１１.
昼の学食。いつも学外の静かなカフェで一人、本を読みながら食事をしている柚葉には無縁のはずの場所で、きょろきょろと誰かを探していた。
目当ての人物はすぐに見つかったようだ。窓際のテーブルで、女の甲高い歓声に包まれてにやにや笑っている男。田端だ。柚葉は臆することなくずかずかと近寄る。
「田端先輩、ちょっと」
「あ、美並さん。わざわざ会いにきてくれたんだ」
女どもの明らさまな敵意のこもった視線を冷たく撥ね付けて、隅に呼び寄せる。そして例の胡散臭いほどに爽やかな笑みを浮かべる田端を下から睨めつけて、
「高橋と何を企んでいるかは知らないけど、いい加減にした方がいいですよ。あいつに伝えといてください。お前の思い通りにはならない、って」
「な、何のことだか……」
みっともなくうろたえる田端。やっぱり、こいつは小物だな。柚葉は、まるでお返しだと言わんばかりの作り物めいた笑みを向けて、
「村上教授って、すごくいい方ですね。僕、村上ゼミにして本当によかったです。それでは」
悔しそうに顔を歪める田端を学食の喧噪の中に残して、去っていった。
「たっちゃん、今も、傍にいてくれてる？」
『いるよ、柚葉』
俺の写真に静かに語りかける柚葉。俺にとって愛しくて切なくて苦しいひととき。必死に言葉を返しても、決して柚葉には届かない、その鉄の事実がきりきりと俺の喉許を締め上げるのだ。
結局俺は、優がいないと何もできないんだ。
柚葉は溢れる涙を拭うことなく、そっと目を閉じた。黄昏に耳を澄ますように。
「………何も、何も聞こえないよ、たっちゃん。なぁんにも。優くんには聞こえるのに、姿も見えるのに。僕には、何も…………ぅ、ぅっ……」
『ゆず、ゆず泣くな。泣くなよぉ……ごめん、俺が、俺が―――』
「ごめんねぇ、きっと僕の愛情が足りないんだ。たっちゃん怒ってる？ 怒ってるよね。傍にいてくれてるのに、僕ってば何にも感じることができなくて」
違う、違うよ柚。何もかもが違う。俺は怒ってなどいないし、お前の愛情が足りないなんて思ってもいない。俺が不甲斐ないばっかりに―――と、俺は胸の裡で繰り返した。もう、言葉に出すのも疲れてしまった。どうせ、俺の言葉は届かないのだから………
『えっ？ ちょ、ちょっと待てよ、おい』
薄くなってる。俺の、俺の身体が確実に薄くなってきたのだ。
やばい、やばいぞ。待てよっ、俺はまだ消えるわけにはいかねえんだっ。柚葉が心からの笑顔を取り戻すまでは、傍にいて見守るって決めたんだよっ。
『嫌だ、嫌だ……助けてくれ、優っ』
―――ピーンポーン
「あ……まさか……」
まさか、優か？ 来てくれたのか？
「はい、どちら様？」
「あの、優です。部屋の片付け、手伝いに来ました」
俺は何故かその時、助かったと思った。優が消滅から守ってくれるという確証なんて何もないのに。しかし実際、俺の身体は再び元通りに戻ったのだ。
柚葉は涙をぎゅっと拭うと、
「暫く、一人にして欲しいんだ……」
「ゆずちゃん……俺、俺……」
今にも泣き出しそうな、嗚咽をこらえるような声で呼びかける優。柚葉は一瞬、辛そうに眉をたわめた。そして、
「優くん、昨日はごめんね。優くんは少しも悪くない。僕の下らない嫉妬心のせいなんだ。きっと、優くんの心が綺麗で澄んでいるから、僕に見えないものも見えるんだろうね。僕は……僕は汚れているから。心も身体も」
「違うよっ、違う。柚ちゃんはとっても綺麗な人なんだ。そんなこと言わないでよ……」
優はとうとう泣き出した。初めて流す、柚葉のための涙。
「ゆずちゃん、一人でいるのは辛すぎるよ。俺、何でもするから―――」
「ごめん、優くん。君といると、自分が惨めになってくるんだ。だから、」
柚葉は大きく息を吸い込んで、はっきりと告げた。
「帰って」
「……分かったよ。力になれなくて、ごめんね」
優の足音が次第に遠ざかる。俺は慌てて後を追った。
『優っ！』
「たっちゃん……」
悄然と肩を落とし、涙で顔をくしゃくしゃにしたまま優は振り向いた。俺は掛ける言葉を見失う。
『優……』
「どうして…俺にだけ見えるんだろ。柚ちゃんはあんなにたっちゃんのこと愛してるのに………」
そしてエレベーターに乗り込み、無言のまま１階へ下りる。
「俺は大丈夫だから、柚ちゃんのとこへ戻ってあげてよ」
『ああ……』
優はたぶん俺に心配かけまいとしたのだろう。笑顔を向けて手を振った。が、それは長くは続かなかった。肩を震わせて俯くと、
「柚ちゃん…“ごめん”だって。何も謝ることなんかないのに……。嘘つきって罵られる方がまだましだよ。俺、ホントに……何もしてあげられな―――」
消え入りそうな声で真情を吐き出して、とぼとぼと帰っていった。
翌日、俺は柚葉を大学まで見送ると、そのまま優の大学へ向かった。柚葉の傍にいるべきか悩んだが、今は優の方が心配だったから。
案の定、優は背中を丸めて一人で構内を歩いていた。
『優、おはよ』
「たっちゃん……柚ちゃんは？」
『普通にガッコ行ったぜ。心配すんな』
優は自嘲気味に口許を緩めて、
「そっか、俺のことが心配なんだね。ごめん。柚ちゃんのことだけでいっぱいいっぱいだろうに、俺まで迷惑かけて………ホント、情けないよ………」
『情けないのは俺だ。優、俺はお前がいないと何もできないし、たぶん存在することすら危ういんだぜ』
「どういう、こと……？」
俺は、昨夜のことを説明した。一瞬身体が消えかかったこと、そして優が来てくれたお陰で元通りに戻れたことを。
『俺だってスーパーマンじゃないんだから、弱気になる時だってあるさ。もう駄目だ、どうせ何もできないんだ、ってな。そんな時お前が、俺をこっちに引き戻してくれねーと』
俺は頼むよ、優、と心を込めて訴えた。優は、俺が一瞬でも消えかかったことがショックだったようで、唇を震わせたまま暫し立ち尽くしていた。しかしゆっくり頷くと、
「うん。俺たちは二人で一人なんだね」
『そうだ。二人で柚葉を守る。そしていつかは―――』
いつかは、優、お前が柚葉のことを愛してやってくれ………。
「たっちゃん？」
『ああ、いや。何でもねえよ。それよりお前―――』
「お、優じゃんか。一人で何やってんだぁ？」
微かに笑いを含んだ声で呼びかけてきたのは、中村を含む優の嘗てのメンバー達だった。例の似非マドンナも一緒だ。「これからスタジオ入るんだ」と言いながら、近寄ってくる。
「優先輩、ごめんねぇ。沙耶伽、そうゆうつもりで言ったんじゃなかったのぉ」
「え？ な、なにが？」
「バンドのこと。沙耶伽も一度ボーカルで出てみたいなぁ、って言っただけで。そしたらね、皆がやろうやろうって。沙耶伽は優先輩がいるんだから駄目だよ、って言ったんだけど……」
他のメンバーは、にやにや笑いながらこのやり取りを眺めている。中村が深刻ぶった声で、
「いや、お前が落ち込んでるみたいだったから、沙耶伽ちゃんが悪がっちゃってさ。彼女のせいじゃないのに。俺らはもともと、お前とやることに不安を感じていたわけで―――」
「ううん。いいんだ、もう」
優はあっさりと答えた。少しの未練も怨みも感じさせない口調。沙耶伽とかいう女はちょっと驚いたようだったが、すぐにまたあの甘ったるい声で、
「先輩落ち込んでるの、やっぱり沙耶伽のせいなんでしょ？」
優はふっと微笑って、
「いや、全然違うよ」
「そ、そうなんだ……」
「それに俺、一人でライブ出ることに決めたから」
これにはみんな驚いたようだ。口々に「本気かよ」と漏らす。
「一人でって、お前一人で何やるわけ？」
「何って、歌うよ。ギター１本あればなんとかなるって」
「……俺らの演奏なんかあってもなくても同じ、ってことか」
中村が、陰険な声で質す。ったく、こいつらホントに腐ってるよな。自意識が強いくせに卑屈で、心が狭くて。優が一緒にやってくれよと泣きついてこないのがムカつくんだろ。
「そんなこと言ったつもりはないけど……。でも、やる気さえあればどうにかなるってことさ。だから沙耶伽ちゃん、俺のことは気にしないで。ライブ頑張ってね」
「う、うん……」
中村はチッと派手な舌打ちを鳴らすと、「行こうぜ」と不愉快そうに告げてどかどかと去っていった。それを黙って見送った優は、
「俺、何か気に障ること言ったかなあ……」
『気にすんな。その価値もねえよ。でも……元はといえば、こうなっちまったのは俺のせいなんだよな』
「ああ、いいんだ。俺ずっと一人だったし。友だちいないの慣れてるから。それに、メンバーの意見に振り回されず好きなことができるのって、ちょっとわくわくするよ。これで、柚ちゃんが見に来てくれたら最高なんだけど……」
『来るよ、柚葉は。必ず来る』
適当な励ましではない。俺には確信があった。
「うん、二人のために歌うよ、俺」
優は嬉しそうに笑った。
「たっちゃん、書けたよ」
『おお、どれどれ―――
“美並柚葉様 前略、突然のお手紙失礼します。このたび、私後藤優はサークルのライブに出演することとなりました。一生懸命歌いますのでどうかお出でください。追伸、私の出演は８時半頃の予定です。１０分ほど前に来ていただければ丁度よいかと思います。後藤優 拝”………』
「ど、どうかな……」
俺は思わず額を押さえた。
『お前な……もうちょっと何つうか、こう、イカした誘い文句書けないわけ？ 君の魂に届く歌を贈るよ、とか、このステージを君が流した涙に捧げるよ、とか―――』
「うわっ、さむい」
『う、うるせっ』
そうは言ってみたものの、あの馬鹿みたいに丁寧で控え目な文面はまさに優そのものだと思った。それに、俺だって柚葉にはイカした台詞言えた試しがない。
「駄目かなぁ」と首をひねる優に、
『いや、それでいいよ、優。お前らしいと言えば言える』
そしてチケットを同封して、柚葉の部屋の郵便受けに入れた。チケットを２枚同封したところも優らしいなと、思わず笑ってしまった。
「ふ、二人で来てくれって意味だよっ」
照れ隠しにむくれてみせる優を宥めつつ、俺たちは外へ出た。
『さて、次は分かってるよな？』
「う、うん……」
『これから俺が言う番号に電話して、ちゃんと予約を取るんだ。俺の知り合いだって言えば大丈夫だから』
「でも、信じてもらえるかなあ」
『この番号は、彼のプライベートな携帯番号なんだよ。これを知ってることが証拠になる。安心しろ』
そして俺は、知り合いの美容師の携帯番号を優に教えた。
彼は、今じゃ死語になりつつあるカリスマ美容師ってやつで、かなり変わった奴だが腕は確かだった。彼に優の髪を切ってもらおうというわけ。
半年先まで予約でいっぱいという超人気美容師だが、俺の名前を出せば何とかなるだろう。
『どうだった？ 予約できたか』
「うん……電話口で泣かれちゃったよ。仕事でパリに行ってる間にたっちゃんが死んじゃうなんて、って。あのさあ、あの人男？」
『おう、れっきとした男だぜ。但し、心は乙女だけどな』
「そ、そうなんだ……」
優は頬を引き攣らせて頷いた。思考停止に陥らない分だけ、以前より成長したとみえる。
俺たちは明日、一緒に彼のもとへ行く約束をして別れた。
「“１０分ほど前に来ていただければ丁度よいかと思います。後藤優 拝”………はぁ、色気のない文章」
柚葉は優の手紙を声を出して最後まで読むと、溜め息をついた。
「でも、優くんらしい………」
『だろ？ やっぱ柚もそう思うか』
そして封筒の中からチケットを取り出す。
「あ…２枚……」
『そうだよ、柚。二人で一緒に行こうぜ』
柚葉は周囲にぐるりと視線を巡らせると、
「ね、たっちゃん、僕どうしたらいい？ 正直、優くんのこと見るの辛いんだ。また嫉妬してしまいそうで」
『柚、行ってやってくれよ。あいつ、髪切るんだぜ。あんなに顔さらすの恐がってたくせに。お前との約束だから、って。そういうひたむきさ、誠実さを受け入れてあげてくれ』
柚葉はじっと虚空に耳を澄ましている。俺の言葉はどうせ届かない。それでも柚葉は耳を傾けてくれている。だから俺は語り続ける。
『あいつもずっと一人で、不器用に生きてきた。人の視線から逃れて。でも今、お前と出逢って変わろうとしている。そう…お前が俺と出逢って変わったように。お前達は離れちゃいけない。お前達は………』
俺は、血を吐く思いで言った。
『お前達は、愛し合うべきなんだ』
言ってしまったら、何だかすっきりしたような気がする。
そして俺は確信した。二人が愛を確認し合ったその時こそ、俺が完全に消滅する時に違いない、と。
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