２５.
風呂で温まったぽかぽかの身体を寄せ合い、優と柚葉は狭いベッドで幸せな眠りに沈んでいる。しかし俺たちは知っている。この幸せが束の間のものであることを。
空は白み始め、もうすぐ夜が明ける。柚葉に逃げられたことを知った成瀬はきっと、どんな手を使ってでも自分のもとに連れ戻そうとするはずだ。
『どうしたら……いい………』
今、二人を包んでいる優しい温もりを、甘やかな幸せを、束の間のものではなく確かなものにしてやりたい。二人が手を取り合って歩んでゆける道を築いてやりたい―――
「んぅ………っちゃん、たっ…ちゃん………ずっと………」
『……ゆず、ごめん。さっきは嘘ついた。ずっと一緒にはいられないんだ。でも必ずお前を幸せに………』
―――もうすぐ夜が明ける。新たな闘いの始まりだ……
深い眠りに落ち込んでいた俺たちを叩き起こしたのは、けたたましく鳴り響くインターホンだった。優の腕の中でとりとめのない甘い夢に浸っていた柚葉は、いきなり現実を突き付けられて軽い恐慌状態に陥った。
無視し続けることで俺たちに応対する意志がないことを示せばいずれは諦めるだろうと放っておいて、柚葉を宥めることに専心したのだが、常識人の論理は狂人には通用しなかった。
柚葉にむざむざ逃げられたのがよほど悔しかったのか、間隔もおかず連打される呼び鈴には成瀬の呪詛がこもっており、それを耳にしただけで奴の狂気に侵されるようなリアルな錯覚に囚われた。
『お前はここにいろ。俺が様子を見てくる』
二人を部屋に置いて、俺は玄関へ成瀬の様子を見に行った。扉をすり抜けると、予想通り尋常じゃない表情の成瀬が、尋常じゃない勢いで呼び鈴を押していた。
『色欲に取り憑かれた醜い魔物……』
薄くなった頭髪を振り乱し、今にも眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いている。その濁った目には微細な血管が幾重にも走っており、まるで焔を宿しているようだ。
「ここに……いるのはわかっているッ…………」
感情の熱で喉が圧迫されているのか、潰れた声で苦しそうに言葉を吐き出す。
「私からっ……逃げられると思うな………はは、あはははは…………」
呼び鈴は諦めたのか、扉に爪を立ててはガリガリと傷を付ける。猫の爪研ぎなんてかわいいもんじゃねえが、その姿には人間性のかけらも見当たらなかった。今の俺もまともな状態ではないが、こいつよりはまだ人間に近いと自負できる。
『見ていたら、こっちまで狂っちまいそうだ』
降りかかった狂気の残滓を払い落とし、俺は部屋の中へ戻った。
「たっちゃん、奴は………」
迫り来る現実の脅威から守るように、腕だけでなく全身で柚葉の身体を包み込んであやしていた優は、俺が戻ったのを見とめると不安を隠さず訊ねてきた。
『ああ、この前よりさらに人間性が堕ちてた。色欲に狂った醜い妖怪だ』
「ど、どうしたら……」
相変わらずインターホンは鳴り続けている。俺は頷きを返し、
『相手は狂人だ。とはいえ、社会的地位という鎧を着ている。柚葉がこうして戻ってきた以上、こちらから下手に動かず、無視し続けるのが最善だろうな。とりあえず、インターホンの電源を抜いて様子を静観していよう』
優は俺の言葉にひとつひとつ頷いて、しがみ付く柚葉を宥めてからインターホンの電源を抜きに行った。
「…っちゃん……たっちゃぁん………」
『ゆず、ここにる。ここにいるよ……』
優が残した温もりにすがりながら、俺の名を呼ぶ柚葉が痛ましくて可哀想でならない。
『お前が幸せになるまでは、ずっと傍にいるから……』
電源を抜いたのか、呼び鈴の音がぱたりとやんだ。しかしいつもの静寂はまだ遠かった。玄関の扉をカリカリとこする耳障りな音と、魂の抜けたような笑い声、そして柚葉の名を呼ぶ声―――
ゆずはぁ……わたしからは逃げられんぞ………
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……………
はは……ははは……罪は……いつもお前とともにあるのだ…………
ハハハハハハハハハハ……………
「たっちゃん……」
思わず耳を塞ぎそうになったが、戻ってきた優に呼びかけられて我に返った。俺はにやりと笑い、
『持久戦だな、優』
精一杯の余裕をもって、肩を竦めてみせた。
この闘い、俺たちの方に分があるはず。言葉にしなかったが俺はそう思っていた、いや、思い込んでいた。
しかし俺は、成瀬の身内で数十年に渡って醸造されてきた怨み、柚葉への執着というものを甘く見ていた。成瀬という人間の精神は疾うに壊死し、すでに回復不能となっていたのだ。
いずれ諦めるだろうという常人の理屈は、狂気の沼に片足を突っ込んだ男には通用しなかった。
成瀬は朝な夕な現れては、玄関扉に爪を立て、時には笑い、時には低い声で脅迫の言葉を繰り返した。
扉を叩いたり大声を上げることはなかったが、その方がまだましだったかもしれない。奴が発するささやかな音の全てが鼓膜に障り、平穏を望む柚葉と優の繊細な神経を逆撫でした。
初めて成瀬を見た時、その狂気が伝染するような錯覚を覚えたが、もはやそれは錯覚を超えて現実の領域にまで侵蝕を始めていた。そう、簡単に言えば俺たちは参っていたのだ、奴の執念深さに。
しかしここで屈するわけにはいかなかった。持久戦の覚悟はできていた。ともかく柚葉は部屋から一歩も外に出さず、食料や生活に最低限必要なものは優が昼間の最も人出の多い時間を見計らって買いに行った。
その時もまず俺が先に様子を窺い、成瀬やその手先である探偵らしき男がいないのを確認してから外に出る。
もちろん、だからと言って安心できるはずもなく、急いで必要なものを買って一目散に部屋へ戻る、そんな生活だった。
柚葉も優も、後期試験を控えていた。しかし勉強どころではなく、試験を受けられるかどうかも怪しい状態で、二人とも口には出さなかったが進級は諦めているようにも見えた。
特に激しい消耗を晒したのは、柚葉ではなく寧ろ優の方だった。柚葉を守らねばならぬというプレッシャーと迫り来る成瀬の影に挟まれて、もともと過敏で繊弱な神経はさらに磨滅して身体にも影響を及ぼした。
食欲は落ち、ここへ来た当初より確実に痩せた。ギターを手に取ることもほとんどなくなり、いつも悲壮なほど張り詰めた表情で、柚葉を守るという役目を全うしようと必死だったのだ。
認めたくなかったが、限界が近付いていることは確かだった。俺が感じるほどなのだから柚葉が気付かないわけもなく、ずっと普段通り振る舞っていたのは、ただ黙って自分の考えをまとめ、それを俺に伝えるタイミングを計っていただけだった。
ある夜、優が風呂に入っている時だった。柚葉はぽつりと「たっちゃん、いるよね？」と呟いた。
『ああ、いるよ』
もちろん柚葉には聞こえない。しかし傍にいると確信しているのか、目の前の何もない空間に向かって訥々と語りかける。その信頼が俺には嬉しかった。
「僕ね、ずっと考えてたんだけど……もう、優くんを解放してあげようと思うんだ」
『……そうか』
俺は驚かなかった。表情には出さずとも、柚葉がそのことについて悩んでいることには疾うに気付いていた。
「僕たち……優くんに頼りすぎてしまったね。ここまで深く巻き込んでしまってはいけなかったんだ。なのに彼の優しさ、誠実さに寄りかかって……」
『でもゆず、あいつは自分の意志で今ここにいるんだ。お前への愛情と俺への友情、それが優を動かしているんだよ』
「僕たちのためにこんな狂った生活に付き合って、大学へも行けず、大好きな音楽も遠ざけて………」
ああ駄目だ。やはり優がいないと俺の言葉は通じない。でも、柚葉がこう思ってしまうのも仕方ないことなのかもしれない。今の疲弊しきった優の姿を見て、罪悪感に苛まれるのは当然だろう。
「たっちゃんは否定するかもしれないけど、やっぱり僕と優くんでは存在の質が違うんだ。彼は両親の温かな愛情を一身に受けて、真っ直ぐ育ってきた。一人で上京してがんばっている息子に心配かけまいと、自分の病気を隠して仕送りを続けるようなご両親……。その大事な一人息子を、僕は、僕はっ―――」
『柚葉っ』
「こんな汚らわしい茶番に……引きずり込んでしまったんだ………」
最後は涙で掠れていた。柚葉は両手で顔を覆い、肩を上下させて嗚咽を漏らす。どんな温もりも慰めも与えることはできないと分かってはいたが、俺はその肩を抱き締めずにはいられなかった。
「たっちゃん、ごめんね………すこしだけ……泣かせてもらってもいい？」
『なに遠慮してんだよ、ゆず。お前の涙も嘆きも全て受け止めるって。俺の前では我慢するな』
柚葉は顔を覆っていた手をだらりと下げ、悲しみでくしゃくしゃに歪んだ顔を俺に向けた。
きっと、今のうちに涙を全て出し切って、優に話す時には後ろめたい思いを抱かせないよう平気な振りを装うつもりなのだろう。僕はもう大丈夫だから、優くんも心配しないでね、と。
「んっ、ふ……ふぇっ、ぅぇっ……ぅぅ…………わあああああーーーーん」
『柚葉っ、ゆずはぁ………』
溢れる涙を必死に拭い、濡れた頬に唇を寄せた。けれど俺には、一滴の涙も受け止めてやることができなかった…………
「ゆずちゃん、お風呂空いたよ、どうぞ」
「ん、ありがとう。あのね、優くん。ちょっと話したいことがあるんだ。いいかな」
そう言う柚葉は笑顔を浮かべてはいたが、その声にいつもと異なる強張りを感じ取ったのだろう、優は頷いたものの、不安な眼差しを俺に送ってきた。
『優……』
俺は迷っていた。柚葉が何を考えているのか優に予め教え、今まで通りずっと柚葉の傍にいて守ってやってくれと頼むべきなのか。優は俺の頼みを拒むことはできないだろう。
けれどここは口出しせず優の意志に任せるべきだと判断し、俺はただ『聞いてやってくれ』と答えるに留めたのだ。
優は尚も落ち着かない様子で、それでも何とか笑顔を拵えて「どうしたの？ 改まって」と促す。柚葉は「うん、」と短い前置きのあと、あっさりと口を開いた。
「さっきたっちゃんにも話したんだけど、優くんはもうここを出て行った方がいいと思うんだ」
優は大きく目を見開いたまま、みるみるうちに硬直してゆく。しかし柚葉は構うことなく言葉を続ける。
「ごめんね。一緒に住もうって誘ったのは僕の方なのに。でも、こんなことになるなんて思ってもみなかったから……。このままじゃ優くんの大学生活がめちゃくちゃになっちゃう。だから―――」
「そんなのはどうでもいいッ！ 俺は、俺は柚ちゃんを守りきってみせる。何があっても最後まで。そうたっちゃんと約束したんだ。それに―――」
「優くんは最後まで僕を庇い、僕を守ってくれた。それは僕もたっちゃんもよく分かってるよ。成瀬とのおぞましい関係を知っても怯むことなく、助け出そうと屋敷にまで乗り込んできてくれた……本当に嬉しかった。ありがとう」
「そん…な……」
優は蒼褪めた顔を小刻みに振って、柚葉が捧げる惜別の言葉を受け入れまいとする。柚葉はすっと手を伸ばして優の頬をなぞり、
「優くん、ここで一緒に住み始めた頃よりずい分痩せちゃったね。歌を歌うこともギターを奏でることも忘れて、いつも神経を尖らせて……ごめん、ごめんねぇ………」
唇を噛み締めて涙をこらえる柚葉を、優は呆然と見つめる。が、やがてゆるゆると顔を上げて、すがるように俺を見た。
『……優、俺の願いは言わなくても分かると思う。けれど、このままではお前の生活まで崩壊しちまうことは確かだ。進級も危うい。お前を信じて東京へ送り出してくれた両親を悲しませるようなことは………』
「たっちゃん……」
優は再び柚葉の方に向き直り、
「で、でも……どうするんだこれから。確かに今、俺は何の役にも立っていないけど、でも俺がここを出て行って、柚ちゃん一人になって………」
「大丈夫。何とかなるよ」
「それにっ、俺がいなくなったら、たっちゃんの言葉を聞くこともできなくなるんだよ！」
優の悲愴な叫びに、柚葉は微笑みで応えた。
「たとえ声が聞けなくなっても、たっちゃんはここにいる。僕の傍にいてくれる。それを信じさせてくれたのは、優くんなんだよ。だから平気。もう僕には恐いものなんて何もないんだ」
何か吹っ切れたような物言いに、優ははっと息を呑んでさらに蒼褪めた。
「ゆずちゃん、まさか君はっ―――」
「優くん、安心して。僕は自ら命を絶つようなことはしない、絶対にしない。確かに……成瀬の屋敷にいる時にはそれを考えたこともあった。何もかもリセットしたいと。でもそんなことはできないと気付いた。だって………」
顔を上げて俺のいる空間を見つめる柚葉。抑え込んでいたはずの涙が頬を濡らしていたが、必死に笑顔を保っていた。
「だって、そんなことしたら……たっちゃんのいる所に行けなくなっちゃう、もう二度と、永遠にたっちゃんに会えなくなっちゃう！」
「ゆずちゃん……」
「そんなのはいや！ 絶対にいやだ！ だから僕は何があっても、どんな困難に遭遇しても歯を食いしばって生き抜いてやる。そして神様がもういいよ、って言ってくださるまでがんばって、それで、それで………天国でたっちゃんに逢うの…………」
ああ……柚葉。それがお前の愛なんだな。ありがとう……俺は、お前に愛されて本当に幸せだ………
「だから優くん、安心して。僕は…負けない。たとえ再び成瀬の手に落ちたとしても、生きるのを諦めない、自分を卑下しない。
ねえ、分かる？ たっちゃんに先立たれ、絶望に沈んでいた僕をここまで強くしてくれたのは優くんなんだよ。本当にありがとう」
柚葉は優の手を取り、固く握り締めた。そして晴れやかな笑顔を向け、
「優くん。これからは前を向いて、自分の幸せのために生きてください」
優は頷くことも首を振ることもなく、ただ声を上げて泣き続けた。
BACK TOP NEXT