始まりの歌
２.
「あっ、あそこにおっきい売店があるよ。ご両親へのお土産を買わなくちゃ」
東京駅のホーム。優の手を引いて、元気いっぱい店に飛び込む柚葉。そして次々と東京みやげを選んでゆく。
「えっと……東京バナナに定番のナボナ、雷おこし、月島もんじゃセット……あとは………」
「ゆ、ゆずちゃん、そんなたくさん持ちきれないよぉ………」
優は苦笑を浮かべて近付き、肩に手を置こうとした。が―――
「それから……都庁まんじゅうと…………っく、んっ…………」
お土産の箱をいっぱい抱えた柚葉の背中は、小刻みに震えていた。
「ご、ごめ……泣いたりして………」
両手に箱を抱えているせいで涙を拭えず、ぽたぽたと雫が垂れる。優は黙って後ろから抱き付き、指先と唇で涙を受け止めた。
「柚ちゃん、お土産はいいから、ホームへ行こう」
持っていた商品を全て戻して柚葉の肩を抱き、店を出る。もう列車は到着していた。別れの時間は刻々と近付いている。
「ごめんね………笑顔で送り出すって決めてたのに………」
項垂れたまま、消え入りそうな声で謝る柚葉。そのまま無言の時が流れたが、やがて出発が間近であることを知らせるアナウンスが鳴り響いた。
柚葉は身体じゅうの意志を総動員して顔を上げ、笑顔を拵えた。
「優くん、もう行かなくちゃ。僕は平気だから。がんばるから。だから元気でっ―――」
言葉の途中でいきなり抱き寄せられ、柚葉の呼吸は止まった。胸が潰されそうなほどの激しい抱擁。
「優くん……」
「いつになるか分からない、けれど俺は必ず君のもとへ戻ってくる。必ず」
「ありがとう……。信じて待ってる」
隙間なくぴったり合わさっていた身体は離れ、その代わり強い眼差しを絡め合う。柚葉はもう泣いていなかった。悲しみを無理に押し込めているのが手に取るように分かる、作り笑顔を浮かべている。
無理しないで、泣いていいんだよ、そんな宥めの言葉が出そうになるが、優は敢えて引っ込めてふわりと笑った。
「柚ちゃん、もし、何か困ったことが起きたりどうしようもなく淋しくなったら、いつでも俺を呼んで。すぐ駆け付けるから」
柚葉は頷いて素直に「ありがとう」と答えた。しかし、自分が優に助けを求めることはないだろうと分かっていた。何があっても歯を食いしばって耐え、いつか優が帰ってきてくれる日まで、ただじっと待ち続けるに違いないと。
優は足許の荷物を抱え、乗車口へ向かった。そしてくるりと振り返り、
「それじゃ……柚ちゃん。またね」
意識したわけではなかったが、龍逸へかけたのと同じ別れの言葉を差し出して電車に乗り込んだ。柚葉は傍に駆け寄り、
「電話だと会いたくなっちゃうから、メール……ううん、手紙書くね」
「うん、俺も書くよ。柚ちゃんっ、元気で！」
扉は閉まり、優を乗せた列車はゆっくり動き出す―――
「優くぅん………」
列車の姿が完全に見えなくなってから、柚葉はその場にしゃがみ込んで思う存分涙を流した―――
手紙書くね―――そう約束した二人だったが、手紙が出されることはなかった。
柚葉は携帯の番号もアドレスも変えず、「元気にやってるよ」という優からの連絡が来るのを待った。帰宅すれば真っ先に留守電のメッセージを確認した。
しかし優からの伝言はなく、また、柚葉も自分から優に連絡を取ることはなかった。
結局二人は東京駅で別れて以来、一度も言葉を交わすことなく、
そして―――
それから三年の歳月が流れようとしていた――――
「村上先生、前期の講義で使用する映像資料についてまとめておいたので、目を通してもらえますか？」
「ああ、後でいいかな？」
「駄目です。今日中に申請しないと、一回目の講義に間に合いません」
村上教授は面目ないと言わんばかりに肩を竦めて、渡されたリストを一読した。
「うん、完璧ですね。本当に、美並君には足を向けて寝れないなあ」
そう言ってのほほんと笑うと、窓から外を眺めて、
「やあ、もう桜が咲き始めているよ。道理で風が温かいと思った」
「今年のゼミ生歓迎会も、河原でお花見しながらになりそうですね」
柚葉はにっこり笑って、教授と一緒に綻び始めの桜を眺めた。
大学を卒業した柚葉は、村上教授の人柄と研究分野にかける情熱に惹かれ、その後も院生としてゼミに残った。そして助手として働きながら、修士号を取るための勉強も進めていた。
「今年はどんな学生諸君が入ってくるのか……楽しみですねえ。美並君も、指導よろしくお願いしますよ」
「はいっ」
教授の言葉を受けて、まるで自分が新入生になったかのような気持ちの高揚を覚えた柚葉は、元気いっぱい答えて新しいゼミ生を迎えるべく、研究室の片付けを始めたのだった。
「あ、そろそろ新譜出てないかなあ……」
大学からの帰り道、柚葉は少し遠回りしてレコード店に寄った。そこは小さな店だったけれど、ストリート系アーティストの自主制作CDの品揃えが豊富だった。
月に何度か通っては、新作が出ていないかチェックするのが習慣になっていたのだ。
「いらっしゃいませ」
すっかり顔馴染みになった店主の、ごつい風貌に似合わぬにこやかな笑顔が迎えてくれた。柚葉も挨拶を返して、インディーズ系の棚へ真っ直ぐ向かう。すると店主が「新しいの入ってますよ」と声を掛けてきた。
「え？ あの……」
「後藤優、でしょう？」
目をぱちぱちさせる柚葉の前に、１枚のCDがそっと差し出された。
「彼、いいですよね。歌い方は素直で真っ直ぐなのに、声に甘い陰翳がある。楽曲の作り方も丁寧で、音楽に対する真摯な情熱が伝わってきます」
店主の言葉にふわふわ頷きつつ、柚葉は差し出されたCDを受け取った。
「『Remember You』………」
「はい。僕もさきほど聴いたのですが、彼にしては珍しいストレートなラブソングでした。ますます若い女性のファンが増えるでしょうね。いよいよメジャーデビューも間近かな」
店主の評価は大袈裟なものではなかった。事実、アマチュアのストリートミュージシャンを紹介する深夜番組で優の活動が取り上げられると、その人気は地元だけでなく全国に広がり、番組内の人気投票でも常に上位を占めるまでになった。
その後も新曲を発表するたびに番組で紹介され、彼の歌を聴くために路上に集まるファンたちは増えるばかり。いずれメジャーデビューするのは間違いないだろう。
柚葉は受け取ったCDを店主に渡し、「これをください」と言って深い溜め息をついた。
―――どんな曲なんだろう……
自宅までの帰り道、柚葉は逸る気持ちを抑えてわざと歩みを緩め、綻び始めた桜なぞを眺めたりしていた。
Remember You―――思い浮かぶのは、龍逸との思い出の曲。いつだったか、優が自分を救うため路上で声を張り上げ歌ってくれた曲―――
「ラブソング、かあ……」
誰へ向けた曲なんだろう、もしかしたら新しくできた恋人への想いを綴った歌なのかもしれない。
「仕方ないよね……」
三年前に拙い約束を交わしたとはいえ、あれ以来何の音沙汰もない。それに、今の優はあの頃の優とは違うのだ。
全国にファンがいて、テレビでも何度も取り上げられ、いずれメジャーデビューする金の卵。三年というのは人を変えてしまうのに十分すぎる期間だ。
それは柚葉も分かっている。分かってはいるのだが、それでもまだベッドの上で、東京駅で交わした約束にしがみ付いている自分をどうすることもできない。
そう、信じていると言えば響きは美しいが、結局はしがみ付いているだけなのだ。
マンションに着いた柚葉は誰もいない空間に「ただいま…」と声を掛けると、暗い部屋に入って鞄を投げ出した。そして手に持っていた優のCDを開けようとした時、部屋の隅で何かがちかちか点滅しているのに気付いた。
「あ、留守電が………」
見ればメッセージが１件入っていた。再生ボタンを押して耳を傾けると―――
『大変ご無沙汰しております。後藤優です。えと……お、お元気でしょうか。
え……私事で恐縮ですが、このたび、レコード会社と正式契約をし、活動の拠点を東京へ移すことになりました。ようやくではありますが、柚葉さんとの約束を守ることができそうです。
明日、レコード会社で打ち合わせを済ませた後、いつもの場所でアマチュア最後のストリートライブを開催する予定です。お忙しいとは存じますが、柚葉さんのために歌わせていただきたいと思っておりますので、ぜひお寄りいただきたく―――』
「もおっ……ぜんっぜん変わってないんだから……ばか、ばかぁ………」
余りに優らしいメッセージに笑いのさざ波が湧き上がる。しかし―――
「ばかぁ………んっ、んっく、くっ…………ぇっ、ふぇぇっ……………」
それはすぐに、胸奥から込み上げる嗚咽に掻き消された。柚葉は電話の前にぺたんと座り込み、三年間溜め込んだ涙を存分に流したのだった。
柚葉はいつもの場所へ向かってひたすら走っていた。昔一緒に住んでいた頃、優が週一回のストリートライブを開いていた駅前の広場へ。
「もうっ、こういう日に限って………」
データの処理にミスが見つかり、慌てて直していたらあっという間にライブの時間になってしまった。
ようやく到着した時にはすでに人だかりができていたが、きっと地元でのライブではこの何十倍も集まるのだろう。柚葉は跳ねる呼吸を必死に整えて、ゆっくり近付いていった。足の震えを自覚しつつ。
すると植え込みの段に座ってギターを抱えていた優が何気なく顔を上げた。二人の目と目が合った瞬間、三年間の空白があっという間に埋まった。時間は巻き戻され、この場所で毎週のように優の歌声に耳を傾けていた頃のときめくような感覚が蘇る。
優も心底嬉しそうに微笑むと、ちょっと照れ臭そうに鼻の頭を掻いて「新曲を聴いてください」と言った。パチパチと拍手が沸いたが、優がギターを抱え直すと自然に引いて澄んだ静寂が支配した。
確かな約束もない 交わしたのは曖昧な言葉 精一杯の作り笑顔
でも僕は知っているんだ
桜が咲くころ また君に会える きっと会える
月の朝も星の夜も 舞い散る春も暮れゆく秋も Remember You
かなしい昨日も輝く明日も 目を閉じても耳を塞いでも Remember You
もうすぐ桜が咲く もうすぐ君に会える
もうすぐ君に会える――――――
ライブも終わり、名残惜しそうに優に話しかけていた観客たちもようやく帰っていった。優の周りに再び静寂が戻り始めた時、控え目な足音が近付くのが聞こえた。
「ゆう…くん………」
「ゆず…ちゃん……」
ちょっと手を伸ばせば抱き合えるほど近くにいるのに、二人とも黙って見詰め合うばかり。先に口を開いたのは柚葉だった。
「優くん、背…伸びたね……それに、すごく逞しくなっちゃった………」
うっとりと眩しそうに見上げられ、くすぐったそうに肩を竦める優。
「工場を手伝ってたから……。俺は技術もないし、できることといったら力仕事ばかりで。気が付いたら何だか筋肉が付いてた」
そう言って、三年前と全く変わらぬ笑みを浮かべた。優の存在証明とも言える、見るものを癒す春風のような柔らかな笑顔。そして恥ずかしそうに目を伏せて、
「柚ちゃんも……何だかますます……その、き、綺麗になったね。もしかして………新しい恋人とかでき―――」
「ばかっ」
鋭い声で遮って、ためらうことなく優の胸に飛び込む。
「ばかっ、ばかぁ………ぼく、ずっと待って…………」
「柚ちゃん……」
「ずっと…待ってた…………月の朝も……星の…よるも…………ふぇ、ぇぇっ………」
優は両腕に三年間の想いを込めて、柚葉の身体をぎゅぅっと抱き締めた。
「ありがとう。待たせてごめんね………」
柚葉は顔を上げて濡れた瞳で見据え、
「これからも、ずっと傍にいてくれる？」
三年前、優を苦しげに黙り込ませてしまった問いを再び差し出す。優は目を逸らさず答えた。
「ずっと傍にいるよ」
そして泣き出す寸前のようにわなわなと震える唇を優しく塞ぐと、深い感慨のこもった声で呟いた。
「やっと……君に言える………」
優は柚葉の耳許に唇を寄せ、ずっと伝えたかった言葉を捧げた。
「柚葉、愛してる……」
その時、空の星がひとつ、嬉しそうにちか、と瞬いた。
（Fin）
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