１５.

ライブ終了後、客はみな帰って柚葉と数人のファンだけが残った。差し入れの肉まんとウーロン茶をみんなでぱくつきながら取り留めのないお喋りに興じ、やがて「またね」という素っ気ないけれど親愛の情のこもった挨拶を交わして帰宅の途についた。

「背広着たおじさんが、うんうん頷きながら聞き入ってたよ」
「ホントに？　嬉しいけど、俺の選曲古いかなあ」
『いいんじゃねえの？　若モノに迎合するこたないって。今一番癒しを必要としてるのは、ああいうサラリーマンのお父さんたちなんだぜ』
「たっちゃんだって若者なのに。おじさんの味方なんだね」
「だからプロジェクトＸ見て泣くんだってば」
「そうだったぁ。じゃ俺今度、中島みゆき歌うよ。“かぁぜのなかのすぅばるぅ〜”」
「だめだめ、たっちゃん感極まって泣いちゃうから」
『お前らぁ、二人で俺をからかいやがってぇ』

柚葉を真ん中に、３人並んでぶらぶらと夜道を歩く。楽しくて切なくて、思わず叫び出しそうになる。俺だけじゃなく、たぶん二人もそうだったに違いない。
柚葉はぽつりと呟いた。

「この道がずーっと続けばいいのに………」




ずっと続く道なんてない。マンションに帰り着いた俺たちは、はしゃいだ後の反動ともいえる小さな空虚を抱えて、各々の部屋に戻った。

すると、それと同時に玄関のチャイムが鳴った。俺も優も、すぐに部屋から出て顔を見合わせた。

「こんな時間に、誰だろうね」

俺はもしかして、と思った。果たして、俺の直感は当たっていた。

「優くん、サークルの後輩の女の子が来てるんだけど……」
「え……？」
『沙耶伽嬢だよ。ライブにも来てたんだぜ』
「そ、そうなんだ。気が付かなかった。でもなんでここに……」
「外で待たせたら寒いだろうし、とにかく中に入れるね」

柚葉はそう言って迎えに出ていった。


「どうしたの？　こんな時間に……」

何がなんだか分からず、優はおろおろとした様子で訊ねる。対して沙耶伽嬢はキッと眦を上げて、

「どうしたの、ってそれは沙耶伽の台詞。ライブへ行く前、優先輩の家に寄ってきたの。そしたら引っ越したって。ここに、この人と一緒に住んでるの？」
「うん…そうだよ」
「この人とはどういう関係なの？」
『なんでお前に説明しなきゃなんないんだよ』

優ははっと顔を上げて俺を見た。沙耶伽嬢は不審げに顔を曇らせたものの、追及の強い眼差しを緩めることはなかった。

「んとね、この人は俺の親友…の恋人なんだ。で、訳あって今は一緒に住んでる、というより住まわしてもらってるっていうか……」

柚葉が穏やかな口調で口を挟んだ。

「僕が助けてもらってるんだよ。ここの家賃一人で払うのけっこう大変なんだって言ったら、優くんが協力しようかって申し出てくれて」

柚葉はにこっと笑って優を見た。

『ほら優、話合わせておけよ』
「あ、うん。そうなんだよ」
「そんなの、恋人と一緒に住めばいいじゃない」

柚葉は何か言おうとしたが、淋しそうに微笑んで首を振った。できるものならそうしたい、いや、恋人は今ここにいる。けれど自分には見えない……。

「沙耶伽ちゃん、人にはいろんな事情があるんだよ。あんまり勝手なこと言うのはやめてくれないかな」

俺は優の顔を見た。おお、こいつ怒ってる。それもかなり。

「それに、俺がどこに住もうが君には関係ないだろ？　さあ、もう遅いから帰った方がいい。送っていくから」

沙耶伽嬢は口を開けたまま言い返す言葉を失った。きりきりと引き絞られた瞳孔が、厳しい表情の優に向けられている。

しかし優が立ち上がろうと腰を浮かせると、我に返ったのか激しい口調で噛み付いてきた。

「はっきり言ってよッ。沙耶伽のことムカついてるんでしょ。メンバー取られて。だからそんな嫌なこと言って―――」
「違うって、俺は―――」
「沙耶伽は悪くないもんっ。優先輩がニブいから、ちょっとこらしめてやろうと思っただけで」
「ど、どういうこと……？」

何で彼女が怒っているのか、何が鈍いのか全く理解できない優は、こう訊ねるしかないだろう。しかし優のこの反応は、沙耶伽嬢の怒りをさらに煽った。

「もういい、知らないッ」
「あっ、沙耶伽ちゃん」

涙声で怒りを叩き付けると、そのまま部屋から飛び出した。優は立ち上がって追いかけようとしたが、

「優くん待って、僕が行くよ。今優くんが宥めに行ったら、余計にこじれちゃうだろうから」

柚葉はそう言って安心させるように微笑むと、ゆっくり部屋を出た。

そう、慌てる必要はない。彼女はきっと、追いかけてくるのを期待して飛び出したに違いないのだから。




案の定、マンションのエントランスを出たすぐのところで、俯いて肩を震わせている沙耶伽嬢を見つけた。

柚葉はそっと近付いて肩に手を置く。もったいぶるようにゆっくり顔を上げて振り向いた彼女の顔は、一瞬険しく歪んだ。何で優が来ないの、ということだろう。しかし柚葉は気にせずゆったりと笑って、

「僕でごめんね。優くんはどうしていいか分からないみたいで、おたおたしてたから」
「あなたは、優先輩の何なの？」

柚葉の優しい宥めをうざったそうに払って、噛み付いてくる。このクソ女ぁ〜。柚葉の思い遣りを踏みにじりやがって。

しかしさすが柚葉は苛立った風もなく、ちらと肩を竦めて、

「さっき優くんが言った通りだよ」
「ホントに？　沙耶伽ヘンな噂知ってるのよ。優先輩が違う大学で男を追っかけてたって」
「君はその現場を見たの？　ただの噂でしょ。それに、問い詰められた時に適当な嘘で躱すなんて芸当、あの優くんには無理だってことぐらい、少しでも付き合いがあれば分かると思うけど」

無理だよ柚葉。この女はそこまで優のことを知らない。つい最近までは、自分に惚れてる影の薄い取り巻きの一人、ぐらいにしか見ていなかったんだから。

今だって、自分の所有物だと思っていたものが突然自己主張し出してひとり立ちしようとしている、それが気に喰わないだけなんだ。

黙り込んでしまった沙耶伽嬢に、柚葉は声を撓めて話しかける。

「キツいこと言ってごめんね。君、優くんのこと好きなのかな。だからそんなに僕のこと気にしてるの？」
「……だったら何？」

あーッ、この女どこまで高飛車な態度かますんだ。柚、こんな奴放っといて帰ろうぜ。

「優くんの気持ちをそれとなく探ってみたりとか、そんなことだったら協力できるけど……」
「いいです。言う時は自分で言うし。ただ、私のジャマをしないで。それだけ」

言うが早いか、沙耶伽嬢はカツカツとヒールの足音も険しく、柚葉の前から去っていった。

「なんか凄い子だなあ。ね、たっちゃん」
『まったくだ』

柚葉は俺の返答を確かめるようにぐるりと視線を巡らせると、はーっと溜め息をついてマンションへ戻った。俺も一緒に戻ろうとしたのだが―――

『あ、あれは田端じゃないかっ』

そう、柚葉と別れて駅の方へ向かっていた沙耶伽嬢に、何故か田端の野郎が声を掛けてきたのだ。

『あいつ…何をする気だ』

俺はすぐに追いかけた。




「いきなりごめんね。怪しいナンパとか勧誘とかじゃないから安心して。俺はＴ大の斉藤っていうんだけど、今きみが話してたのって、美並柚葉だよね」
「そう、ですけどぉ」

そうか、田端の胡散臭い爽やかさは、こういう女相手なら効果を発揮するんだな。沙耶伽嬢は余り警戒する様子もなく、素直に頷いた。

「何か揉めてたみたいだったからちょっと気になってさ。あいつ、美並ってかなりタチの悪い奴でさ。昔は男相手の売春もしてたんだぜ」
「う、うっそ……」
「ホントホント。うちの大学の奴ならみんな知ってるって。しかも、いわゆるノンケの男を女から奪うのが楽しいって感じで、あいつのせいで酷い目に遭った女の子もけっこういるんだよ。君は大丈夫？」

てめえ田端ッ、めちゃくちゃなこと言いやがって。呪い殺すぞッ。

「優先輩……」

田端の表情に険しい閃が走った。作り物めいた真剣な声で、

「優って、もしかして後藤優のこと？」
「知ってるんですか？」
「ああ、うちの大学にしょっちゅう来てたから。美並柚葉に手なずけられちまったみたいだなあ」
「そんな……許せない」

許せないのはお前の目の前にいる男だ。そいつの口車に乗せられるなっ……といってもそれは無理な相談だった。
沙耶伽嬢はすっかり田端を信じていたし、柚葉への見当違いな怨みを募らせていた。

「実は俺の昔馴染みの子も彼氏取られちゃって、すっげえ落ち込んじゃってさ。可哀想で見てられなくて。何とか復讐してやれないかって思ってるんだよ」
「私にも、何かできることないですかっ？」
「えっ、協力してくれるの？　ありがたいなあ。頼むよ。改めて、俺は斉藤雄一」
「木下沙耶伽です」

一人前に偽名なんて使いやがって。でも残念だったな。全て俺がお見通しなんだよ。

「それじゃ、近いうちに連絡するから。それまでは動かないでいてね」
「分かりました」

二人は携帯の番号を交換すると、その場で別れた。

『こっちもすぐに動いた方が良さそうだ』

俺は急いでマンションへ戻った。




「あ、たっちゃん、お帰り。もしかして、彼女のこと送ってきてくれたとか。ごめんね」
『まあ当たらずとも遠からず、だな。柚は何してる？』
「お、お風呂に入ってるよ」
『……なんでそこで赤くなるんだよ』
「あ、赤くなんかッ……」

と叫びながらゆでダコみたいになって、額をごしごしと乱暴にこする。

『見たいか？　柚の裸。この世のものとは思えないほど美しいぞー。肌なんて陶器みたいにすっべすべで。仄かにあま〜い香りがして……』
「た、たっちゃんっ。失礼だよ。そんな、柚ちゃんのいないところでイヤラシイ話をして」

この程度でいやらしいなんて、やっぱ世界遺産級の純情チェリーだな。もっとからかって遊びたくなったが、今はそんなことしてる時ではない。

『悪かった。それより、大事な話があるんだ。ちょっと付き合え』

俺は優の部屋で膝を突き合わせて、さっきの出来事の一部始終を聞かせた。話が進むにつれて、優の顔はどんどん蒼褪めていった。

「あの野郎……呪い殺してやるッ」
『それは俺の台詞だ。生きてるお前には、もっと現実的になってもらわなくちゃ困る。お前にしかできないことをやるんだ』

そして俺は、自分の計画を伝えた。優は強張った表情でじっと耳を傾ける。

『できるか？　優』
「うん、できる。必ず、やる」
『お前は、やると言ったことは今まで全部やり遂げてきた。全部。大したもんだ。尊敬するぜ』

優は探るような視線で俺を見つめてきた。

『なんだよ、冗談とかからかいじゃないぜ。お前はすげえ男だよ』
「たっちゃん……」
『柚を、頼むな』

優は瞳をうるうるさせて、俺に抱きつこうとした。もちろん俺は素早くかわしたが。まったく、褒めた途端にこれだよ……。

「柚ちゃんには、言わない方がいいかな」
『そうだな。余計な心配はかけたくない。ただ、あの女には気を付けるよう言っておく必要はある』
「そうだね……あ、ちょうど今風呂から上がったみたいだ」

優は自室を出て共有のリビングへ行った。

「柚ちゃん、今たっちゃんから聞い―――」

優は、言葉を呑み込んで立ち尽くした。

「優くん……？　たっちゃんがどうしたの？」

突然固まった優を、不思議そうに首を傾げて見つめる柚葉。そう、湯上りで、素肌に大きめのシャツ（俺のシャツだ）を羽織っただけの柚葉は、彼の裸を見慣れているはずの俺でさえも息を呑むほど眩しかった。

洗いたての髪からぽたぽたと垂れる雫が、仄かに上気して色づいた肌の上を滑ってゆく。シャツの裾からすらりと伸びた脚はピンクみを帯びた肌色で、ひどく艶かしい。それが潤いを帯びてしっとりと輝いているものだから、男の眼にはたまらんだろう。

「あ……あ、あのあのあの…………」

今こいつをからかうのはちと酷だろう。チェリーボーイ、初めての欲情。

『優、落ち着け。一度腹に力を入れて深呼吸するといい』

優は言われた通り、身体を大袈裟に曲げてすーはーとやった。が、

「駄目だよ、たっちゃん、収まんない……」

申し訳なさそうに小声で告げて、真っ赤な顔ですがるように俺を見た。

『わ、分かった分かった。柚には明日話せばいい。取り敢えず風呂場へ直行して抜け』
「うん……ごめんね」
『いや、さっき変なこと言った俺も悪かった。気にするな』

優は情けない顔で頷くと、前屈みの姿勢で風呂場へ向かった。

「優くん？　ね、たっちゃんは何て言っ―――」

柚葉は追いかけようとした。しかし、

「明日話すからっ。柚ちゃん、今はこっち来るなっ」
「な、なんで……優くん……」

優の拒絶に柚葉はショックを受けた様子で、唇をぎゅっと噛み締めて俯いた。が、すぐにぱたぱたと逃げるように駆けて、自分の部屋へ飛び込んだ。

俺はその後を追いかける。柚葉はベッドに倒れ込んで、枕に顔を押し付けたまま、涙声で繰り返す。

「優くんのバカッ。何だよぉ、突然………」

俺は黙ってそんな柚葉を見下ろした。どうでもいい人間には何を言われても、どんな冷たい態度をとられても平然としている柚葉だった。が、ここまで優の拒絶に傷付くということは―――

『柚葉、お前も優のことが気になり始めているんだな……』

辛くないと言えば嘘になる。俺の柚……。だが、これでいい。この二人が愛し合うのは、たぶん、俺が死んだ時点で決まっていたことなんだ―――そう思い込むしかなかった。

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