act.5 【媚薬】
一颯の言葉に、螢はフンと鼻を鳴らし、握られた手を振りほどいた。
「なんだ、男を抱くのは嫌か。でも経験がないわけじゃねえだろ。ファヴェーラで育ったなら、あらゆる種類の快楽はひと通り経験しているはずだ」
螢の言う通り、男と寝たことは何度かある。
「いや、そうじゃない。ケイとヤるのが嫌だから拒否するのではない」
「じゃあ何だ」
「上手く言えないが……俺はケイと、精液だけで繋がるような関係にはなりたくない。ケイにとってあの三人は、生きるために必要な精液の補給源。三人にとっても、ケイは自己治癒能力を維持するために必要な補給源だ。そんな殺伐とした空しい繋がりは……ご免だ」
螢の顔に驚きが広がるのがよく分かった。一颯は湧き上がる羞恥を抑え込み、
「自分が、青臭いことを言っているという自覚はある。けど俺は、救ってくれたあんたとそんな関係に陥るのは嫌だ。精の補給はあの三人で十分だろう？」
「イヌになるのは嫌か」
「ドッグ・ファイトには喜んで参戦しよう。その意味においては、俺はあんたのイヌだ。獲得したファイトマネーも、全部ケイにやる。これまで貯めた金があるから、当分は生活できる。家族のために使うつもりだったが、その家族はもういないからな」
螢は毒々しい嗤笑を顔に張り付け、肩をすくめた。
「なんだ、ソレ。お前、俺と家族ごっこでもする気か」
黒い揶揄に、一颯は真面目に答えた。
「いや。強いて言えば“人間ごっこ”だな」
ファヴェーラチルドレンで刑務所帰りの前科者と、実験動物扱いされたフェアリー。どちらも、世間からまともな人間として見てもらえない。ならば、互いが互いを尊重するしかない。人間らしい関係を構築するしかない。たとえそれが、“ごっこ”に過ぎなくとも。
「……お前、面白いな。悪くない。でも、そんなこと言ってられるのも今のうちだ」
螢の双眸が、妖しく光る。
「そろそろ、かな」
そう言って舌先で軽く唇を湿す螢は、さながら誘惑する楽園の蛇だ。鳩尾の奥がぞわりと顫え、一颯は慌てて目を逸らした。
しかし、すでに遅かった。疾うに搦め捕られていたのだ。螢が放った捕食の甘い罠に。
「がっ……あ、あ……」
それは突然来た。全身を内側から愛撫されるような狂感覚。一颯は両手で胸を掻きむしり、その見えない愛撫の手を取り除こうとした。
むろん、そんなことは不可能だ。どれだけ皮膚に爪立てたところで、傷の疼きすらおぞましい快感に変じてしまう。
「フェアリーの唾液は媚薬そのものだ。そのへんの催淫剤なんかよりずっとキクぞ。特にお前は初めてで耐性が全くないからな。相当ヤバいだろ」
螢の言葉は冷酷なまでに散文的で冷静で、情欲で沸騰寸前の一颯の頭を瞬間的に冷却した。
「唾、液が……」
「ああ。フェアリーが生き続けるため自然と身に着けた能力なんだろうな。キスで男を酔わせるなんて、なかなかロマンチックだろ？」
ロマンチックと形容するにはあまりに直截的な能力ではないか。一颯の股間は隆起しているだけでなく、そこだけ別の意志を持った生物のようにビクビク揺れている。行き場を失った情欲が凝集し、早く犯らせろと喚いているかのようだ。
「なあ、イッサ。ごっこ遊びがやりたいなら、“恋人ごっこ”はどうだ？ 恋人のように抱かれてやってもいいぞ。やろうと思えば、できなくはない」
「やめてくれ……」
「苦しいだろ？ ほら、ここに挿れて扱いて出せば、気持ちいいしすっきりするぞ」
それはあからさま過ぎる誘惑の言葉だったが、容量いっぱいの欲望が今にも溢れようとしている状態には、思わせぶりで遠回しな表現よりずっと効果があることを螢は知っているのだろう。一颯の耳元で囁きながら、自身のかすかな膨らみをぐっと押し付けてきた。
そして腰を揺らす。淫らなダンス。布越しに密着した性器は、螢の動きに合わせてグリッ、グリッと揉まれた。そのたびに、ビリビリと脳天に突き抜ける電流が、一颯の理性を根こそぎ奪ってゆく。
「うあッ……くっそ……」
螢は勝利を確信したのか、駄々っ子を宥めるような口調で、
「お前、もうガチガチじゃねえか。我慢は身体に毒だぞ。面倒な前戯なんて要らねえから、好きなように組み敷いて犯せよ。それで、中で存分に射精すればいいい」
螢は一颯の左手を取ると、自分の尻に導いた。まるで、この中に出せと誘うかのように。一颯は、手のひらに感じる弾力とほのかな体温から、この奥の淫らな器官が与える締め付けと熱を連想せずにはいられなかった。
雄の全てを知り尽くしたそこは、巧みな収縮とぬめりで途轍もない快楽に引きずり込んでしまうだろう。しかし、
「いやだ、こんなのは……！ 俺は、あんたとは……ッ」
螢の肩をドンと突き返して、一颯はその場にうずくまる。耳の奥では血流がごうごうと音を立て、鼻や口は飢えた獣さながらの荒い呼吸を繰り返す。硬いデニム地の下で反り返るものは、すでに限界を超えて生々しい苦痛に喘いでいた。
「頼む、から……出ていってくれ……！」
みっともないとか情けないとか考える余裕もなかった。頭を抱えて哀願する一颯を、螢がどう思ったかは分からない。頑固さに呆れたか、こいつは使えないと見切りを付けたか、バカな奴だと嘲ったか。いずれにしても、今、一颯ができるのは哀願することだけだ。
「出ていってくれ……このままでは、俺はあんたを……」
「だから、好きにやれって」
「いや…だ……！」
一颯はたまらず、床に頭を打ち付けた。額が割れて血が垂れたが、気にする余裕などあるはずもなく。
「……わかったよ。出ていく。後始末は自分でしろよ」
頑固さに呆れつつも、受け入れてくれたようだ。螢は恬淡と言い置いて、一颯を残して退室した。
『媚薬』の効果が消えるまで、たっぷり二時間を要した。一颯は後始末を終えてから、部屋に備え付けのシャワー室を勝手に拝借して水を浴びた。
身体に付着した体液を流すためというより、これまで見聞きしたことを整理するために、一度頭をすっきりさせる必要があると考えたからだ。
螢は『フェアリー』と呼ばれる存在で、自己治癒能力と不老の能力を持つ。フェアリーが己の生命を維持するには男性の精液を定期的に摂取する必要があり、フェアリーと交わった男性も同様の能力を得ることができる。
螢は補給源として三人の男を“飼って”おり、彼らは闘犬（ドッグファイト）でファイトマネーを稼いでいる。どれだけ殴られてもダメージは瞬時に癒えるから、ダウンすることはない。確かに、フェアリーの能力を使って稼ぐ最も手っ取り早い方法だといえる。
螢は以前、フェアリーの能力を調査する実験場（ラボ）にいた。元々ファヴェーラ出身で路上で生活するストリートチルドレンだったが、瀕死の状態で拾われフェアリーにされた。しかし実験場での苛酷な扱いに嫌気が差し、逃げ出して再びファヴェーラに舞い戻ってきたのだ。
「ケイ……」
申し出を断ったことは、後悔していない。今さら不老不死など望まないし、あの三人のように、螢を自己治癒能力の補給源としてしか見なくなるのは絶対に嫌だ。
あの時、螢が銃弾をその身に受けることで救ってくれたのは、イヌにするつもりだったからかもしれない。それでも構わない。救ってくれたことは事実だ。救う価値のある命として扱ってくれたことは事実だ。
これまで誰からも顧みられることなく、生きながらにして死んでいるようなものだった。ゴミ同然の命だった。唯一、家族が生きる目的だったが、もういない。
そんなどん底の闇の中で出会った光。一隅を照らす蛍。目的が見つかったのだ。彼に盲目的に尽くそう。彼のために生きよう。
思考を整理した一颯はシャワー室を出て水気を拭くと、服を着て部屋を出た。隣の部屋を覗くと、充満するアルコールの臭いが鼻をついた。闘いを終えた三人のイヌたちが、勝利の美酒を味わっているようだ。
トバとハヤテは興味津々といった表情で、一颯の方に身を乗り出し、
「なあなあ、君。イッサ、だったっけ？ 変わってるねえ。フェアリーの“提供”を断るなんてさ」
「バカじゃねえの。男とヤるのが嫌なのは分かるけどよ、不老不死の身体になれるチャンスをみすみす逃すなんてよ」
先刻よりも一颯に対する態度が友好的だった。一颯が“提供”を断ったことで、自分たちの取り分が減らないと分かったからだろう。
「ケイから聞いたのか」
「ああ。断られたって言ってた」
「他には、何か言ってなかったか？ その、腹を立てているようなことは」
女王様の申し出を蹴ったのだ。やはりご機嫌は気になってしまう。
「そんな感じはなかったぜ。ただ、あいつはどうしようもないバカだって言ってた」
笑いながら答えるハヤテに、一颯は「ひどい言われようだな」と顔をしかめつつ内心で安堵の溜め息をついた。続けて、
「まあ、な。男と寝るのはどうしても抵抗がある。それより、俺もいずれはドッグファイトに参戦する。闘いのコツを教えてほしい」
一颯は当たり障りのない言葉で会話を繋ぎながら、横目でもう一人のイヌ、トキワを窺った。彼は会話に加わるでもなく、ただグラスを傾けている。眉間に浅い皺が寄っているのは、自分の考えに没頭しているからだろうか。
その顔から感情を読み取るのは難しかったが、二人ほど一颯に対し態度を軟化させるつもりがないのは明らかだった。『一番腹黒い』と螢が評したように、一筋縄ではいかないようだ。
「なんだお前ら。まだ起きてたのか」
一颯が二人から、大して参考にもならない闘いのコツを聞いていると、部屋に螢が現れた。コットンのシャツとパンツはルーズなシルエットで、ニットのロングガウンを羽織り、足は裸足という寛いだ格好をしているにもかかわらず、女王然とした風格は損なわれていない。
媚薬の効果は切れているはずなのに、体内のあちこちで燠火のようにくすぶる欲望の存在を感じた一颯は、慌てて目を逸らした。
そんな一颯の秘めやかな戸惑いに気付いているのかいないのか、螢はずかずかと近づいて、一颯の正面に立ちひと言。
「デコ」
「……は？」
「デコに傷がある。ちゃんと手当てしておけ」
額を触ると、ビリッとした痛みとともに傷らしき隆起が指に感じられた。
「あ…そうか」
一颯は思い出した。螢の“誘惑”から逃れるため、床に頭を何度も打ち付けたのだ。無我夢中だったから記憶から飛んでいたようだ。
「当たり前だが、ここには薬も痛み止めもないからな。自分で用意しておけよ」
「分かった。忠告感謝する」
一颯が深々と頭を下げると、螢の口元がかすかに和らいだ。
「本当に面白い奴だ」
彼は今、笑ったのだろうか。不遜で驕慢な女王には似合わぬ無邪気な笑み。それは刹那の閃きを残して消えてしまったが、一颯の目に灼き付いた。
ほぅっと息をついて、胸の奥で凝った熱を吐き出すと、自分に注がれる強い視線を感じた。何気なさを装って視線の元に目を向けると、敵意を悟らせまいと冷ややかさで蓋をした双つの洞に出合った。トキワの双眸だった。
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