２７.（最終話）
「んっ………」
小さくうめき、瞼が震え出したと思ったら、優はゆっくりと目を開けた。白い病室、白いベッドの上。白いカーテンから透ける澄んだ陽光の中で。
「たっちゃ………ごめん………」
俺の姿を見とめた優の第一声は、予想通りだった。眩しそうに目を細め、かさかさに乾いた唇から謝罪の言葉を繰り返す。
「ほんとに……ごめん………」
『当たり前だ。このバカヤロウ』
「うん……」
『誰があんな危ないことしろっつった』
「うん……」
『お前まで死んじまったらどうするつもりだったんだよ。二人で幽霊になって柚葉を守るか？』
「うん……でも………」
優は迷いのない澄み渡った眼差しで俺を見つめ、
「ああするしか……他に方法が思い浮かばなかったんだ。柚ちゃんからあいつを完全に引き離すには………」
そう言って、ベッドの上に突っ伏して眠っている柚葉に視線を落とした。
「柚ちゃん………」
『大丈夫だ。一晩中ずっとお前の傍に付いていたから疲れたんだろう。眠らせといてやってくれ』
「そっか……」
優は安心したように深く息を吐くと、改めて俺に強い視線を送り、
「それで、成瀬は？ まだ……」
『安心しろ。成瀬は捕まった。今ごろは事情聴取の真っ最中ってとこだな』
優を刺した後、成瀬は両手を鮮血に染めたまま夜道をふらふら彷徨っていたようだ。
すでに精神のバランスを欠いていたのか、人を刺したショックで一時的な譫妄状態に陥っていたのかは定かではないが、ともかく通報を受けて駆け付けた警官にあっさり身柄を確保された。優を刺してからほんの数十分後のことだ。
『奴はもう終わりだ。すごいスキャンダルだしな。おまけに、薬もやってたらしい』
「くすり……」
『ああ。今朝のニュースで言ってた。尿から薬物の反応が出たんだとさ。近々家宅捜索も行われるだろう。この前受賞したとかいう何とか功労賞も取り下げ。その他の肩書きもいずれ全て返上せざるを得なくなるだろうな』
優は明らかに、途中から俺の言葉を聞いていなかった。それも仕方あるまい。白い唇を震わせて、
「まさかあいつ……柚ちゃんにも薬物を………」
『ああ、そのつもりだったろう。いずれ一緒に住み始めたら、柚葉にも使わせて常習者に仕立て上げ、さらに逃げ場のない泥沼に引きずり込む……。そのくらいのことはやりかねない』
そう、俺もニュースでこの事実を聞いた時には、おぞましさと恐怖で震えた。もし柚葉が奴の手に落ちていたらと考えると―――
「どこまで腐った奴なんだっ。よくも柚ちゃんをッ……………ぃっ……いてっ、ててて…………」
『ばかっ、興奮すんな。傷が開くだろが。大人しくしてろ』
「ててて………ははっ、そうだった………」
腹を押さえて情けない笑いを漏らす優。もぞもぞと手を動かして傷口を包帯の上から撫でると、その動きを敏感に察知したのか柚葉がぐずり出した。
やがてうにうに言いながらぱち、と目を開け、ゆっくりと身体を起こす。優は温かく柔らかな微笑みを浮かべ、
「おはよう、柚ちゃん」
柚葉はまだ夢とうつつの境にいるのか、ぽわんと唇を開けて優を見返すばかりだったが、
「ゆう……くん………おなか、けが…………」
大きく見開いた目にはたちまち涙が溢れ、ぽたぽたと頬を濡らす。しかし拭うことも忘れ拙い口調で傷を気遣う柚葉に、優は渾身の嘘をついた。
「大丈夫。ちっとも痛くない」
「ほん…と……？」
「本当だよ。柚ちゃん、心配かけてごめんね。俺―――」
「ゆうくんのばかぁっ」
優の謝罪を遮って叫び、柚葉は身を乗り出してすがり付いた。優は慌ててその身体を受け止める。
「ばかばかばか………なんで、なんであんな恐いことっ…………」
「ごめん、ごめん柚ちゃん。でも、君を奴から解放するにはああするしか―――」
「ばかぁ……し、しんじゃったら……しんじゃったらどうする………んっ、ぇっ、ぇぇっ…………」
優は苦しそうに目を細め、柚葉の髪を何度も何度も優しく梳いた。
「たっちゃんならもっといい方法を思い付いたかもしれないけど、俺にはあれしか思い浮かばなかった。恐い思いをさせてごめんね」
「優くん……」
成瀬の社会的信用を失墜させ、二度と柚葉に近づけぬようにする………そのためには確かに一番手っ取り早い方法だったかもしれない。危険な賭けには違いないが。
『わざと玄関の鍵を開け、成瀬が中まで入れるようにしておいたんだな』
俺の指摘に優は頷き、昨日の出来事についてぽつぽつと説明し始めた。
「昼間のうちに成瀬の家を訪れ、奴と嘘の契約を交わしたんだ。久々に実家に帰ったら工場の経営状態も悪く、存続させるにはまとまった金が要る。柚ちゃんを渡すからその見返りとして、資金の援助をしてくれないか、と。奴は少しも疑わず、大喜びで俺が言った以上の金額を出すと言ったよ」
『そりゃ、疑わないだろうな。奴にとって愛ってのは金でどうにでもなるものなんだ。若い頃は金がないために奪われた。ならば今、金で奪い返そうとすることに何のためらいも見せないだろう』
優は「そうだね」と返すと、一瞬つらそうに眉をしかめ、
「奴を騙すためとはいえ、柚ちゃんやたっちゃんを裏切るようなことを言うのは正直つらかったよ。自分のことが嫌いになりそうだった」
実に優らしい言葉だと思った。きっと自分の心を切り刻む思いで嘘の取引をしたのだろう。
優の気持ちを察したのか、柚葉は微かに震える優の拳を手のひらでそっと包み込んだ。その温もりに勇気を得た優は、さらに説明を続ける。
「夜、柚ちゃんに睡眠薬を飲ませ、玄関の鍵を開けておくから、指定した時間に一人で来るように言った。そして二人で眠っている柚ちゃんを車まで運び、金と交換で渡すという手はずにした」
『なるほど。しかし部屋に入ってきた奴が目にしたのは………』
「うん。そこから先は二人が知ってる通りだよ。俺と柚ちゃんが……その……セックスしてるところを成瀬に見せ付けて、柚ちゃんは俺のものだから絶対に渡さない、悔しかったら奪ってみろと焚き付ける」
『ナイフも、お前が予め用意しておいたんだな？』
優はあっさり頷いて、「このナイフで刺してくれますように、って祈ったよ」と恐ろしい台詞をこともなげに言う。
するとそれまで黙って耳を傾けていた柚葉はひゅっと息を吸い、
「優くんのバカッ。そんな恐いことゆって………」
「ああ、ごめん。でも本心だよ。刺してくれないと全てが水の泡に―――」
「バカバカバカッ。もし刺されて死んじゃったら、死んじゃったら終わりなんだよっ」
叫びながら優の身体をぽかぽか叩く柚葉。微笑ましい光景だが、いかんせん今は―――
『ゆずゆず、優が本当に死んじまうぞ、こら』
「ゆずちゃ…………今、死ぬ、かも……………」
柚葉ははたと手を止め、腹を押さえて白目を剥く優を見てようやく、自分が傷口を叩いていたことに気付いた。
「ひゃあっ、優くんごめんっ、ごめんね！ 大丈夫っ？」
「だいじょうぶ……じゃないかも…………」
「ふぇぇぇ………ごめん、ごめぇん…………」
涙目で謝る柚葉にふっと優しい笑顔を向け、
「柚ちゃんに撫でてもらったら………痛くなくなるかも」
「ほ……んと………？」
柚葉はおそるおそる手を伸ばして包帯の上からそっと手のひらを当て、真剣な表情で撫でさすった。
「柚ちゃんの手、あったかい……。すげえ気持ちいいよ」
「よかったぁ……優くん、ずっと撫でていてあげる」
「うん、ありがとう………」
優は柚葉の手に自分の手を重ね、慈しむような優しい眼差しで見つめ返す。次の瞬間、どちらからともなく顔が近付き、二人の唇はぴったり合わさった。
光の中で交わされる穏やかな口付けを見たその瞬間、俺の身体は浮遊感に包まれた。もしかしたら……これで…………
「ユウッ、入るわよっ。ダイジョウブなの？！」
なんだ……だれだよまた………俺がせっかく天へ――――
「うわっ、母ちゃん！」
優の慌てた叫びで、俺はまた地上へ引き戻された。見れば、プラチナブロンドの美しい女性がはあはあ息を荒げて立っていた。そのままどかどか大股で近付き、
「ケガはっ？ どこ刺されたの？ ナニがあったの？ ちゃんと母ちゃんに説明なさい！」
北欧の妖精か人魚を思わせる人間離れした美貌とは対照的な、豪快で真っ直ぐな口調。そうか、この女性が優の母親か。
肝心の優は突然の母親の出現にあわあわするばかりで、何も答えられない。すると柚葉がさっと立ち上がり、そして深く頭を下げた。
「申し訳ありませんっ。僕のせいなんです。優くんは僕を守ろうとして、それで………」
「アナタは……？」
「僕は、美並柚葉といいます。えと……優くんの………」
何と答えてよいか分からず、頭を下げたまま固まる。そんな柚葉を労わるように、
「柚ちゃん、あとは俺が説明するよ。頭を上げて、ね？」
そして母親の方に向き直り、
「母ちゃん、心配かけてごめん。でも俺はこの通りピンピンしてるから大丈夫」
「ユウ、なにがあったのかちゃんと説明なさい」
優は神妙な表情で頷いた。
「はい。この柚葉さんは死んでしまった俺の親友の恋人なんだ。彼は柚葉さんのことをとても深く愛していて、死ぬ間際に柚葉さんのことを俺に託していった。どうか守って欲しい、と」
そして優は顔を上げ、俺に真っ直ぐな視線を向けて言葉を続けた。
「彼は素晴らしい人だった。自分に自信が持てずいつも俯いていた俺を、顔を上げて堂々と歩けと叱咤してくれた。
もし彼と出会わなかったら俺は東京で何も見つけられず、だらだらと過ごして適当に大学を卒業しただけで、田舎に逃げ帰っていたと思う」
『優……』
「そんな彼の頼みを、中途半端なままで投げ出すことは絶対にできない。だから俺は何があっても、自分が傷付いても柚ちゃんを守ると決めた。何の取り柄もない俺だけど、これだけはやり遂げなくちゃ……たっちゃんに、死んだ友人に申し訳が立たない」
優がここまで深い決意を持っていたとは考えていなかった。これ以上巻き込むわけにはいかないと別れを告げられた時、どれほどショックだったろうか。
『優、ありがとう。お前は最後までやり遂げてくれた』
俺の言葉に優は心底嬉しそうな笑みを向けると、すぐに表情を引き締めて母親に向き直った。二人は暫し無言のまま視線を交錯させたが、やがて彼女は厳しい声で、
「それで、ちゃんと守りきったのね？」
「うん」
優が答えるとほぼ同時に腕を振り上げ、肩をばん、と叩き、
「よし！ よくやった！」
そう言って満足げに笑い、さらに肩をばんばん叩いた。
「か、母ちゃん……痛い…………」
この細い身体のどこにこんなパワーが蓄えられているのだろう、嬉しそうに相好を崩して優の肩を叩き、柚葉に「これからもよろしくねっ」と無邪気に笑いかける。
柚葉もつられて「はい、こちらこそっ」と答えると、眩しそうに目を細めて笑った。俺が見たかった心からの笑顔だ。
『ゆず、もう大丈夫だな。俺がいなくても……』
いつかこういう時が来ると思っていた。来なければならないんだと自分に言い聞かせていた。
「それじゃ、ナースステーションに行ってケガの具合とか聞いてくるわね。お二人でごゆっくり」
優の母親はぱちんとウインクをして部屋を出ていった。俺もその後に続く。用事があるわけではもちろんないが、何となく二人きりにしてやろうと思ったのだ。
彼女の後について廊下を歩くと、何故か途中でぴたりと足を止めた。そして、
「うちのユウがお世話になったみたいね。ありがとう」
『………え？』
思わずきょろきょろ辺りを見回す。が、誰もいない。
ということは、まさか………
『あ、あの……もしかして見えるんですか？』
「ええ、ばっちり。あなた、なかなかイイ男ね。幽霊にしておくのはもったいないわ」
『そ、それはどうも……』
彼女は粋な仕草で肩を竦め、
「驚くことはないでしょう？ ユウにだって見えるんだから、その母であるわたしが見えてもフシギはないわ」
『それはそうかもしれませんが……。でも普通、幽霊が見えたらきゃーとかひえーとか。優の奴も最初は腰抜かしましたし』
「やあね、あの子。恐がりなとこちっとも直らないんだから。でも、」
彼女はほんの少し口調を改め、
「それ以外は驚くほど変わった。真っ直ぐ目を見て自分の意志を伝えるなんて、一番苦手なことだったのに。あなたの影響ね、きっと。本当にありがとう」
『いや……礼を言うのは俺の方です。優は文字通り命がけで柚葉を守ってくれた。さっきの柚葉の笑顔。俺はあれが見たかった。あれさえ見ることができればもう、もう思い残すことは………』
彼女の手が伸びて、俺の頬をそっと撫でた。
「思い残すことはない？ 淋しくない？」
淋しくない、穏やかな気持ちで昇天できる―――俺はそう思っていた。けれどやっぱり……
『淋しくないと言えば嘘になります。できることなら―――』
そうだ、そうだ俺はやっぱり………
『できることならずっとこの世に留まって、柚葉の傍にいたい。離れたくない。もう二度と会えないなんて、そんなの……嫌だっ………』
何てことだ。最後の最後で、俺は初めて会った人に本音を打ち明けてしまった。すると彼女は優しい声で、
「いずれまた会えるわ。柚葉さんにも、優にも、わたしにも。あなたがちょっと先に行ってるだけ。だから待ってて、ね？」
『………はい』
不思議だった。このひとは俺の母親でも何でもない、初対面の女性なのに、屈託のない口調や温かな笑顔に包み込むような母性を感じる。
俺は自分でも驚くほど素直に頷いた。気が付けば、現世への執着でささくれ立った心は穏やかに凪いでいた。
「それじゃ、主治医の先生にご挨拶してから必要な手続きだけして、家に帰るとしますか」
『えっ？ もう帰るんですか？ せっかく来たのに……』
「だって、わたしはおジャマでしょ？ 柚葉さんも付いててくれるし、心配ないわ」
そうか、これが本当の絆なんだ。こっちの生活について詮索したり、べったり傍に付いてあれこれ世話を焼くような関係ではなく、信頼に基づいて築かれる自立した個と個の関係。それがきちんと確立されているのだろう。
『分かりました、お気をつけて。あなたに会えてよかったです』
「わたしもよ。また会う日まで、さようなら」
彼女はくるりと背中を向けて歩き出した。その遠ざかる背中に、俺はどうしても言いたかった言葉を掛けた。
『優を産んでくれてありがとうございます』
彼女は片手を上げてＶサインを作り、そのまま去っていった。
何となく病室に戻りづらい。こんなことは初めてかもしれない。優や柚葉は血相変えて否定してくれるだろうが、確実に俺の存在意義は消えかけているのだ。二人の間に、もう俺の居場所はない。
気が付けば、もう夜だった。病室の外から中をそっと覗くと、二人はぎゅっと手を握り合ったまま楽しそうに話している。
「あ、もう消灯時間だ。こんな早い時間に眠れるかなあ」
「大丈夫だよ。眠るまで僕が付いててあげるから」
優は照れ臭そうに鼻の頭を掻くと、
「あのさ……柚ちゃんが子守歌うたってくれたら眠れるかも」
「ええっ？ 僕が？ や、やだよ、歌なんて歌えないもん……」
「嘘だぁ。風呂場で歌ってるの何度か聞いたことあるけど、上手かったよ」
柚葉は耳まで真っ赤に染めて、「分かったよっ」と不貞腐れたように答えると、布団の上からばんばん叩きつつ、
「ねんねんよーっ、おころりよーっ」
まるで喧嘩でも売るかのように強張った声で歌った。優は俯いて肩を震わせ、
「ぶっ………くくくく………ゆずちゃん、それじゃあ寝た子も起きちゃうよ。おもしれー、くくく………………って、ぃてててててて……………」
「ひゃ、優くん笑っちゃだめだってば！ 傷口が………」
「柚ちゃんが笑わせたんじゃないかあ…………いてててて…………」
心配そうに傷口をさする柚葉、顔をしかめつつも口許だけは嬉しそうに緩んでいる優。そんな二人を、俺は部屋の外からずっと眺め続けた。
この幸せそうな姿を魂に刻み込んで、天へ昇れるように―――
『……優、優…………』
夜遅く、全てが寝静まったころ、俺は優の病室を訪れた。俺が呼びかけると優は暫し眉根を寄せてぐずったが、目を開けて俺の姿を見とめると同時に飛び起きた。
「たっちゃん！ どこ行ってたんだよ。ずっと戻ってこないから心配して―――」
『優、お別れだ』
「な……ん………」
瞬きもせず、すがるような目付きで見上げてくる。そんな優に俺はもう一度、『お別れだ』と告げた。
全てを察したのか、優はくしゃりと顔を歪めて唇を噛み締め、嗚咽をこらえようとする。
「どう……しても……？」
『ああ』
「ゆずちゃんは……？」
『柚葉はもうお前のものだ』
優は溢れる涙をぐいと拭って、無理やり笑顔を拵えた。
「なんで……最後までそんなにカッコいいんだよ。俺、一生かかったって敵わないじゃないか」
『当たり前だ。俺様に勝とうだなんて１０万年早い』
俺は優に背を向けて、付き添い用の簡易ベッドで眠る柚葉の許へ近付いた。まだ頬はやつれているが、その寝顔は穏やかで安心しきっている。優が傍にいるということが、柚葉に安らぎを与えているのだろう。
俺は腰を屈めて、生前何度も何度も愛したその唇に、最後のキスを贈った。
『ゆず、幸せにな』
「う……ん……んっ…………」
俺の想いが届いたのか、柚葉は口許を緩めて笑った。ああ、これで本当に、思い残すことは何もない。
『じゃあな、優。お前に会えて本当によかった。柚葉を……頼む』
優は涙でぐしゃぐしゃの顔でにっこり笑い、力強く頷いた。俺も笑顔を返し、扉に向かう。
「いずれ俺たちもそっちに行くから。のんびり待っててくれよ。じゃあ、またね」
最後の言葉に優の想いが溢れていた。俺は笑って頷いて、二人のもとを去った。
『ああ……夜明けだ………』
最後の夜明け、最後の太陽………光ってこんなに眩しかったっけ？ 朝日ってこんなに綺麗だったっけ？
光の洪水に身を浸した俺は、自分の身体が徐々に薄くなっているのに気付いた。その時は近付いていた。
『最後の散歩だ』
俺は街中をぶらぶら歩いた。忘れていたが今日は休日だったようで、徐々に人出が増えてきた。
恋人同士、家族、友だち………みな明るい笑顔を浮かべて、晴天の休日を楽しんでいる。俺の心もこの青空のように、彼らの笑顔のように明るく澄み渡っていた。
公園まで辿り着くと、人のいないベンチを見つけて腰を下ろした。そして改めて、空を見仰ぐ。
『ああ………綺麗な空だなあ…………』
その時、一人の可愛らしい少女が真っ直ぐ俺の方に近付いてきた。手に風船を持って、不思議そうに首を傾げて俺を見つめている。
『やあ、こんにちは』
すると少女は驚いたのか、風船から手を離してしまった。風船はゆらゆら揺れながら上昇する。
俺は慌てて飛び上がり、風船へ手を伸ばした。その瞬間―――
『あっ……』
俺の身体は風船と共に上昇を始め―――そのままふわふわと―――空へ―――天へ―――
すげえ……いい気持ちだ………あたたかな…光の雲に包まれて………大いなる存在の懐へ………帰ってゆく…………
いろんなことが……あった――――
柚葉と出会い、柚葉を愛し、俺は死に、そして優と出会い―――全ての出来事が走馬灯のごとく流れる時の河に身を浸して微睡むうちに、俺は気付いた。
そう、実際はあんなことは起きなかった。全ては死にゆく俺の魂が見た夢なんだ。
おそらく俺の死後、柚葉は優と出会い、互いに惹かれ、愛し合うようになったのだろう。けれど俺の魂に染み付いた柚葉への未練や執着が、二人の出会いに俺も関わっていたいという願望を生み出し、そしてあんな夢を見せたに違いない。
だって………あんなこと、現実にはあり得ないだろう？ だからきっと―――
それは違うよ、たっちゃん
だれだ……優、優なのか？
俺が柚ちゃんと出会えたのはたっちゃんのお陰だ
そうか……そうなのか………
たっちゃんがいなかったら、俺たちは今でも他人のままだった。ありがとう。俺はたっちゃんのこと忘れない。たとえみんなの記憶から消えてしまっても、俺は………
優………
俺はたっちゃんと過ごした日々のことを決して忘れない
ゆう……アリガトウ………アリガ…ト…ゥ――――――
――――そして一条龍逸の魂は、天へ昇っていった。
「優くん、ねえ優くんどうしたの？ 傷が痛いの？」
黙って空を見上げたと思ったら、突然涙を流し始めた優を柚葉は心配そうに窺う。しかし優は涙が止まらぬままにっこり笑いかけ、
「ねえ、柚ちゃん。綺麗な空だねえ。雲ひとつないよ。まるで……このまま天国に繋がってるみたいだ」
「ゆう……くん……まさか………」
涙と今の言葉で、柚葉も全てを覚った。それでも必死で笑顔を見せて、
「きっと……真っ直ぐ行けたよね…………」
そしてベッドの上に突っ伏して声を上げて哭いた。その頭を優しく撫でながら、もう一度空を見上げる。
―――忘れない。何があっても俺はたっちゃんのことを……決して………
Remember You―――――
（Fin）
＊長い連載にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。続けて、その後の柚葉と優を描いた短いお話をアップして、シリーズ終了となります。
最後までよろしくお願いいたします。
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