１８.
「柚ちゃんっ、大丈夫っ？」
優の宥めにも耳を貸さず、床にぺたんと座って頭を抱え込む柚葉。扉のすぐ向こうに迫っている汚れた過去の脅威から、自分の身を守ろうとしているのだろう。
「ぃゃ…………こない…で……こないでぇ………」
すると扉の向こうから、まるで駄々っ子をあやすかのような間延びした甘ったるい声が聞こえてきた。
「ゆずはぁ〜、私だよぉ………。もう忘れてしまったのかなあ？」
この声を聞いた瞬間、身体のないはずの俺の皮膚が粟立った。目の前の獲物を嬲り、それが苦しむのを眺めることに悦びや快楽を覚える人間が発する声だ。
高橋の暴虐とも違う、田端の頽廃とも違う。魂の底まで壊死し、腐りきった人間の成れの果て。自分の快楽のためなら、人間の尊厳を踏みにじるような行為でも平気で、寧ろ喜んで手を染めるような輩だ。
何がなんだか分からず、戸惑いつつも落ち着かせようと柚葉の肩をさする優に、俺はそっと耳打ちした。
『成瀬だ。昔、借金の形に柚葉を無理やり愛人にした彫刻家』
その瞬間、不安げに緩んでいた優の表情はぎりぎり音をたてて尖っていった。扉ごと灼き尽くさんばかりの激しい眼差しを玄関に注ぎ、柚葉の肩を抱いたまま威嚇するように低く唸る。こんな優は初めて見る。
「柚葉、ここを開けておくれ。どうしたんだ？ 私だよ。お前を愛して愛して愛し―――」
「うるさいッ、もうお前とは何の関係もない！ 二度とここへ来るな！」
成瀬は「おやおや」とふざけた口調で呟くと、ドアノブに手を掛けてガチャガチャと揺らし始めた。もちろん、力づくで入ろうとしているわけではない。こうすることで柚葉の恐怖を煽ろうとしているだけだ。
「いやああああッ」
成瀬の目論見通り、厳しい言葉で追い返すという気丈な振る舞いを見せた柚葉は、あっという間に激しく震え出した。
『優、柚葉を頼む』
俺は優に声を掛けてから、ドアをすり抜けて外へ出た。成瀬がどんな男なのか見ておく必要があると思ったからだ。
「ゆずはぁ、私は先週、日本へ戻ってきたばかりなんだよ。パリもベルリンもロンドンもローマも、お前がいなければ何の刺激もない退屈な街だ。また私のモデルを務め、そして私に輝かしいインスピレーションを注いでおくれ。お前は私のミューズなのだ、分かるだろう？」
ああ、外見と魂がこれだけかけ離れている人間がいるのか。成瀬という男、外見は悪くない。穏やかな笑みを浮かべ黙って立っていれば、高名な芸術家、人徳のある紳士に見えなくもない。
年齢からくる老いの兆候はそこかしこに認められるものの、それは醜さではなく威厳や落ち着き、渋みなどの好印象を与える結果となっている。
もちろん、にやけたツラを晒して扉を叩いている今の奴には、そんなもの欠片も見当たらないが。
今の成瀬は、慾と色に取り憑かれた憐れな老人以外の何ものでもない。
「柚葉、可愛い柚葉。お前のことならなぁんでも知っているよ。可哀想に、恋人が死んでしまったのだろう？ 他ならぬお前のせいで」
こいつ………ふざけたこと言いやがって。俺は慌てて部屋の中に戻った。予想通り、成瀬の言葉に打ちのめされた柚葉は目に涙をいっぱい溜めて苦しそうに嗚咽を漏らしている。
『ゆず、あんな野郎の言うことなんて聞くな。奥の部屋に戻るんだ』
「そうだよ、柚ちゃん。ゆっくり休もう。ここは鍵が掛かってるんだから大丈夫。あいつが入ってくることはないよ」
柚葉は朦朧と頷きつつも、立ち上がろうと四肢に力を込めた。しかし再び扉の向こうから陰湿なからかいが。
「おや？ もう別の男と一緒にいるのかね？ さすがは柚葉、私の育てた気高き娼婦。次の犠牲者はどんな死に方をするのかな？ また交通事故かな？ それとも―――」
「やめろ！ これ以上柚ちゃんを苦しめるなッ。帰れ！ 警察を呼ぶぞ」
「ははっ。新しい恋人は少々知恵が回らないと見える。構わんよ。警察を呼ぶなら呼びなさい」
「くそっ」と舌打ちして電話を取ろうとする優を、俺は諫めた。
『やめろ、優。そんなことしても無駄だ。あいつの思う壺だぞ』
警察を呼んだところで、成瀬は堂々と応対してうまく言い逃れるだろう。それでは逆に柚葉の心証を悪くしてしまう。
それに、今無理やり押し入って柚葉を連れ戻そうなどとは、成瀬も考えていないはずだ。じっくり時間をかけて追い詰めるつもりだろう。
考えたくはないが、本当に警察の力が必要になる時が来るかもしれない。その時のためにも今は耐えるしかないのだ。
優は悔しそうに唇を噛み締めたが、無言のまま小さく頷きを返した。そして立ち上がる気力も喪失してぐったり座り込む柚葉をそっと抱き上げ、奥の寝室へ向かった。
「柚葉ぁ、私はお前を愛しているんだよ………なぜなら――――」
これ以上戯言に付き合う義理はない。柚葉をベッドに寝かせた優は、成瀬の存在ごと断ち切るかのようにバタンッと大きな音をたてて扉を閉めた。
優は俺の勧めに従って緩い導眠薬を飲ませようとしたが、柚葉は怯えた様子ですがり付き、首を振って拒絶した。
「柚ちゃん、ね、これ飲んで…。ゆうべもあんまり寝てないんだから……そ、それは俺のせいなんだけど………」
「ぃゃ………ぃゃぁ………こわい、こわいの……今眠ったら、こわい夢ばっかり見る、きっと………」
涙でぐしゃぐしゃの顔を胸に押し付け、ぎゅっとしがみ付く柚葉を突き放すこともできず、優はおろおろするばかり。
そう、昔はよくこういうことがあった。夢を見るのが恐いと言って、眠りを遠ざけようと必死に目をこじ開ける。そんな時、俺がしてやったのはごく単純なことだった。
『優、柚葉の隣に寝て、ぎゅっと手を握ってやれ。それで、ずっとここにいるから大丈夫だと言い聞かせるんだ』
「う、うん」
優は言われた通りベッドの上に上がって隣にもぐり込み、そして柚葉の手を掴んで引き寄せた。
「優く―――」
「ゆずちゃん、俺がずっとここにいて、夢の番人してるから大丈夫だよ。恐い夢なんか追い払ってあげるから」
言ってしまってから優は、見てるこっちが恥ずかしくなるほど真っ赤になって「うひゃぁ」と妙な声を上げつつ、顔を覆ってしまった。たぶん、自分の言葉が余りにロマンチックすぎたと気付いたのだろう………相変わらず面白い奴だ。
しかしそのお陰で柚葉の強張りが少し融けたのも事実だ。こしこしと目をこすって、
「………くすりは嫌。その代わり……優くん、子守歌うたって」
「えっ？ こ、子守歌なんて知らないよ……」
『バカ。何でもいいんだよ。二人が知ってる曲で、穏やかな気持ちになれる歌。歌ってやれよ』
優は神妙な顔付きで頷いて、柚葉の身体を腕の中に収めた。そしてゆったりと歌い始めたのは―――
「Moon River wider than a mile―――」
ムーン・リバー、1マイルよりもっと広い河。
いつか私は胸をはって渡ってみせよう。
私に夢を与えるのもあなた、
夢を打ち砕くのもあなた。
あなたが何処に流れて行こうとも、私はあなたについて行こう―――
『Moon River』、古き名画の主題歌。感傷的で懐かしいメロディが、優独特の甘く掠れた声に乗って鼓膜を慰撫する。きりきりと張り詰めていた空間がほぐれ、悠久の流れに呑み込まれてゆく―――
「ん………ゆう…く…ん…………」
柚葉は声に出さず、唇を小さく動かして「ありがと」と伝えると、そのまますぅっと目を閉じた。口許にうっすら笑みを浮かべて。
それでも優は歌い続け、やがて柚葉が柔らかな寝息をこぼし始めてもなお、やめようとはしなかった。
夢の世界にいる柚葉に聴かせるかのように―――
俺はこの時ほど、歌が歌えることを羨ましいと思ったことはなかった。
「たっちゃん……俺はこれからどうしたらいい？ どうしたら柚ちゃんを守ることができる？」
優は途方に暮れたような情けない声でそう言うと、俺の返事を待たず項垂れて「ごめん、いい加減自分で考えろ、だよね…」と呟いた。
『おい、なに卑屈になってんだ。俺たちは二人で一人前だろ？ 二人で知恵を出し合って打開策を見つけ出すんだ。これまでだってそうしてきたじゃねえか』
優は「うん…」と言ったきり、腕の中の温もりにすがるように眠っている柚葉を抱き締めた。
実際、えらそうに優を叱咤したものの、俺に何か秘策があるわけでもなかった。途方に暮れているのは俺も同じだ。
『今度はさらに慎重に策を練らねえとな。相手は著名な彫刻家。社会的地位のある紳士だ。高橋たちみたいなちんぴらとは違う。下手なことをすれば、柚葉ばかりが傷付くことになっちまう』
そんなのは今さら言うまでもない分かりきったことだ。しかしその分かりきったことでも口にしていないと、不安に潰されそうになってしまう。優も同じなのか、柚葉の髪を撫でながら、
「そうだね…。でもそれを逆手にとれば、つまり社会的地位を貶めるようなスキャンダルを起こしてやれば―――」
ならどうすりゃいいんだよ、と俺に問い詰められるとでも思ったのか、優は申し訳なさそうに肩をすぼめて口を閉ざしてしまった。俺は小さく溜め息をついて優の肩を叩き、
『まあ焦りは禁物だ。ところで優、お前今日、大学は？』
「あ、ああ。午後に２コマあるけど……今日はこんな状況だし、柚ちゃんの傍にいるよ」
『そうだな、それがいい。頼むぞ。俺はちょっと出てくる。大学に行って、高橋や田端が来ているか確かめたいし。まあ、昨日の今日だからな。奴らがそんな真面目な学生とは思えないが念のため』
「うん、分かった。でも……なるべく早く帰ってきてくれよ。柚ちゃんが目を覚ます前に」
思わず自嘲めいた笑いが込み上がる。俺は肩を竦めて軽薄を装った口調で、
『俺がいてもいなくても同じだろ？ 何もできないんだから。守ってやることも、子守歌を歌ってやることも』
「同じじゃない！ 三人でいることが何より重要なんだ！」
優、お前はまだ分かっていない。それじゃ駄目なんだ。三人でいれば安心だろうし、心地よいことは認める。
でも俺はいずれ消える。三人でいるこの状況に理想を見い出してはいけないんだ。俺なんかいなくても二人で幸せにやっていける、それが本来のあるべき姿なんだ。
「………たっちゃんが今なにを考えているかは分かるよ、でも………」
『分かっているのなら、ちゃんと汲み取ってくれ。頭では分かっているけど感情が拒んでいる、っつうのは子供の言い訳だぞ』
優は何も言い返せないようで、ただ黙って柚葉の寝顔を見つめている。深刻な空気を肌で感じたのか、柚葉が眉根を寄せてぐずり出した。
『ほら、柚葉が起きちまうぞ。余りでかい声だすなよ。まあ、なるべく早く帰ってくるから。頼んだぞ』
俺は優の返事を聞かずに、さっさと部屋を出ていった。
正直、俺自身もどうしたいのか、このまま現世に留まりたいのか天へ昇りたいのか分からない。
先刻、幸せそうに唇を重ねる二人を見た時に感じた浮遊感。天から降り注ぐ温かな光に包まれた瞬間の俺は、確かに幸せだった。
何の未練もない。心は澄み渡り、魂は歓喜に震え、あらゆる記憶や執着が昇華されてゆく。
この世に生まれ出る前、母親の胎内で幸せな夢を見ていた頃のような安らぎに微睡みながら、俺はこの世に別れを告げようとしていたのだ。
しかし今、こうして再び現世に留まることができてほっとしているのも確かだ。まだ柚葉の傍にいれる、柚葉の顔を見て声を聞くことができる。切羽詰った状況ではあるが、そのことはただ単純に嬉しかった。
俺がいなくても二人で幸せになって欲しい、その想いに嘘偽りはないしそうなるべきだと頭では分かっているけれど、感情がその通りにならない部分もある。
そう、さっき優に対してえらそうに言ったことは、まんま俺自身にも当てはまるのだ。でも―――
『今はそんなこと言ってる場合じゃねえよな』
俺は自分に言い聞かせて、柚葉を成瀬から守る方法を考えつつ大学へ急いだ。
高橋たちのいそうなところ、食堂やら中庭のベンチ、サークルの部室などを見てみたが、彼らの影すらなかった。さすがに、昨日の今日で平然と来れるほど図太くはなかったようだ。
これは俺の勘に過ぎないが、奴らはもう柚葉に対して何もしてこないだろう。それにあのビデオテープ。同封した手紙に奴らの素性も書き添えておいたから、いずれ警察か叔父の勤める新聞社から大学に問い合わせが来るはずだ。
遅かれ早かれ奴らは退学になるだろう。
そう、問題はもはや彼らではない。さらに厄介な敵が現れてしまったのだ。あの成瀬という男を何とか柚葉から遠ざける方法は―――
その時俺は、とんでもない光景を見てしまった。
『な……んであいつが大学に…………』
間違いない、成瀬だ。成瀬が俺たちの大学を堂々と歩いている。しかも隣にいるのは―――
『あれは……柚葉の指導教授………』
四月から柚葉が入るゼミの指導教授である村上教授だ。俺は何かを判断するより先に二人の許に駆け寄り、その会話に耳をそばだてた。村上教授は柔和な笑顔を向けて、
「……では、新年度早々にご参加いただけるということなのですね。いやあ、楽しみだ」
「私もですよ。こちらの優秀な学生諸君とぜひ親交を深めたい。そして３年間の海外生活で吸収してきたものを還元できればと」
「成瀬先生の比較文化論は実にユニークで、私も学ぶところが大きいです。しかも理論だけに溺れるのではなく、彫刻家として文化芸術を生み出す現場にもおられるのですから。海外から戻られたばかりでお忙しいでしょうに、特別講師を申し出て下さるなんて―――」
………何てことだ。奴がさっき扉の向こうで、お前のことなら何でも知っていると自慢げに言っていたのはただのハッタリではなかった。柚葉がもうすぐ村上教授のゼミに入ることを知り、こうして繋がりを得るため動いたのだろう。
柚葉は村上ゼミに入りたがっていたし、教授の人柄にも好感を持っている。きっと楽しみにしていることだろう。なのに成瀬が特別講師として参加しているなどと知ったら―――
「早く学生たちに会って、親しくなりたいですなあ」
「春休みには、親睦を深めるための合宿も予定しています。もしご都合がよろしければぜひ参加して下さい」
「なるほど、泊まりがけで……それはそれは、ぜひ…………」
成瀬は、冬の清々しい空気も腐りそうな爛れた笑みを浮かべて、唇を舐めた。
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