６.
「あ、たっちゃん、おはよう」
優は俺を見つけると、小さく笑いながら駆け寄ってきた。こいつ、かなり俺の存在に慣れてきやがったな。まあ、会うたびにひい〜、とかうひゃあ、とか言われるのは疲れるから、これでいいんだけどな。
『うぃっす、優』
優は俺の顔を覗き込んで、
「どうしたんだ？ 何か嬉しいことでもあった？」
『嬉しいことっつうかさ、やっぱ柚葉はかわいーなあと思ってさ。出かける前に俺の写真にちゅっとキスするんだぜ。あー、萌える〜』
「あーそうですか、まったく、朝からお熱いことで」
『お熱いのは朝だけじゃねえぜ。この前なんかよ……ま、いいや。これは俺と柚葉のひ・み・つ。お、そうだ、お前も好きなコがいるとか言ってたよな。どんな奴なんだ？』
途端に優はぼっと赤くなって、下を向いてもじもじし始める。お前……天然記念物級のチェリーボーイだろ。
「同じ……サークルの後輩なんだ」
『おお、ありがちなサークル内恋愛ね』
「悪いかよっ」
『いや悪くはないよ。それに俺だって、柚葉と知り合うまでは人に自慢できるような恋愛してねえし。で、そのコにはもう告ったわけ？』
さっき俺に食ってかかった勢いはどこへやら、優はがっくり項垂れて首を振り、
「ムリだよ。彼女はサークル内でマドンナ的存在なんだ。先輩たちもみんな狙ってるし……」
『マドンナ的存在……お前、いつの時代の少年漫画だよ。女を美化しすぎると、後で痛い目見るぜぇ』
「た、たっちゃんの周りにいた女が酷かっただけだろ！」
『うーん、否定はしねえけど……』
その後不貞腐れた優から聞き出したところによると、麗しのマドンナは、同じバンドサークルの一年生で、キーボードを担当しているらしい。入学当時から人気の的で、すでにサークル内で３人目の男を作ってるとか。
恋愛体質の人間ってのも確かに存在するし、俺がどうのこうの言う資格もないのだが、サークルという狭い世界の中で次々と男を変える女っていうのは、何だか卑しいというか淋しいというか、ともかく優のような奴には余り相応しくないような気がする。まあ俺が口出しすることでもないのだが。
優の大学の門が見えてきた。俺は優にそっと耳打ちした。
『お前の交友関係を知っておきたいんだ。できる限りでいいからさ、俺に紹介してくれよ』
「うん、いいけど……そんな交友関係っていうほどたくさんいないよ。学科の人間とはほとんど付き合いないし。サークルの人間ばっかりだ。それより柚葉ちゃんは……大丈夫なのか？」
『ああ、今は講義の最中だから終わった頃戻るよ』
俺たちは連れ立って門をくぐった。Ｋ大は何度か来たことがあるが、俺んとこのＴ大より可愛い女の子が多いな、くらいの薄い印象しかなかった。あと、男がちゃらちゃらしてるなあ、とか。ま、人のこと言えないが。
「よ、優。これからたまり場か？」
「あ、うん……」
優は、さっき俺と話してた時とはがらりと雰囲気を変えて、おどおどと頷いた。
『優、これは誰だ？』
優はその男と少し距離をおいて、ぼそっと答えた。
「同じサークルの中村。ギター担当。今度一緒にステージに立つ」
『ふーん』
中村は、きったねえ草色のジャンパーを着て、よれよれのジーンズを腰を落として穿いていた。この穿き方だと短足が誇張されるのにな。
俺たちが着いたのは広い食堂みたいな所で、大きなテーブルと椅子が幾つも置いてあった。そこが各サークルのたまり場になっているようだった。
テーブルはどこも灰皿や漫画雑誌で埋もれていて、汚いことこの上ない。優によれば、部室がもらえない大学非公認のサークルは、ここをたまり場にするしかないということだ。
優はベンチシートの隅っこに座って、俯いたまま漫画雑誌をぱらぱらとめくっている。他の男たちも同様に、何をするでもなく煙草をふかしたり雑誌を読んだりしていたが、隣のサークルのテーブルで女の子がきゃらきゃら騒いでいるのをちらと見て、
「チャラいサークルだよな。夏はテニスとゴルフ、冬はスキーかよ。こいつら何にも考えてないんだろうな」
馬鹿にしたように嗤ってみせた。
『あーーっ、ムカつくぜ。じゃあお前らは何だよ。親の金で大学来て遊びでバンドやって、授業も出ないで漫画読んで、その女どもとどこか違うんだっ』
「た、たっちゃん……」
「ん？ 優、どうしたんだ」
「あっ……いや、なんでもないよ……」
びっくりして俺の方を見つめた優は、慌てて視線を雑誌に戻した。
『悪い、優。つい頭にきちまって……』
優は黙ったまま、いいよいいよという風に頷いた。
「こぉんにちはー」
「お、沙耶伽（さやか）ちゃん」
途端に優の背中がびくん、と波打った。分かりやすい奴だなー。これが優曰く“麗しのマドンナ”か。
そのマドンナは、自分のために空けられたスペースに座るため、わざわざスカートの裾を翻してベンチシートをまたぎ、えへ、と笑って男の間に腰を下ろした。ちょっとおてんばな私、というわけか。俺は顔を観察した。
なるほど、一見ナチュラルメークに見えるが、相当塗り込んでるな。ナチュラルに見せかけるための厚塗り。メークの技術は大したものだが、俺の目はごまかせないぜ。隈と毛穴を隠すコンシーラーが大活躍だ。
その女は、それほど大きくもない目をうるうるさせて、男の目を見つめて話をする。ああ、これで阿呆な男は勘違いしちまうんだよなあ。合掌。
そして結論。何がマドンナだ。ちょっと化粧の上手い、自意識過剰なお姉ちゃんじゃねえか。柚葉の方が５億万倍綺麗だし可愛いし、性格もいい。
優、お前にはもったいないぜ。いつか目を覚ませよ。
『優、俺そろそろ戻るわ。柚が心配だし』
「あ、うん……それじゃ、また」
優はマドンナの方を気にしつつ、それでも律儀に返事を返してきた。隣の男が怪訝な顔をして優を一瞥したが、すぐに正面を向いてマドンナの気を引くため、やけに大きな声でこの前行ったライブイベントの話をし出した。
『じゃあな』
俺はその場を後にした。たまり場とはよく言ったものだ。確かにここには、何かが溜まって淀んでいる。身体のない俺が言うのもナンだが、肌でそう感じた。
今日の最後の講義、仏語の原典購読が終わった柚葉は、いつものように俯いて一人で構内を歩いていた。その時、
「ちょっといいかな。美並さん、だよね」
いかにも好青年な男が、いかにも清潔そうな笑みを浮かべてこちらへ駆けてきた。不自然なほど黒い肌に、真っ白な歯。自分の笑みが相手にどんな印象をもたらすか知り尽くしているという感じだ。
男は柚葉に近寄ると、もう一度にっこり笑いかけた。
「はい……そうですけど」
もちろん柚葉は、その辺にいる頭と尻が軽い女とは違うから、そんな季節外れのサーファーみたいな野郎に目を潤ませてにこやかに応えるはずもない。怪訝な表情で見上げるだけだった。
「いきなり声掛けてごめんね。俺、村上ゼミの３年で田端（たばた）っていうんだけど、美並さんて村上ゼミ希望だったよね」
「あ、はい」
柚葉はほんの少し警戒を解いたようだ。さっきよりも口調が明瞭になった。
「それで、ゼミの人間と希望者を集めて顔見せ、俺らはプレパーティーって呼んでるんだけど、今週の金曜にやるんだ。時間は７時からだけど、講義があったら遅れてきてもいいよ。教授も、時間は分からないけど参加されるから。どう？」
男は笑顔を維持したままそこまで一気に説明すると、案内のチラシを柚葉に渡した。柚葉はそれに目を通すと、
「すごい……ホテルの部屋を借り切ってやるんですね」
「うん。でもツインルームを一晩だけだから、大したことないよ。それに、酒とかお菓子とかを持ち込んで楽しく騒ごうって感じだから。ね、来てくれないかなあ」
柚葉は暫し考えている様子だった。たぶん余り行きたくないのだろう。こういった大勢の人間が集まる場所は苦手なのだ。でもこれを断ると、来年からのゼミでの人間関係が面倒なことになる恐れもある。
「……分かりました。でも余り遅くまではいれないので、ちょっと顔を出してご挨拶する程度になりますけど」
「いやいや、それで構わないよ。それじゃこれ渡しておくから。案内図ね」
柚葉は受け取ると、田端とかいう男に分からないよう小さな溜め息をついた。
「楽しみにしてるよ、柚葉ちゃん」
田端は低い声で囁くと、浮き立った足取りで去っていった。
『なぁーにが柚葉ちゃん、だ。勝手に名前呼ぶんじゃねえっ』
俺は一人でムカムカしていた。明白な理由はないが、何もかも気に入らない。もちろんゼミのパーティーについて怪しいところはない。けれど俺は、この田端という男が最後に漏らした囁きに、どこか淫靡な匂いを嗅ぎ取った。
俺の杞憂ならそれでいい。ともかくこの男がまともだという確証を得たかった。安心したかったのだ。
俺は田端の後に付いていった。奴は校門を出て大通りから脇道に曲がって、とある店に入った。そこは立ち飲みのワインバーで、まだ時間が早いせいか客もまばらだった。
慣れた様子で店員に手を上げ、カウンターの一番奥へ進む。どうやら待ち合わせをしているらしい。そこには……高橋がいた。
『なっ、なんでお前がここにいるんだっ』
俺は思わず大声で叫んだが、もちろん誰も気付く者などいない。俺は二人にずかずかと近寄って、隣に立った。
「ばっちりだぜ。来るってよ」
「よしよし。これで計画の９割はうまくいったも同然だ」
高橋の言葉に、詳細は分からないながらも俺の皮膚は粟立った。計画って、何なんだよ。
「今んとこは疑ってないだろうが、村上ゼミを希望してる他の奴らに訊いたらバレるんじゃねえの？」
「大丈夫だよ。あいつ友だちいないから。どこのゼミを希望してるかなんて話を気軽にする相手もいないんだ」
二人は馬鹿にしたように嗤うと、ワイングラスの縁をチン、と合わせて乾杯した。似合わねーことすんじゃねえよ。いや、そんなことより―――
「ビデオのセッティングとかは俺がやっておくから。あと、薬の調達も。お前はとにかく好青年を演じて、怪しまれずに部屋まで連れてくるんだ。分かったな」
「任せろよ。得意分野だ。にしても、初めて間近で見たけど、綺麗だな、あいつ。一条がオカシクなったのも分かる。あっちの方もすごいんだろ？」
「そりゃあ、セミプロだからな」
「楽しみだな。想像しただけで勃ってくる―――」
俺は全てを理解した。奴らのやろうとしていること、奴らの卑劣さ、狡猾さ……。
たとえ聞こえないと分かっていても、喉が嗄れるまで罵倒してやりたかった。だが今はそんなことに時間を浪費している場合ではない。
『お前らの思う通りにはさせねえぞっ』
俺はそのひと言に奴らへの怒りを収斂させてぶつけると、ワインバーを飛び出した。
再びＫ大に着いた俺は、優を探すためまず例のたまり場へ行こうとした。しかし運良く、中央の広場でサークルの連中と一緒にいるところを見つけた。そういや今日は、講義の後サークルのミーティングがあるって言ってたな。
「そんじゃこれから打ち上げに行くぞぉ。出る人は手ぇ上げて」
「はーい、沙耶伽も今日は行きまーす」
男どもがどよめいている。ったく、ミーティングぐらいで打ち上げすんなよ。他にやることねえのか。
俺は、輪からちょっと外れたところにいる優に声をかけて人のいないところに呼び出した。
『優、優っ、ちょっと来てくれ。大事な話があるんだ』
「たっちゃ……どうしたんだ？」
『時間をかけて柚葉の信頼を得て……なんて悠長なこと言ってられなくなった』
そして俺はさっき見聞きしたことを早口で説明した。
「う……な、なんだよビデオって。そいつらは柚葉ちゃんに何をするつもりなんだ」
『今お前が想像しているようなことだよ』
優は赤くなって怒るかと思ったが、真剣な表情を崩さず、
「その高橋って野郎は一体何者なんだ」
『あいつは昔柚葉を買った。その時部屋に隠しカメラを仕掛けて、しかも色んな器具を持ち込んで変態的なプレイを強要しようとしたんだ。でも柚葉はカメラの存在に気付いて、隙を見て逃げたからその時は何もなかった。が………』
「たっちゃん……？」
俺は一瞬迷った。でもやっぱり言うべきだ。優には全てを話さなくては。俺はひとつ息を吸い、
『あの野郎、俺が死んだのをいいことに、柚葉を騙しておびきよせ、そして…レイプした。しかも４人で―――』
「なんだってぇっ」
『俺は、俺は何もできなかった。目の前で柚葉が泣き叫んでいるのに、阿呆みたいに名前を呼ぶことしか………お前と初めて逢ったあの日だよ』
「たっちゃん、たっちゃん……」
『俺は途方に暮れていた。何でここにいるのだろう。柚のために何もできねえのに。そんな時お前と出逢ったんだよ。大袈裟じゃなくてよ、俺にとっては救いの神だったんだ。優、お前が……』
優は何度も頷いた。そして、
「分かったよ、たっちゃん。俺、すぐ柚葉ちゃんのとこ行く。そんで、そのふざけたパーティーに行かないよう何とか説得するから」
『ああ、頼むよ、優―――』
「おおい、優っ。そろそろ移動するぞ」
さっき打ち上げの音頭を取っていた男が、駆け寄ってきた。
「悪い、恩田。俺、大事な用ができた。今日はパスだ」
「何言ってんだよぉ。沙耶伽ちゃんも来るんだぜぇ。ほらほら、さっさと―――」
男はにやにや笑いながら、優の腕を乱暴に引っ張って連れて行こうとした。きっと、一人でも参加者が多い方が飲み代が安くなるとか、そんなことだろう。せこい幹事の考えそうなことだ。が、
「用事ができたっつってんだろ、離せよ」
優は険しい声で一喝すると、腕を振り払って男を睨んだ。睨まれた男はぽかんと口を開けて立ち尽くしている。たぶん、優がこんなに声を荒げたのは初めてなんだろう。
『行くぞ、優』
「うん」
小さく答えて、足早にその場を去った。立ち尽くす男を置き去りにして。
「柚葉ちゃん、この前来たＫ大の後藤優です。どうしても君に話したいことがあるんだ。ここを開けて」
『帰ってもらえませんか』
インターホン越しの柚葉の声には、若干の戸惑いが含まれていた。優の真剣さが伝わったのだろう。
「待って切らないで！ 頼むから、お願いだから俺を信じて中に入れて」
インターホンは、切実な訴えも虚しく切られた。しかし暫くしてカチャリ、と扉が開けられた。相変わらずチェーンはしたままだったが。
「会ったこともない君の何を信じろというの？」
優は鞄から携帯電話と財布を取り出し、
「これ、これを君に預けるよ。人質。どっかに隠して。それでもし―――」
「こんなもので信じろだなんて―――」
「じゃあどうすりゃいいんだよっ。何でもする。信じてもらえるなら、俺何でもするから言ってくれよ」
優は夢中でまくしたてた。俺たちは何の作戦も立ててこなかった。ただ必死に訴えるより他ないと思っていたから。
カッコよくて感動的で、頑なな柚葉の心を一瞬で融かしてしまうようなイカした台詞なんて思いつかない。そういう不器用なところは、俺と優はよく似ていた。好きだ好きだ、一生大事にする、俺を信じて……何度繰り返したことか。
「柚葉ちゃん、信じて、俺を信じて……」
柚葉の表情が、微かに柔らかくなった。何かを透かし見るように目を細めて遠くに視線を馳せると、
「分かった。１０分だけだよ」
チェーンをかちゃりと外して、ドアを大きく開けた。
BACK TOP NEXT