ささやかな奇跡
「ね、どのケーキがいいかなあ。このブッシュ・ド・ノエル大人っぽくてお洒落。あ、ラム酒入りだって。おっとな～。でもこっちのサンタ人形が載ってるのも捨てがたいし」
クリスマスケーキのカタログを真剣な面持ちで眺める柚葉。優もつられて覗き込み、
「うん、どっちも美味しそうだね」
「ね？ 決められないよお。ねえ、たっちゃんはどう思う？」
『あん？ ケーキなんてどうでもいいから、ゆずのミニスカサンタが見たい』
龍逸の返答を、優は真面目くさった顔でそのまま伝える。この伝達が、自分にとって何より重要な仕事だと言わんばかりに、厳粛に。
「ケーキなんてどうでもいいから、ゆずのミニスカサンタが見たい」
柚葉はぽかんと口を開け、次の瞬間沸騰した。
「なっ！ なに言ってんだよ、優くんの変態！ せっかくのクリスマスが───」
「わ、わわっ、待ってゆずちゃん！ 俺じゃないよお～。たっちゃんが……」
『優くんの変態！ せっかくのクリスマスが台無しっ』
柚葉の口調を真似て龍逸が叫ぶと、今度は優が沸騰した。
「なんだよッ、俺はたっちゃんの言葉をそのまま伝えたんじゃないか！」
『私のようなジェントルマンが、ミニスカサンタコスプレが見たいなんて破廉恥なことを言うはずがないだろう』
「…………」
優は額に鉛色の翳を落とし、無言のまま拳を振り上げ龍逸に殴りかかる。が、もちろん傍からは怪しげなダンスを踊っているか、単にじたばたしているようにしか見えない。
『うわっ、こええぞ、優。お前、典型的なキレる子供だな。つうか、いくら殴っても俺は死なねえぞ。もう死んでんだから』
龍逸が苦笑混じりに宥めると、それが聞こえたわけではないだろうが、柚葉も「優くん落ち着いて」と重ねて宥めた。
「ほら、ケーキどうするか決めようよ。注文の締め切りは今日なんだから」
「う、うん。そうだね。柚ちゃん、ごめん」
「いいよお。どうせたっちゃんが優くんをおちょくるようなこと言ったんでしょ？ あんな変態幽霊は放っておいて、ケーキ選ぼ」
柚葉はそう言って、優の隣の何もない空間をじろっと睨んだ。龍逸は途端にしおれ、
『うう……そんな冷たいこと言うなよお、ゆじゅーーーーっ』
悲愴な叫びとともに柚葉に勢いよく抱き着いたが、もちろん柚葉は気づかない。当たり前だ、幽霊に抱き着かれても痛くも痒くもない。優はたまらず、柚葉の耳元にこそっと囁いた。
「ね、ねえ、柚ちゃん。たっちゃんが泣きながら抱き着いてるよ」
「いいよいいよ。好きにさせとこ。今はケーキが優先」
素っ気ない口調で答えた柚葉だったが、その口元は嬉しそうに緩んでいた。
人間二人と幽霊一人の奇妙な同居生活は、平穏そのものだった。
柚葉には龍逸の声も姿も捉えられないから、その思いを知るには優に頼るしかなく、不便な面もあった。しかし当の優が誠実に通訳をこなしていたから、徐々に慣れてこの生活自体を各々が楽しめるようになっていたのだ。
もちろん、この“楽しい”が感情の表層でしかないことは、言うまでもない。三者三様の悲哀、寂寥、苦悩を腹の底に抱えていたが、それが騒ぎ出さぬよう注意深くコントロールしつつ日々を“楽しく”過ごしていたのだ。
自己欺瞞と切り捨ててしまえばそれまでだが、最愛の人の死という現実を正面から受け止められる強い人間が、一体どれほどいるというのか。
哀しみの底なし沼にずぶずぶ沈み込み、自分を失ってしまうのなら、沼の縁で危ういバランスを保ちながらも日々を平穏に過ごす方がいい。
たとえその平穏が欺瞞の産物であっても。ちょっとした刺激で崩れてしまう脆い平穏だと分かっていても。
そして、クリスマスが近づいてきた。三人で迎える初めてのクリスマスには、不思議な高揚感があった。なかでも一番はしゃいでいたのは柚葉だったが、それは淋しさを紛らわせるための空元気だった。
ちょっと気を抜くと、つい去年のクリスマスを思い出してしまう。一人が淋しいと電話で訴えた柚葉のために、ゼミの合宿所から高速を飛ばして帰ってきてくれた龍逸。
夜中目を覚ますと布団の中に龍逸がいて、サンタだよ、と笑ってキスをしてくれた。温かくて嬉しくて幸せな思い出。あれが二人にとって最初のクリスマスで、最後のクリスマスになってしまった。
でも、思い出は思い出。呑み込まれてはいけない。柚葉は自分にそう言い聞かせ、今を楽しむべく準備に奔走したのだ。しかし目的がすり替わるのに時間はかからなかった。今を楽しむためではなく、過去から気を逸らすため。
龍逸も優もそんな柚葉の本心に気づいていたが、何も言わず一緒にクリスマスの準備を楽しんだ。必要以上にはしゃぐ柚葉に痛ましさを覚えつつも、そうするしかなかったのだが、しかし───
「たっちゃん優くん、クリスマスディナー完成したよ！ 食べよ食べよ」
俺も手伝うからという優の申し出を却下して、「二人をびっくりさせたいから」と言って一人でキッチンにこもっていた柚葉。確かに、テーブルに並べられた料理はどれも驚くほど完成度が高く、クリスマスらしい華やかな彩りに溢れていた。
サラダもチキンもパスタもミートパイも、全て大皿にどかっと盛り付けて自分の皿に取り分けるパーティースタイル。そうすることで、龍逸も一緒に参加していることを強調しようとしたのだろう。
「う…わ！ すごいね、柚ちゃん。これ全部作ったんだ」
「もっちろん。じゃあ、乾杯しよう。優くん、たっちゃん、メリークリスマス！」
優は慌ててグラスを掲げ、「メリークリスマス」と唱和する。そして龍逸をそっと窺う。龍逸が小さく頷くと、
「たっちゃんもメリークリスマス、って言ってるよ」
優の通訳を聞いた柚葉は、一瞬、痛みをこらえるように顔を歪めた。が、すぐにぱっと笑顔を咲かせ、
「二度目のクリスマスだね、たっちゃん」
『ああ。去年はゼミ合宿で、柚には淋しい思いさせたからなあ。今年はまあ、こんな姿になっちまったけど、こうして一緒にクリスマスを迎えることができたし。上等だろ』
「うん、そうだね。今年は優くんもいるし。去年の独りぼっちのイブよりずっと楽しい。来年もまた、三人でパーティーしようね」
『はは、そうだな。俺が成仏できなかったら、またやろう』
龍逸の言葉を正確に伝えながら、優は胸の奥に沈殿する苦いものを意識せずにいられなかった。いつもやっている通訳なのに、殊更つらく感じられるのはきっと、今日がクリスマスだからだ。
楽しいパーティー。目の前にはごちそう。そのせいで、苛酷な現実が余計に際立って胸に迫ってくる。なのに龍逸も柚葉も、そんな翳など感じさせない明るい声で楽しげに会話しているのが、苦しい。自分もそれに合わせて明るい声を出さねばならないのも、苦しい。
もちろん自分のつらさなど、二人のそれとは比ぶべくもない。むしろ、二人の間に立って励まし、少しでも残酷な現実を忘れられるよう振る舞うべき立場なのだ。でも、
『おお、チキン旨そうだなあ。食えないのが残念だ』
「うん……たくさん作りすぎたね」
『いいんじゃね？ 俺は食えないけど、優のやつが平らげてくれる。何作ってもこいつ、旨い旨いって言うぞ。なんせ、これまで主食はモヤシとパンの耳だったんだからな』
「うわ～、分かりやすいびんぼー生活」
『だろ？ プア充も真っ青の……優？ どうしたんだよ』
フォークを握り締めたまま俯く優を、龍逸は訝しげに覗き込む。優は肩を震わせながら、
「もう……嫌だよ、こんな通訳は」
絞り出すように吐いた言葉には、本音が凝縮されていた。柚葉は慌てて立ち上がり、優の傍らで腰を屈め謝罪する。
「ごめんね。なんか、変な役目押し付けちゃって。いちいち面倒くさいよね」
「ちが…う……」
「えっ？」
「面倒とか……そんなんじゃない。ただ……」
言葉が続かず、優は席を立って自分の部屋へ駆け込んだ。扉を閉めると同時に後悔の念が湧き上がるが、どうすることもできない。
『おい、こら。ヘタレ。ったく何やってんだよ』
「ご、ごめん、たっちゃん。でも俺っ───」
『お前が崩れちまったら、柚葉はどうすりゃいいんだよ。一番つらくて哀しいのはあいつなんだぞ』
やはり龍逸はちゃんと分かっていた。優が通訳を面倒がっているわけではなく、ただつらさに耐えられなかっただけだと。
『だけど、めそめそしても始まらないからって、必死に自分を律して笑顔を浮かべてるんだ』
「分かってる、分かってるよ！ だから見てられないんだ。あんな……笑顔で……」
溢れる涙をがしがしと乱暴に拭い、優はクリスマスに対する論理を超えた呪詛を吐き出す。
「なんでだよ。クリスマスなんだからさ、今日くらい奇跡が起きたっていいじゃないか。柚ちゃんにもたっちゃんの姿が見えるとか、声が聞こえるとか。イエ
ス・キリストは愛の神なんだろ？ だったら、こんなに深く愛し合ってる二人に、ちょっとくらい手を差し伸べてくれたっていいじゃないか！」
自分でもめちゃくちゃなことを言ってると分かっている。でも、止まらなかった。
「神様なら……奇跡、起こしてくれよぉ……」
『バカか、お前は。“これ”が奇跡でなくて何なんだよ』
「え？」
『え？ じゃねえよ。俺は死んでんだぞ。なのに魂はこうして現世に留まり、柚の傍にいる。しかもお前と出会うことができた。もしこの奇跡がなかったら、柚葉は今ごろどうしていたか。少なくとも、クリスマスを楽しもうなんて気持ちにはなれなかったはずだ。十分すぎる奇跡だと思わないか？』
優はぽかんと口を開けて龍逸を見つめる。龍逸という存在がすでに自分の日常の一部になっていたから、当たり前になっていたから、“奇跡”という言葉と結びつかなかったのだ。でも確かに、龍逸の言う通りだ。これが奇跡でなくて何だろう。
「そう……だね。凄い奇跡だ」
『だろ？ これ以上望んだらバチが当たるぜ。求めればキリがない。だから、現状で最善を尽くすんだ。それが、お前ら生きてる人間の務めなんだよ』
優は深く項垂れ、龍逸の言葉を全身で噛み締めた。そして顔を上げぬまま、謝罪を繰り返す。
「うん、ごめん、たっちゃん、ごめん……」
すると頭上から、『しょうがねえな』と溜め息混じりの囁きが降ってきた。叱責を怖れる子供のようにこわごわ顔を上げると、龍逸はちらと肩をすくめ、
『悪いと思ってるなら、俺の言うこと聞いてもらおうか』
「う、うん、もちろん！ 何でもやるよ」
『よしよし。じゃあ、柚にミニスカサンタの格好させろ。衣装は、俺が去年のクリスマスにプレゼントしたやつが押入れにある』
新喜劇ばりにコケた優だったが、従わないわけにはいかない。「分かりましたっ」と勢いよく立ち上がり、鏡を見て涙の跡を周到に消すと、部屋を出て柚葉のいるダイニングへ。
「あ、柚ちゃん、さっきはごめん。その……たっちゃんの言葉を伝えるのが面倒とかそういうことじゃなくて……ええと……」
何と説明したらいいのか困惑をさらす優を、柚葉は笑みを浮かべて穏やかに制する。
「いいんだよ、優くん。それよりご飯食べよ。ね？」
まるで、全て分かってるよとでも言うかのような態度に首を傾げつつ、優は龍逸から課せられたミッションを遂行する。
「あの、さ。たっちゃんが、どうしても柚ちゃんのミニスカサンタを見たいって言うんだ。だからその……」
『あ、お前！ 俺のせいにしやがって』
「俺のせいって、たっちゃんに頼まれたから───」
「はいはい、優くん、分かったから。しょうがないなあ、もう。そこまで言うんなら着てあげるよ。あ、でも、優くんは別に見たくないんだよね？」
柚葉の問いに、優はピキンと固まる。やがてもごもご口ごもりつつ、
「……見たい、です」
『なんだよ、やっぱ見たいんじゃねえか。最初から素直にそう言えばいいのに。変態は恥ずべきことではないぞ！』
「たっちゃんの変態がうつったんだ！」
『人を病原菌みたいに言うな！』
「人じゃなくて幽霊だろっ」
言い合いを始めた二人を柚葉は半笑いで宥めてから、着替えるため自分の部屋に戻った。そして10分後───
『うおおおおーーーーっ、ゆじゅーーーーーっ、ぶらぼーーーー！』
赤のベルベッド生地に白いふわふわの縁取り。丈は膝上20センチ。これぞ紛うかたなきミニスカサンタ。膝頭をもぞもぞとすり合わせつつ恥ずかしそうに現れた柚葉に、二人のテンションは急上昇した。
「ね、ヘン……じゃない？」
ぽそっと訊ねる柚葉に、優は首が千切れそうな勢いで振って「す、すごく似合うよっ」と上ずった声で返した。
「ほんと？ ね、たっちゃんの反応は？」
「反応っていうか、柚ちゃんに抱き着いてすりすりしてる」
優が正直に答えると、柚葉はふと肩の上に視線を滑らせ、照れくさそうに微笑った。柚葉には見えていないはずなのに、しっかり龍逸と目が合っている。
いや、それは優の錯覚なのかもしれない。けれど優は、ささやかな奇跡を見たような気がして、口元が綻ぶのを抑えられなかった。
柚葉のサンタコスが奏効したのか、その後のディナーは楽しく浮き立った空気を維持したまま終わった。
俺がやるからと言う優に後片付けを任せ、柚葉は一人で部屋に戻った。着替えようともせず、サンタの格好のまま床にぺたんと座り込む。やがて柚葉は、口を開いた。
「たっちゃん、いる？」
『ああ、いるよ』
柚葉に聞こえないのは分かっている。それでも龍逸は、返事をなおざりにすることはなかった。たとえ聞こえなくても、魂に届いていると信じて。そしてそれは、柚葉も同じだった。会話が成立しないと分かっていても話しかけるのをやめない。
「優くんも、ずっとつらかったんだね。僕たちのことを、あんなに真剣に思っててくれたなんて……」
『ああ、やっぱりさっきの優との話、聞いてたのか』
「ごめんだなんて。優くんが謝ることないのに……ほんと、お人好しなんだから」
柚葉はサンタ帽を脱いで膝の上に置き、ふふっと笑う。
「たっちゃん、わざとでしょ？ 優くんが深刻にならないよう、楽しい雰囲気を作るために僕にこの格好をさせて……」
『バぁカ、違えよ。ゆずのミニスカサンタが見たかったんだよ』
「たっちゃんて、変態でエロ魔人だけど、そういう気遣いができる人だもんね」
柚葉は一人語りを続けながら、サンタ帽を両手でぎゅっと握り締めた。やがてその手が、小刻みに震え出す。
「ふ、ふふっ、ふふふ………っ、ぅ、ぅぅ……ぅぅぅーーーーッ」
背中を丸め、肩をすぼめ、その姿はまるで内なる怪物が暴れ出すのを必死に抑え込むかのよう。ぐしゃぐしゃに握り締めた赤い帽子に、ぼたぼたと透明の雫が降りかかる。
『……柚葉、泣くな』
「うぁぁ……ぁ、ぁぁ……ッ、たっちゃ…ぁぁ……ん。さびしいよぉ、つらいよぉ、あいたいよぉぉ………」
『一人で泣くな。優のいるところで泣け。でないと……慰められねえだろ』
「ぁぁぁぁぁ……っ、く、ぅ、ぅぅっ……」
『柚葉、頼むから……』
龍逸はたまらず、優を呼びに行こうとした。しかし思わず立ち止まる。柚葉の泣く声がぴたりと止んだからだ。振り向いて駆け寄れば、柚葉は涙に濡れた顔に笑みを咲かせ、
「たっちゃん、大丈夫だよ。僕は大丈夫だから傍にいて」
『ゆず……』
龍逸は柚葉の正面に膝をつき、肉体の欠けた両腕を大きく広げて抱き締めた。もちろん、柚葉に温もりが伝わるはずもない。
しかし柚葉は、見えない抱擁にうっ とりと酔うかのように目を閉じる。龍逸はそっと顔を近づけ、唇をついばんだ。そして、己の存在全てが凝縮された言葉を囁く。
『愛してる』
「愛してる」
龍逸は驚いて瞠目する。ぴったり重なった二つの言葉。この愛すべき偶然こそ、奇跡そのものではないか。
『どうだ、優。これも奇跡だぞ。クリスマスにふわさしい、ささやかだけど美しい奇跡』
龍逸は少し得意げにそう言うと、たった今、奇跡的なタイミングで愛を告げた柚葉の唇に、もう一度ふわりと口づけた。
（Fin）
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