９.
俺達は二人で柚葉を支えて地下鉄に乗り、最寄りの駅までやってきた。電車の中、ずっと泣き通しだった柚葉を他の乗客の詮索するような視線から守るように、優は腕を広げて立っていた。
他人から見られたり注目されたりするのが苦手なはずなのに、優は俯くことなく堂々としていた。胸を張って、柚葉を守っていた。
「どうして……」
駅からマンションに帰る途中、柚葉は突然足を止めて呟いた。
「何？ 柚葉ちゃん」
「どうして僕には見えないで、優くんばっかり……僕だって……」
柚葉は涙でくしゃくしゃの顔を上げて、優を怨めしそうに見つめ、
「僕だってたっちゃんに逢いたいのにッ」
「ゆ、柚葉ちゃん……」
『優、俺の言葉を柚葉に伝えてくれ』
おろおろしていた優は真剣な顔で何度も頷くと、俺の言葉に耳を傾けた。
『俺はずっとこのまま、この世に留まっていられるとは思っていない。そう遠くないうちに完全に消えるだろう。俺には分かるんだ。そうしたらまた、柚葉に辛い思いをさせちまう。一度ならず二度までも、俺との別れを経験しなけりゃならないなんて、そんな苦しみを可愛い柚葉に負わせたくないんだ。
だから俺は、これで良かったと思ってるよ。それに見えなくたって俺はいつも柚の傍にいるから。な？』
優は俺の言葉を忠実に、真摯に伝えてくれた。柚葉が納得してくれたかは正直分からない。俺からの伝言を聞いた柚葉は、無言のまま再び歩き始めた。
『おい優、お前、ここに住む気はないのか？』
「なっ…だ、だめだよ、そんなの」
柚葉を部屋まで送り届けた優は、落ち着かない様子で部屋の中をうろうろした挙句、「それじゃあ」と短い挨拶を残して帰ろうとした。
『柚一人じゃ心配なんだよ。お前が一緒にいてくれれば―――』
「で、でもここはたっちゃんと柚ちゃんの……」
「何？ たっちゃんは何て言ってるの？」
柚葉が不審げに割り込んできた。優は困惑も露わに、
「う、うん。ここに住めって。柚ちゃんのことが心配だからって。でも……」
「でも？」
「でも、たっちゃんと柚ちゃんの場所にずかずか入り込むなんて俺には……」
柚葉はじっと優を見つめている。厳しい眼差し。たぶん、優の言葉の真偽を量ろうとしているのだろう。
『優、俺は死んだんだ』
「分かってるよ！ でも、でもたっちゃんはここにいる。俺にはそんな簡単に割り切れないよ………」
『柚葉を見捨てるのか？』
「違う、そうじゃない！ 柚ちゃんのことはこれからも頑張って守るよ。だから……うん、たっちゃん、もう少し時間をくれよ。柚ちゃんだってまだまだ戸惑いがあると思うし。俺にとって二人はホントに大事な人だから、勢いとかで適当に進みたくないんだ」
『分かった分かった。もう口出さないから、お前の思うようにやれよ』
こいつは人見知りが激しくて臆病で自分に自信がなくて……でも、やると言ったことはやる奴だ。だから柚葉のこともちゃんと守ろうとしてくれるだろう。俺はそう信じた。
「優くん……」
柚葉が何故かおずおずと優に声を掛けた。まるで、俺らの会話に割り込んで申し訳ないとでも言うように。
「あっ、ごめん柚ちゃん。そういう訳だから俺もう帰るね。でも、何かあったらすぐ連絡して。いつでも……えと……た、助けに来るから」
優も、助けに来るのが自分なんかで申し訳ないといった風に、おどおどと告げた。全く、お前らお似合いだよ。
そして、優が教えた携帯番号を登録した柚葉は、僅かにためらったのち、口を開いた。
「じゃあ優くん、荷物整理するの手伝って」
「え？」
「見れば分かるでしょ。このダンボールの山。僕たち、引っ越してきたはいいけど全然片付けとかできなくて―――」
『俺が舞い上がって、片付けするどころじゃなかったんだ。引越し初日からえっちしまくりで』
「なっ、たっちゃんのアホエロ！」
優の叫びに、柚葉は飛び上がって頬を紅潮させた。
『しょーがねーだろ。嬉しくて嬉しくてつい、さあ。しかも柚は“たっちゃん、きて”なんて可愛く誘ってくるしよ』
「嘘だ」
優は疑わしげに目を細めて俺を睨む。このやろー。
「驚かしてごめんね、柚ちゃん。えと、片付け喜んで手伝うよ。荷物運びでも何でもやります。俺、力仕事はそんな得意じゃないけれど、アホエロな誰かよりは役に立つと思うよ」
『わぁるかったなあ〜』
優よ、お前は柚葉の天下無敵、傍若無人な核兵器並みの可愛さを知らないからそんなことが言えるんだぜ。まあいいさ。それを知っているのは俺だけ。うふ。
「う、うん……それじゃ優くん、いつ来れる？」
「明日はバンドの練習だから、明後日なら一日空いてるよ」
「バンド……そか、だからあんなに歌うまいんだ」
「え、ええっ。うまくないよ……」
優は痛々しいほどうろたえて、長い前髪の隙間から柚葉の顔をまじまじと眺めた。こんな風に褒められたのって、初めてなんだろうなあ。
「そっかな。僕は専門的なことは分からないけど、でもすごく沁み込んできたよ。曲のせいもあるだろうけど……」
『ほら優。ちゃんとお前のこと評価してくれる奴はいるんだ。いっつも下向いてばっかいるんじゃねーぞ』
「うん……」
優は俯いたまま暫しもじもじしていたが、やがてぱっと顔を上げると、
「柚ちゃん、今度ライブがあるんだ。もし良ければ、見に来てくれないかな。……たっちゃんと一緒に」
柚葉は一瞬泣きそうな顔になった。でも何とか堪えると、こっくりと頷いて視線を宙に彷徨わせた。
俺を……探しているのか？ 柚、探す必要なんかないんだぜ。俺はいつも傍にいるんだから。
「じゃあ明後日。あ、お昼は食べてこなくていいよ。僕が何か適当に作るから」
「えっ、柚ちゃんが作ってくれるの？ すっげぇ楽しみー」
柚葉はちょっと驚いた風に大きく瞬きをして、
「そんな、あんまり期待しないでよ。大したものは―――」
「でもたっちゃんは、柚ちゃんは料理上手だって言ってたよ。それに、誰かの手料理なんて久しぶりだから、やっぱちょっと嬉しいな。大したものじゃなくても、手料理ってあったかいし」
“あったかい”か、いい言葉だよな。何つうか、お前にぴったりだよ、優。
「ホントに、大したものはできないからね」
柚葉は念押しするようにそう言ったけれど、たぶん早くから準備して腕を揮うに違いない。そういう奴なんだ、柚葉って。
「じゃあ柚ちゃん、またね。今日は、本当にありがとう」
「うん……」
優が帰ってから、柚葉はぽつりと呟いた。
「お礼を言うのは僕の方なのに………」
大丈夫だよ、柚。お前の気持ちはちゃんと優に届いているから。きっと。
日曜の午前中、案の定柚葉は買い物に出かけて材料を買い込み、昼食の下ごしらえに精を出した。
ううむ、これはロールキャベツだな。それから魚介のマリネに、ナスとチーズのオーブン焼き。そうそう、ナス嫌いの俺が、唯一食えるナス料理がこれなんだよなあ。
「たっちゃん、これなら食べられたんだよね……」
やっぱり、柚葉も思い出してたか。俺はもう食えねえけど、お前の味は忘れないよ。
「たっちゃん………」
ぽつぽつと、まな板の上に涙が降りかかった。しかし柚葉は小さく頭を振って、再び料理に取り掛かる。
そうだ、柚。優のために旨いもの作ってやってくれ……ごめんな。
俺は柚葉の頬にキスをして、優を迎えに出て行った。
『よう、優。迎えに来たぜ』
「あ、たっちゃん。わざわざありがと……」
優は力ない微笑みで俺に応えると、俯いてとぼとぼと歩き出した。いつもと変わりないといえば変わりないのだが、どこか様子が違う。
『おい、何かあったのか？』
「い、いや。何もないよ……」
俺と目を合わせようともせず、あたふたと否定する。
まあ俺に言いたくないことを詮索するつもりはないんだけどな、そんな鉛色の影をしょった悲愴顔じゃ、柚葉に要らぬ心配をかけてしまう。だから俺は追及した。
『優、そんな死にそうな顔を柚葉に見せるな。何かあったのなら俺に先にぶちまけて、柚に会うのはそれからにしてくれ』
「あ、ああ……そうだね、ごめん。実は……昨日、メンバーが誰も練習に顔見せなくてさ。そんで連絡とったら、みんな降りるって。なんか、沙耶伽ちゃんがボーカルとしてライブに出たがってたらしくて、そっちの方に参加するからって………」
『はっはあ、なるほど。あの女ならやりかねないな』
「ど、どういう意味だよ」
『どういう意味も何も。お前、メンバーごっそり取られたんだろ？ 自分の頼みをあっさりはねつけられた腹いせだぜ、きっと』
自分に惚れてるはずの冴えない男に要求を拒絶された時の、あの女の表情を思い出した。粘着質な攻撃性を秘めた、陰険な眼差し。こういう小さなことを根に持つタイプの女って、案外多いんだよな。
俺も昔、手酷い“仕返し”を受けたものだ。たぶん優は、こういう経験初めてなんだろう。
「そんな、沙耶伽ちゃんはそんなことするような………」
言いかけて、優は口を噤んだ。そこまで彼女のことを知らないということに気付いたんだろう。
『まあいいじゃないか。ライブに出れなくなったわけでもねえしな』
「何言ってんだよ、これから新しいメンバー探しなんてできるはずない」
『一人で出ればいいじゃんか。お前ボーカルだろ？ ギターもちっとは弾けるんだろ？ なら問題なしだ』
優はぽかんと口を開けて俺を見つめる。一人でステージに立つなんて、思いもしなかったらしい。
「無理だよ、そんな……」
『何でだ？ 俺思ったんだけどよ、お前の声って、ガシャガシャうるせえバンドより、アコギ１本の方が映えるんじゃないのか。自意識過剰なメンバーの演奏に振り回されずに、じっくり想いを込めて歌うことができるぜ。優、』
俺は優の正面に回って、肩に手を置いた。
『他の連中なんか関係ない。俺と柚葉のために、聴かせてくれ』
「た、たっちゃ………」
優は何度も頷いた。
「いらっしゃい、優くん」
「お、おじゃまします……」
扉を開けて迎えてくれた柚葉に、優は照れ臭そうに顔を赤らめて挨拶を返した。
『なに緊張してんだよ』
「いや、こんな風に中に入れてもらうのって初めてだから……」
優は脱いだ靴を屈んできちんと揃えてから、もう一度「おじゃまします」と言って中に入った。
何というか、目頭が熱くなるぜ。お前はホントに、よくできたヤツだよ。こういうのを育ちがいいって言うんだろうな。親に愛されて、親の言い付けをちゃんと守って真っ直ぐ育ってる。頼むな、優。柚葉の傍にいてやってくれよ。
「わ、いい匂いがする」
「うん。先にお昼してから片付けに入ろうと思って。食器と調理器具だけは出しておいたんだ。そこ座って」
てきぱきと配膳する柚葉を、尊敬と憧れの眼差しで見つめる優。さらに、自分の前に料理が並べられると、ほとんど泣き出さんばかりの表情で、
「ああ…食べ物の匂いがする……」
「あ、当たり前だと思うんだけど……。優くん、いつもはどんな物食べてるの？ コンビニのお弁当とか、そんなものでしょ」
「そ、そんな贅沢できないよ。俺、今はバイトもやってないし。スタジオ代かかるから、食費を切り詰めないと生活できなくて」
『もやしとかパンの耳とか食ってんだろ』
優は驚いたように俺を見た。
「なんで分かったの？」
『おまえ……何て分かりやすい貧乏ライフなんだ』
柚葉は溜め息をついて、
「何か分かんないけど、たいへんな生活してそうだね。ほらほら、たくさん食べて。これから力仕事してもらうんだから」
優は「はいっ」と嬉しそうに答えると、手を合わせて「いただきます」と頭を下げ、端から平らげていった。
「柚ちゃん、このダンボールもそっちの部屋？」
「えと……うん、そうだね」
優は箱を抱えて、覚束ない足取りで部屋を移動する。その時、段差に躓いて思い切りすっこけた。その拍子に、箱の中身が溢れて床に散乱した。
「うわっ、ごめん。大丈夫？ 壊れ物とか入ってなかった？」
「あ、うんうん、大丈夫だから……あの、自分で拾うから」
柚葉は心なしか慌てた様子で箱の中身を掻き集める。優も手伝おうと手を伸ばす。が―――
「な、なんだこの赤いの……わ、わわわ、これって………」
「あっ、見るなぁっ」
優が広げて見たのは、超ミニのサンタの衣装。何故かお尻にウサギの尻尾付き。しかも右のポケットには本が。左のポケットにはホルモンエキス入りのえっちなローション。
「『セックスで100倍気持ちよくなる方法』……こ、こっちは“感度倍増。これであなたの彼も飢えた野獣に”………ゆ、柚ちゃん……」
「うわぁ〜ん、違う、違うのっ。それはサンタでクリスマスにたっちゃんが―――」
真っ赤な顔で支離滅裂なことを叫ぶ柚葉。同じく優もゆでダコみたいになって、ぼーっと超ミニサンタを眺めている。ったく、チェリーボーイは仕方ねえなあ。
『それは俺が去年のクリスマスに柚葉にあげたものだ。ま、高度なギャグだよ』
「た、たっちゃんっ、こんなものを恋人に、しかもクリスマスにあげるなんてっ」
『こんなもの、ってな。お前、セックスライフだって大事なんだぜ。ま、チェリーボーイには分かんないだろうけどな』
「ううぅ〜」
柚葉はまだ顔を赤くしたまま、優の手からエロサンタを奪い返して箱にぎゅうぎゅう詰め始めた。
『でも正直、柚葉がまだこれを持ってるとは思ってなかったぜ。あげた時はもう、怒りまくりでさ。とっくに捨ててると思ってた』
優は、俺の贈り物を箱に詰める柚葉を見ながら、
「当たり前じゃないか。どんなものでも、好きな人がくれた物を捨てるなんてできるはずないよ」
その言葉通り、柚葉は俺があげたメイドの衣裳やらバイブやらガーターベルトやら手錠やらを全部箱に詰め直して、大事そうに抱えて部屋へ運んでいった。
BACK TOP NEXT