２０.
駅前の繁華街にある、大きなスペイン料理レストラン。その個室で柚葉と優、そして成瀬の三人が向かい合って座っている。
俺は成瀬の真後ろに立って、奴が変な真似を、例えば料理に妙な薬を入れたり、外部と連絡を取ったりしないかを監視していた。
先に着いていた成瀬は待ちきれない様子でそわそわしていたが、柚葉が入ってくると弾かれたように背筋をぴんと伸ばして、柚葉の一挙手一投足をぎらぎらぬめる瞳でしつこく追った。
慎みも威厳も余裕もなく、身内で爆ぜる欲望の熱に灼かれた眼差しは飢えに苛まれた獣そのもので、俺は思わず両手を広げて奴の視界を遮った。もちろん、そんなことをしても何の効果もないのだが。
そして優も俺と同様、奴のいやらしい視線に憤りを覚えたようで、普段の優からは考えられないほど攻撃的な視線を送ったが、態度に表わすことはなくぐっとこらえて平静を保った。
俺たちは事前に話し合っていたのだ。常に優位に話を進めるには、感情的にならず落ち着いた態度で対応することが重要である、と。優はそれを忠実に守り、感情を抑えて紳士的に振る舞った。
柚葉のために椅子を引き、優しくエスコートする。それは形式ばったお作法ではなく、ごく自然な愛情表現そのものだった。柚葉もふわりと微笑んで「ありがとう」と返し、優に対する親愛の情を見せ付けた。
その瞬間、膝の上に置かれた成瀬の手が震え、服の布地に爪を立ててガリ、と引っ掻いた。俺は思わずほくそえむ。どうやら、第一ラウンドは俺たちが勝利したようだ。
成瀬は苛立ちをそのまま反映させたような甲高い声で、「久しぶりだな」と声を掛ける。対して柚葉は、多少強張ってはいるものの淡々とした声で「そうですね」と答え、成瀬の背後の壁を見つめた。
そう、そこは俺がいる場所。その真っ直ぐな眼差しは、無言のうちに俺に問い掛けていた。たっちゃん、ここまではちゃんとできているでしょ？と。
『いいぞ、柚葉。その調子だ。必ずうまくいく』
そうだ、俺が不安がっていてはいけない。俺の不安はそのまま優に伝わり、優から柚葉に伝播する。だから俺が二人を励まし、光の射す方へ導かねばならないのだ。
俺の言葉は柚葉には聞こえないが、優が小さく頷くのを見て伝わったようだ。ほっと息を吐いて悠然とメニューに目を通した。
「優くん、お腹空いてるでしょ？ 何食べよっか。どんどん注文しちゃおう」
「そうだね。遠慮なく食わしてもらおうかな」
本当は、何も喉を通らないに違いない。緊張の余り、二人ともゆうべからまともに食事していないのだ。しかし平静を装うため、大きなメニューを広げて二人で楽しげに注文してゆく。
「タコのマリネ、スペイン風オムレツ、イベリコ豚の生ハムに……あ、パエリヤももちろん必須だよね」
注文した皿がずらりと並べられると、二人は小さく溜め息をついてのろのろと手を伸ばした。もちろん食事は進まない。
目の前にいる成瀬が放つ圧倒的な負の瘴気。これをまともに浴びながら食い物を流し込めるほど、柚葉も優も図太くはなかった。
成瀬に付け入る隙を与えぬよう、気丈に振る舞おうとする柚葉は痛々しいほど張り詰めて、見ていられない。早く、早くこの茶番を終わらせて、楽にしてやりたい。何の心配もなく、平穏で楽しい生活を優と共に送らせてやりたい。
しかしそんな俺の願いをよそに、成瀬は徐に口を開いた。
「さて、食事ばかりしていても仕方がない。二人とも余り食が進まないようだしな。私が今日、こんな安レストランを訪れたのは、柚葉との今後について話し合うためだ」
「話し合いの必要はない。僕とお前はもう、何の関わりもない赤の他人なんだ。分かりきったことだけれど、お前にはもう一度はっきり面と向かって言う必要があると思ったからわざわざ来たまでのこと。今さら話し合うことなんて何もない」
成瀬は目を剥いて芝居がかった驚きを露わにし、
「赤の他人？ とんでもない。よくもまあそんな冷たいことが言えたものだ。……まあ、いい。本題に入る前に、先に確認しておきたいことがある」
奴はそう言っていったん柚葉から視線を外し、優の方に向き直った。優は僅かに身じろぎしたものの、平然と受け止めた。成瀬はすっと目を細め、
「……後藤優、Ｋ大学商学部３年、Ｎ県出身、親は家具の修理工場を営んでいる」
これに険しい反応を見せたのは柚葉だ。挑みかかるように腰を浮かせ、
「お前っ、一体優くんの何を―――」
しかしそんな柚葉を優は穏やかに制し、
「柚ちゃん、大丈夫。色々調べられていい気持ちはしないけれど、バレて困るようなことは何もないよ。好きなだけ探ればいいさ、気の済むまで」
「優くん……」
優の言葉や表情には、これまで真っ直ぐ生きてきた人間の清々しい矜持が表れていた。そう、これこそが優の強さなのだ。
『そうだな、隠し立てすることなんて何もない。堂々と調べさせてやれ』
優は俺に向かってにっこり笑ってみせた。そして無言のうちに成瀬を促す。成瀬は気障な仕草で肩を竦めると、再び口を開いた。
「母親は北欧の出身らしいな。スウェーデンかな？ インテリア関係の仕事で来日した時、すでに修理工場を開いていたお父さんと出会う。古い日本家具を修理、リフォームして蘇らせようという情熱に共感し、彼の仕事を手伝うようになる。その後結婚、君が生まれたというわけだ」
「よく調べましたね、その通りです。で、何か脅迫に使えそうなネタはありましたか？」
「残念ながら何も。君自身に関しても、その容姿にしては驚くほど色事に縁がなかったようだな。だから柚葉のような手練手管の娼婦に引っかかってしまったのか」
『優、抑えろ』
優は分かっているという風に頷いて、
「お陰さまで、柚ちゃんという素晴らしい人に、純粋無垢な魂を持つ真っ直ぐな人に出逢うことができました」
そして俺ですら思わず見惚れてしまいそうなほど美しい微笑みを浮かべた。
そうだ、優、それでいい。奴の吐く毒なんかはね付けて、お前は自分の信じるものを自分の言葉で堂々と表現すればいいんだ。
すると成瀬はわざとらしく眉根を寄せて、小さく頭を振った。
「なるほど、現代には珍しい純真な青年だ。しかしな、父親が倒れて入院しているというのに見舞いにも行かず、東京で好き勝手な生活を楽しんでいるというのは感心しないな」
「な…んだって……？」
まさか、優の父親が……そんな連絡はなかったはずだ。
「優くん……」
柚葉も不安げに額を曇らせ、優の顔を覗き込んだ。
「入院だって…？ 嘘だ。俺はそんなの聞いてない」
「おやおや。しかし私のもとに届けられた報告書には、入院している病院の名前まで書いてあったが。工場で倒れて、そのまま運ばれたそうだ」
「嘘だッ。じゃあなんで俺に知らせてくれないんだ」
「それは、君が一番よく分かっているのではないのかね？ 東京で一人で生活している息子に要らぬ心配はかけたくない、そういったご両親の深い愛情を、君は一身に受けて育ったはずだ。誰かとは違ってね」
さらに成瀬は眉間に皺を刻んだまま、
「疑うのなら確かめてみれば済むことだ。実家に電話してみるといい」
『優、電話して確かめてみろ』
優は頷いて携帯を取り出し、実家にかけた。ぼそぼそと低い声は聞き取りづらかったが、その表情を見ただけで成瀬の情報の正しさが窺えた。
優は「それじゃ、」と短い挨拶を残して電話を切り、柚葉に向かって「本当だったよ…」と項垂れた。
「そ、それでお父さんの容態は……」
「うん、快復には向かっているけれど、退院はまだ先になるって。注文がたてこんでて、休む間も惜しんで働いてたから疲労がたまったんだろうって……」
柚葉を安心させようとしているのか、優は明るい声でそう答えた。しかし泣き笑いのように歪んだ表情が全てを物語っていた。
きっと心配で心配で仕方ないのだろう。俯いたまま、ぎゅっと握られた自分の拳を見つめている。柚葉はその手を両手で優しく包み込んで、
「ね、優くん。やっぱり一度帰った方がいいよ。それで元気な顔をご両親に見せてあげて」
「で、でもっ、こんな大事な時に………」
柚葉は「だぁいじょうぶ」と言ってふふっと笑った。そして俺の方を向いて、
「いいでしょ？ たっちゃん」
『……ああ、もちろんだ』
正直、俺は不安だった。こうして優と柚葉を引き離すことが成瀬の狙いではないのかとの疑念が一気に膨れ上がり、胸腔を圧迫してくる。
しかし優の親父さんが倒れたのは事実だし、今、優に帰るなと言うのは余りに酷だ。こいつはこれまで身を挺して柚葉を守ってくれた。これ以上の犠牲を強いることはできない。
『優、今は気持ちを切り替えて親父さんのことを考えるんだ。でも……頼む、なるべく早く帰ってきてくれ』
最後に本音が出てしまった。優は俺の気持ちを汲み取ってくれたのか、じっと視線を合わせて力強く頷いてみせた。
「そうとなったら早い方がいいよ。優くん、お金持ってる？ 切符代とか……」
「いや、せめてこの話し合いが終わるまでは―――」
「そんな悠長なこと言ってないで、ね？ 今からだったら最終列車に間に合うでしょ？ 僕は大丈夫だから。たっちゃんだっていてくれるし。ほら、急いでっ」
柚葉の勢いに押されるかたちで優は立ち上がり、帰り仕度を始めた。そして不安げな眼差しで俺を見つめた。
『……ほら、優。急がないと最終に乗り遅れるぞ』
「わかった。でもすぐ戻ってくるからねっ」
優が部屋を出て行くと、途端に空気の質感が変わった。それは見事なまでの変異だった。まるで、さらさらと音をたてて流れていた清らかな小川が堰き止められ、徐々に淀み、青黒く腐敗してゆくかのような。
改めて優という存在の大きさを思い知ったがもう遅い。恐らく柚葉も俺と同じ感覚を味わっただろうが、面てには出さず薄氷（うすらい）を顔に張り付けて向かいの成瀬を睨み据えた。対して成瀬は嬉しそうに相好を崩し、
「やっと二人きりになれたな、柚葉」
柚葉はフンと鼻で嗤う。二人きりじゃない、もう一人自分の傍にいてくれているんだ、そう心の中で言い返したことだろう。
その通りだ。今の俺には何もできない、どんな助言もしてやれないけれど、それでも俺はお前の傍を離れない。絶対に―――
「これでゆっくり話せるな。でも柚葉、彼がこの場にいないのは、お前にとっても彼にとっても好都合なんだぞ」
柚葉は何も答えない。冷たい目で淡々と見返すだけだ。成瀬は苦笑を浮かべて、
「ふん、まあいい。すぐに分かることだ。では今後の話をするとしようか。お前と私、二人の生活についてだ」
「まだ分からないのか。もう僕とお前は何の関係もない。二人の生活？ はッ、何で僕が赤の他人のお前と一緒に暮らさなきゃならないんだ。くだらない妄想にしがみ付くのはいい加減にしたらどうなんだ」
俺は思わず身構えた。死んだ魚みたいに濁っていた成瀬の目玉が急に澄み渡り、不穏なまでに激しい輝きを帯びてきたからだ。
笑いの形に緩みっぱなしだった唇は、胸の奥から湧き上がる言葉の勢いに翻弄されてわなわなと震える。
『柚葉、気をつけろ。何だか嫌な感じだ』
成瀬が放つ圧倒的な存在感。柚葉もまた尋常でないものを感じたのか、目を見開いたままこくんと喉を鳴らした。
「赤の…他人？ くだらない妄想？………ハ、ハハ………何も分かっていないのはお前の方だよ、柚葉」
「なん…だと……」
「よくお聞き。お前の本当の父親は、この私なのだ」
――――――バカな。そんな、そんなことが………
「う、そ、だ………」
「嘘じゃない。お前は私とお前の母、柚己子（ゆきこ）の間にできた子供なんだよ」
「うそだ………うそだあああああッ……………」
『ゆずっ』
柚葉はよろけつつも椅子を蹴って立ち上がり、部屋を出ようと扉に駆け寄った。しかしその行動を予期していたのか、成瀬は素早く動いて柚葉の腕を掴み引き戻した。
「ここを出て、どこへ逃げるつもりだ？ 目を閉じ耳を塞いで逃げ回っても、事実からは逃げられん。どこへ行ってもお前と私が親子であるという事実、さらに父子相姦というおぞましい穢れは付いて回るのだ、永遠に、ずっと………」
「あああああ…………」
やめろ、やめてくれぇ………このままでは柚葉が壊れちまう…………
「彼がこの場を去ったことがお前にとって好都合だと言った意味が分かっただろう？ 健全な家庭で真っ直ぐ育ったあの青年に、こんな毒を、穢れを浴びせては可哀想だ。それにこの事実を知ってしまったら、さすがの彼もお前に愛想を尽かしてしまうだろうからな」
勝ち誇ったように指摘する成瀬に、俺は初めて明確な殺意を覚えた。この男、殺せるものなら殺してやりたい。そのせいで永遠に地獄を彷徨うことになっても構わない。
きっとこの事実を、柚葉を捕えるための最終的な切り札として温存しておいたのだろう。その卑劣極まる遣り口に、成瀬という男に巣食う闇が凝縮されていた。
しかし、しかし、絶望するのはまだ早い。成瀬が明かした“事実”が真実だという確証はないのだ。柚葉を混乱させ、優から引き離し、思い通りにするための策略かもしれない。
『ゆずっ、信じるな。これはお前を苦しめるための罠だ』
しかし俺の言葉は届かない。柚葉は虚ろな視線を中空に、さっきまで俺がいた場所に据えて「うそだ、うそだ…」と繰り返す。
突き付けられた“事実”の衝撃が大きすぎて、まともな判断ができないのだろう。その心理は分かる。でも柚葉、今自分を見失っては駄目だ。しっかりしろっ。そして優が戻ってくるまで―――
「嘘だと言うのかね？ ならば証拠を見せよう」
「しょう…こ……？」
「そうだ」
だ、だめだ柚葉。こいつの言うことはもう何も聞くな。このままでは成瀬のシナリオ通りに進んでしまう。成瀬はお前の意志を麻痺させ、自分の思い通りにするのが目的なんだ。
「決定的な証拠が私の屋敷にある。それを見て、そして私の言っていることが嘘か真か判断すればいいだろう」
『柚葉行くなッ、罠だ！』
「もちろん無理強いはしないが。でもお前もこのままでは落ち着かないだろう？ 自分の目で確かめて、自分の頭で判断を下せばいい」
「自分の……目で………」
だめだ柚葉、何をしてるんだ。そんな奴に腕を預けるな、身体を触らせるな、自分を明け渡すな。あの悲壮なまでに強い意志はどうした。お前はもうこいつのオモチャじゃない。そうだろう？ 柚葉、柚葉、ゆずは―――――
『行くなぁッ！』
俺の言葉は、柚葉には届かない――――
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