体を委ねてもらえるなんて。
「ゆず……このまま寝ていいぞ………」
「ん……おやすみなさぁい………」
すでに眠りの入口だった柚葉は、ほわほわした声で答えると、そのままうっとりと目を閉じた。
完全に意識が沈む寸前、小さな小さな声で「たっちゃん、すきぃ……」と呟くのを、龍逸は聞き逃さなかった――――また、涙が出そうになった。
その翌日、龍逸は大学の構内を肩を落として歩いていた。明らさまに落ち込んだ様子でとぼとぼ歩いてはいるものの、それでも否応なく目立ってしまう。
187センチはあろうかという逞しい長身、少し長めの茶色い髪は風が通り抜けるたびにさらさらと流れ、日の光を受けて琥珀色に輝く。
胡散臭さすら感じさせてしまうほど整った容姿は、周囲の背景を有無を言わさず後退させ、誰の視界においても絶大な存在感を刻み込むのだ。
しかし、超絶美形の宿命ともいえる近寄り難いオーラのようなものはなく、気さくで人懐っこい性格のお陰かいつも人の輪の中心にいた。そう、中心という名の空洞に。
龍逸は友人に囲まれながら、絶えず虚しさを反芻していた。もちろん、いかにも俺は孤独だ、誰も俺を理解できないといった自己顕示とは無縁だったから、そんな龍逸の心裡に気付く者などいるはずもなかったが。
もしかしたら、本人も気付いていなかったのかもしれない。柚葉と出会うまでは。柚葉の冷めた瞳と同じものを自分も持っているのだと自覚するまでは。
「うう……くっそぉ………」
龍逸は行き場のない苛立ちをぶつぶつ呟きながら、昨夜の失敗を思い出していた。
３度目の正直だっ、と勢い込んでホテルを予約し、万全の態勢で臨んだ記念すべき夜。その結果がアレである。情けなくて、ちょっとでも気を抜くと泣き出しそうになってしまう。
初めて会った瞬間から恋の重病にとっつかれ、それまではまさに糸の切れた凧のごとく天空をふわふわして適当に遊んでばかりだったのに、抵抗できぬ引力に絡め取られて急転直下。
寝ても覚めても彼のことばかり思い煩い、出会って二日後にはもう、重くて濃い愛の告白をぶちかましていた。
それからはまさに猪突猛進。柚葉の冷たーい視線、無視、明らさまな嫌味にもめげず、というかそれすらありがたく頂戴して笑顔で付きまとい、ストーカーすれすれの行為を爽やかに実行し、誰に何を言われようがどんな邪魔が入ろうが、あっさりはね付けて自分の想いを貫いた。
そして半年後のある朝、大学の掲示板前でいつものように柚葉を待ち伏せし、いつものように偶然を装って「やあ、おはよう」と爽やかに挨拶し、いつものように「柚葉、好きだよ」と何百回目かの告白をした。
すると柚葉はいつものように睨んできたり溜め息をついて通り過ぎることなく、その場で赤くなって俯いて「僕も好きだよ」と小声で返してきたのだ。
龍逸はぽかんと口を開けて、俯いてしまった柚葉の前頭部をじぃっと見詰めた。
聞き違いかもしれないと思ったが、それならそれで望むところ。聞き違いをそのままゴリ押しして既成事実にしてしまえっ、ととんでもない考えを実行しようとしたその時、柚葉が顔を上げて今度はもっとはっきりした声で、「僕もたっちゃんが好き」と告げた。
その瞬間龍逸は何がなんだか分からなくなり、湧き上がる甘くてしょっぱい塊を嚥下できず、掲示板の前で号泣したのだ。
そして気付いた時には中庭のベンチに座って、柚葉の温かな手のひらに背中を撫でられていた。
子供みたいにげんこつを目に当ててまだぐしぐし泣いている龍逸を、柚葉は「男のコでしょ？ 泣かないのっ」と優しく叱って、濡れた頬にそっと唇を押し付けたのだった。
それが、今から約３週間ほど前のこと。それからはもう、周りがひくほどのあつあつ、ラブラブ、あまあまぶりをこれでもかと振りまいて幸せ列車驀進中。
そんな経緯で結ばれたのだから、初エッチにかける意気込みも相当で、つい力が入って緊張してしまうのも当然かもしれない。しかし３度連続で鼻血ブーとくればこれはまた別問題で、龍逸は焦り始めていた。
―――あんまり力みすぎるからいけねえんだよな。もっとこう、軽い気持ちで。そう、その辺の女とヤる時みたいに……って、だめだそんなのっ。柚葉とその辺の姉ちゃんを一緒にするなんてっ。そうじゃなくて、自然に、スマートに、ナチュラルに………
「ナチュラルなセックスってどうやればいいんだぁッ！」
―――…………はッ、俺としたことがッ
龍逸は周囲から突き刺さる胡乱な眼差しを意識しつつ、早足で教室に向かった。
「おっ、一条。いいところに来てくれたっ」
講義を終えて大教室から出たところで、友人の一人に声を掛けられた。試験前のノートコピーと、合コンの誘いの時のみ限定の友人。だからもちろん、下の名前も知らない。
「ああ、大下。何だ？ また女に囲まれて」
確か大下だったよな、いや、大山だったけ？ と自問しながら言葉を返し、薄っぺらな微笑みを浮かべて近付いていく。
「あのさあ、今週の金曜、空いてねえ？ 学科のコたちと合コンやるんだけど、女の子が足りなくってさ。彼女ら誘ったら、お前が来るならいいよって」
大下を囲む女たちはみな、期待感を周到に押し隠した表情で知らんふりしている。合コンなんて大して行きたいわけじゃないけど、まああんたが来るなら行ってやってもいいわよ、とでも言いたげに。
その中には嘗て、龍逸と短期間付き合って振られたことのある女もいた。大下はさらに下手に出て、
「なあ、頼むよ。もちろん飲み代はこっちがもつからさ」
両手を合わせて拝み始めた。龍逸ははあ、と溜め息をついて、
「あのなあ、俺には可愛い可愛い、目の中に入れても痛くないほどの恋人がいるんだぞ。合コンなんて行くわけねーだろ。っつーか、この半年一度も行ってねえ。お前もよく知ってるはずだ」
大下は素直に頷いて、
「ああ、知ってる。でもめでたくゲットしたんだろ？ じゃあ何の問題もないじゃないか」
「どういう意味だよ、それは」
大下は心底不思議そうな顔をして、
「どういう意味って……。お前、あの子手に入れたんだろ？ ゲームイズオーバー。勝者一条。で、また次の面白そうな標的を探す。だから―――」
大下は続く言葉を呑み込んだ。いつも薄い笑いの菲膜で覆われている龍逸の顔が、きりきり音をたてて氷結するのを目の当たりにしたからだ。
「大下、今回は許してやる。俺のこれまでの行いを考えれば、お前がそんな風に思うのも無理はねえからな。でもいいか、今度柚葉を貶めるような下らねえこと言ったら、その時は容赦なくぶっ飛ばす。よく覚えておけ」
「な、なんだよ一条………お前まさか―――」
「まさか本気なのか？ なんて分かりきったこと訊くなよ。とにかく、合コンだとかパーティーだとか、そんなものには今後一切顔出さねえし、興味もねえから。誘っても労力の無駄だぞ」
無関心を装っていたはずの女性陣の表情が、いつの間にか険しいものに変わっていた。悔しさや怒りをにじませた攻撃的な眼差しで龍逸を睨んだと思ったら、ふいと顔を背けて何も言わず去ってしまった。
その強張った背中を見送りながら、そうそう、怨むなら俺を怨めよと胸の内で呟いて、龍逸はほっと息を吐いた。彼女たちの負の感情が柚葉へ向かわずに済んでよかった、と。
しかし、好きな男を男に取られた彼女らの怒りや嫉妬が、この程度で済むはずもなかったのだ。
龍逸は後になって、自分の認識の甘さを思い知ることになる―――
INDEX TOP NEXT