４.

「うひゃあああぁぁ〜、くるな、くるなぁ〜〜」
『待て、待てっつってんだよっ。俺の話を聞けっ』
「いやだああぁ〜〜」

男は、でかい荷物を、たぶんギターか何かだと思うのだが、担いで全速力で走っていた。が、俺は荷物もない身軽な上、身体までないわけだから、奴を追跡するのは容易かった。

男はめちゃくちゃなフォームで夜の街を駆け抜け、歩道橋を上がり、小さな公園に逃げ込んだ。といっても、何か考えがあってそこへ逃げたわけではないだろう。

繁華街の近くにある夜の公園なんて、強迫的に享楽を求めている若者諸君の猟場ともいえる。死んだ人間より生きてる人間の方がずっと凶暴なんだぜ。

「た、たすけてくれよぉ……」

だが幸いなことに、夜といってもまだ時間が早いせいか、ヤバいお兄ちゃんたちの姿はなかった。

カップルが２、３組いたが、突然駆け込んできて一人で闇に向かって喚いている男の方をちらと見ると、そっと出て行った。まあ当然の反応だろうな。でもこれで、こいつとの話がしやすくなったぜ。

『とうとう観念したか。もう逃げられないぜ』
「ひぃっ、ナンマイダ、なんみょうほーれんげきょー、て、天にまします……エコエコアザラクッ」
『ぬはははは……この我輩にそんな子供騙しが通じるとでも思っているのか』
「ひぃぃ〜、どうかお助けを……」

男は地面に両手をついて平伏し、がたがたと震え出した。イカン、これじゃ逆効果だ。

『ちょっと待て、悪かった。脅すつもりはなかったんだよ』

男はおそるおそる顔を上げて、俺を見上げた。

「あ、あんた本当に幽霊なのか……？」
『実感はないんだけどな。まあ死んじまったことは確かだ』

男はとうとう泣き出した。

「なっ、何でだよぅ〜、あと少しで２０歳だったのに〜」
『２０歳になったらなんかいいことがあるのか？』
「よく言うだろう？　２０歳まで幽霊を見なかったら、生涯そういう霊現象とは無縁でいられるって。その日を心待ちにしてたのに……うう……」
『それは残念だな。でも諦めろ。最後の最後で秘められた能力が開花しちまったんだ』

男は泣きながら、俺に食ってかかってきた。

「そんなぁっ、俺、すっげえ怖がりなんだよぅ」
『自己申告しなくても分かる』

男はおいおい泣きながら訴え始めた。

「ディズニーランドのお化け屋敷でも失神しそうになるし、レベッカの“ＭＯＯＮ”を聴いた時は腰抜かしたし―――」

ああ、曲の途中で「せんぱい…」っていう囁き声が聞こえるってやつね。

『せんぱい……』
「ひいいぃぃっ」

予想通りの反応だ。

『悪い、悪い。続けてくれ』
「口裂け女が怖くて、花粉症の季節は外に出れないし」

……あ、マスクね。何のことが一瞬分からなかったぜ。

「『リング』のビデオを無理やり見せられて以来、テレビを消してる時は必ず布で覆わないと、貞子が出てくるような気が………」
『お前な、布ぐらいじゃ貞子は防げないぜ』
「そ、そういうこと言うなあっ。しかも、同じクラスに貞子ちゃんて子がいたんだよ。その子と席が隣になった時は、本気で転校しようかと―――」

まだくどくどと訴えている。が、俺はこいつを手放す気はなかった。いまいち頼りにはならなそうだが、悪い奴ではなさそうだし。

『お前が怖がりだということは分かった。でもよく見てみろよ。俺、そんなに恐いか？』

男はじっと俺を見つめた。だいぶ俺の存在に慣れてきたようだ。よしよし。

「いや……こ、こわくは……ちょっと透き通ってるけど。そういや、あんた、すっげえいい男だな」
『おう、その言葉は正直聞き飽きたぜ。まあ死んじまったらしょうがねえけどな』
「う……ご愁傷様です………」
『どういたしまして。それで、だ。お前さんに頼みたいことがある。安心しろ、怨みを晴らせとかそんなバイオレンスな頼みじゃないから。もっとロマ〜ンティックでラ〜ブリィ〜なお願いだ』

奴は疑わしそうに目を細めて俺を睨んだ。このやろ〜。

『俺の恋人を、守って欲しいんだ』
「恋人……」

意外な頼みだったようだ。口をぽかんと開けて俺を見つめている。

『そう、俺の恋人、美並柚葉っていうんだけどな、俺に先立たれて、抜け殻みたいになっちまったんだ。友だちもあまりいないし。それに、すっげえキレイだから男にも狙われてる。心配で心配で、俺も成仏できねえんだよ』
「で、でも、守るって……どうやって……」
『取り敢えず一緒にいてやってくれ。お前、一人暮らしか？』
「う、うん……」
『ボロアパートだろ？　貧乏オーラが出てるぞ』

図星だったようだ。びくびくしながら自分の身体を見回している。こいつ単純だなぁ。貧乏オーラって、どんなオーラだよ。美輪明宏だって知らねえぞ、きっと。

『俺は、柚葉と二人でマンションに引っ越したところだったんだ。お前、そこで一緒に住め』
「ええっ、まずいよぉ。女の子と一緒に―――」
『柚葉は男だ』
「………」

ほう、この顔は、完全思考停止状態だな。男同士って、今じゃ別に珍しくもないと思うんだけどな。

「おっ、おっ、男ぉ〜？　ってことは、あんたホモ―――」
『いんや。基本は女好きだったんだけどな。まあ孔があればどっちでもいいっていうか。もちろん、柚葉と出逢ってからは一筋だぜっ』

俺は声高らかに宣言した。どーだ、俺の愛の深さに感動しろっ。

「な、なんか凄い世界だなあ……」

ちょっと違うような気もしたが、まあ感動はしているようだ。

『どうだ？　可愛い男の子と高級マンションに住めるんだぜ。しかも柚葉は料理上手。夢のような暮らしじゃないか』
「でも……俺には荷が重いような気が………。俺、人見知りが激しいし、いきなり一緒に住めだなんて言われても―――」

チッ、煮え切らない奴だ。この辺りでちょっと脅しとかないとな。俺は腹に力を入れて、闇を震わす低音で囁いた。

『そうか……どうしても嫌だというなら、俺にも考えがある』

奴は面白いほど表情を一変させた。微かに歯が鳴っている。

『お前を呪い殺すことだってできるが、その前により大きな恐怖を味わわせてやるぞ。俺には仲間がいる。俺がひと声かければ、オールスター春の祭典だ。あっ、そういえば』

俺はにやりと笑い、

『知り合いに貞子って子がいたな。その子はな、名前もさることながら、長い黒髪とか暗い性格があの貞子にそっくりで、そのせいでいじめられて自殺しちまったんだよ。だからこの世にすっげえ怨みを持っているんだ………』

奴はほとんど白目を剥いて、息も絶え絶えの様子。もうひと押しだ。

『この前も、自分をいじめたクラスメートの家に行って、テレビからこう、ぬーっと』
「ひぃぁぁぁぁ〜」
『薄型テレビだったけどうまくできた、って喜んでたな。もしお前が俺の頼みを断ったら………』
「やっ、やりますやります、やらせてくださいっ。ご主人さまっ」
『よしよし。その代わり、俺の頼みを聞いてくれたら俺がそういった邪悪な霊たちからお前を守ってやるよ。どうだ』
「そっ、それはもう、願ったり叶ったりで」

今思えば、こいつが極度の怖がりでよかった。こんなちゃちな脅しが効くんだからなあ。俺は内心の笑みを隠して、重々しい表情で頷いた。

『では、今日はもう遅いからこのまま帰れ。明日、俺が迎えに行くから、一緒に柚葉のマンションへ行こう』
「分かりました」

奴は神妙な顔で頷くと、ゆっくり立ち上がってジーンズに付いた泥を払った。

『それから念のため言っておくが、俺が傍にいないからって逃げようとか思うなよ。どこへ逃げたって無駄なんだからな。“くる〜、きっとくる〜”』
「そっ、その歌はやめてくれぇ〜」

ぶるぶる震えて、再び哀願してくる。うん、この様子なら逃げる心配はなさそうだ。

『んじゃ、そろそろ行くか……あ、そうだ。お前の名前聞いてなかった』
「後藤優（ごとう・ゆう）です。あなたは？」
『一条龍逸。たっちゃんでいいぜ』

奴……もとい優は大きく瞬きをして、小声で「たっちゃん」と言った。こうしてまともに向かい合ってみると、優は俺ほどではないにしても背は高く、なかなかバランスのとれた身体つきをしていた。

顔も、俺ほどではないけれど整っていて清潔な美青年という感じ。淡い瞳の色やすっと通った鼻筋を見る限り、ハーフではないかとも思える。

ただ、極端に長い前髪が邪魔をしているせいで、暗く屈折したバンド野郎にしか見えない。もっと自分に自信を持てっ、と言ってやりたくなる。もちろんそんなのは、他人に言われたからってできることではないのだが。

『よし、優。帰ろうぜ。取り敢えずお前の家に案内してくれ』
「うん、分かったよ、……たっちゃん、」

優は俺を不思議そうに眺めて、

「俺、初対面の人間とこんなに普通に話せたのって初めてだ。すっげえ人見知りなのに………」
『それは、俺が“人”じゃないからだろ。それとも、お前も仲間に入るか？』
「け、けっこうです……」

優は淋しそうに項垂れて、歩き出した。優、あんまり俺に友情感じるなよ。いつかは……別れなくちゃならないんだからな。



俺はそれから奴の家、正真正銘のボロアパートへ付いていって場所を確認し、柚葉の許へ帰った。柚葉はさっきと同じ場所で、同じ姿勢で俺のシャツにくるまって眠っていた。

『柚葉、ごめんな。俺にはこんなことしかできないんだ』

情けなくて、思わず涙が溢れそうになる。でも今は泣いている時ではない。俺にできる限りのことをして、柚葉を守るんだ。それが今、俺がここにいる理由なのだから。




翌日、俺はさっそく優の家へ行って奴を誘い出し、柚葉のマンションへ案内した。

「はー、やっぱ夢じゃなかったんだなあ。それに、こんなに太陽が眩しい昼間なのに、たっちゃんてばフツーに歩いてるし」
『ああ？　当たり前だろ。俺は吸血鬼じゃねえんだぞ』

天気のいい週末の繁華街を、背中を丸めてとぼとぼと歩いているお前の方がよっぽど非人間的だよ、と突っ込んでやりたかったがやめた。ちょっとした言葉ですぐ傷つく人間というのもいる。

『なあ優、お前その前髪うざくねえ？　切っちまえばいいのに』

まあこのくらいなら言ってもいいだろうと思ったのだが、予想に反して激しく抵抗された。

「いっ、いやだよ。切ったら顔が…見えるじゃないか」
『顔が見えて、何かまずいわけ？』
「……たっちゃんみたいないい男には分かんないよ」

へー、へー、そうですか。まあ何か訳がありそうだけど、今はそんなことに構っている余裕はない。

『あのマンションの８階だ。頼むぜ、優』
「う、うわ……キレイなマンションだなあ」

優はおそるおそるといった感じで、というより、こいつは生きてること自体がおそるおそる、ってな感じなのだが、エントランスからエレベーターホールへ進み、８階へと上がった。そして俺たちの部屋、８０２へ。

震える指でインターホンを押すと、暫くして「どなたですか？」という柚葉の声が返ってきた。

「こんにちは、柚葉さん。俺、Ｋ大の後藤優といいます。たっちゃんの友人です。色々お話ししたいことがあって来ました」

柚葉は無言のままインターホンを切った。このまま無視されるのではと危惧したが、ぱたぱたと足音がして、ドアが開いた。チェーンは掛けたままだったが。

「たっちゃんの、友人？」
「…………」

お、おい優、どうしたんだよ、そこで黙ったら疑われるだろ。

『優、優っ、返事っ』
「あっ……は、はい。そうです、いかにも私はたっちゃんの友人で―――」

な、なんだよその返答は……。思いっ切り不審人物と化してるぞ、優。案の定、柚葉も不審感を滲ませて、

「たっちゃんの友人ていう割には、お葬式で顔見かけなかったような気がするけど」
「えっ、あ、あの……その頃ちょうど留学をしてて………」

アホッ、どんな中途半端な留学なんだよ。駅前留学かっ。

「ふぅん……駅前留学してたんだ。それは大変だったねえ」
「は、はい。まあそこそこ……」

あーっ、真面目に返すなよ。バカにされてんだぞ、お前は。

「それで、僕に何の用なの？」
「あ、はい。友人から柚葉さんのことを聞いて。何か力になれることがないかなあと。俺、たっちゃんには生前すごくお世話になったので、それで―――」
「君で４人目」
「は？」
「俺はたっちゃんの友人だ。だから君の力になりたいんだよ。中に入れてくれないかな――そう言ってきたの、君で４人目だよ。何が目的なのかは知らないけど、僕は一人で大丈夫だからご心配なく。本当にたっちゃんの友人なんだったら、お線香の１本でも上げに行ってあげてよ」

柚葉は「それじゃ」と短く鋭く言い放つと、俺たちの目の前でぴしゃりと扉を閉めた。ま、まあ、このくらい用心深い方が安心といえば安心なのだが。

『駄目だ、優。出直そう』
「う、うん……」

優は未練がましく扉を見つめたが、肩を落としてその場を後にした。




『あのなあ、お前。もっとこう爽やか好青年を演じられねえのかよ。あんな真っ赤になって、しどろもどろで、下心ありありモードじゃねえかっ』
「だ、だって……。あんなに綺麗な人が出てくるとは思ってなかったから、俺びっくりして………」
『あったりまえだろっ、この俺様の恋人なんだぞ。ついでに言っとくがなあ、柚葉が綺麗なのは外見だけじゃないからな。心だって真綿色したシクラメンのように無垢で―――』
「うん、分かるよ、たっちゃん。あの人、強がって平気なふりしてるけど、ホントはすごく傷ついてて、淋しくて、たっちゃんのこと深く愛してて………」
『……惚れたか？』

優は飛び上がって一人でわたわたしつつ、

「ばっ、ばかなこと言うなよっ。それに俺には、好きな子がいるんだっ。もちろん女の子だぞ」
『へーへー、そうでっかー。で、柚葉には思いっ切り拒絶されちまったけど、優、お前はどうする？』
「え？　どうするって……」
『もうやめるか？』

俺は優の本心が聞きたかった。脅されたから俺の言う通りにやる、というのでは、きっとうまくいかないだろうと分かってきたから。優は驚いたように俺の顔を見つめていたが、

「たっちゃん、俺やるよ。何の取り柄もない俺だけど、二人の力になりたい」

優はそう言って、はにかむように笑った。

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