act.4 【闘犬場の女王】
気付けば一颯は、両手をギリギリと握り締めていた。
「そ…んなことが……許されるのか？」
なぜ人間は、同じ人間に対してそこまで残酷に、無関心になれるのか。それは、一颯が物心ついた時から今まで変わらず、心の中にくすぶっている疑問でもあった。
ファヴェーラで生活していた頃、外から訪れた観光客や毎朝東京駅を利用するビジネスマンたちに、何度訊ねてみたいと思ったことだろう。俺とあんた達の違いはなんだ。同じ人間、同じ命ではないのか、と。
いや、訊ねれば大半はこう答えるだろう───もちろん同じ人間で、同じく尊い命だ。そういった善意の市民たちが、ファヴェーラの路上に横たわる子供の死体を平気でまたいだり、写真を撮ってインターネットに公開したりするのだ。
おそらく、そのラボに勤める研究員たちも家庭ではいいお父さん、お母さんなのだろう。遠い国で起こっている戦争や飢餓に心を痛め、寄付などもしているかもしれない。しかし職場では平然と、仕事として、フェアリーの目を抉り腕を斬り落とす。
怖ろしい、心底怖ろしいと思う。人間の負の可能性は底知れない。趣味よりも職務で行う行為の方が、感情を平坦に保てる分、より残虐になれるのだろう。
「……お前、まさか泣いてんのか？」
螢の言葉に一颯は我に返り、慌てて濡れた目尻を拭った。彼には、二度も涙を見られてしまった。恥ずかしさから、ついぶっきらぼうな態度になってしまう。
「悪いか」
「別に。図体はデカいくせによく泣くヤツだ、なんて思ってねえよ」
「………」
苦々しい顔つきでそっぽを向く一颯を、螢は楽しげに見つめる。やがて立ち上がって一颯の隣に腰を下ろし、
「俺も、お前と同じファヴェーラのストリートチルドレンだった」
突然の告白に一颯は息を呑み、螢に向き直った。かすかに翠がかった黒瞳に映る自分は、無防備な驚きをさらしていた。
「ケイ、が……」
「ああ。ツインタワーに家族で“入植”したが、与太者の親父とヒステリーの母親から逃れて、路上で生活していた。まあ、ファヴェーラチルドレンの典型例だ。で、十八の時だったかな、俺を買った男が最悪のジャンキーでサディストで、ほとんど死にかけたことがあった。路上に捨てられ、確実な死が訪れるのを待つだけだった俺を、ラボの人間が拾って実験材料（フェアリー）にしたってわけだ」
一颯は言葉を失った。螢ほど、悪意と残酷と身勝手に翻弄された人生があるだろうか。
「それでまあ、腕を斬られたり、数え切れないほどの男と交合を強制される生活に嫌気が差して、ラボを逃げ出したってわけだ。勝手知ったるファヴェーラに住み着いて、そろそろ半年になるな」
「そうか。ラボの鬼畜どもに捕まらなくてよかった。話を最初に戻すが、イヌになるというのはつまり、あんたから自己治癒能力をもらう代わりに精を提供するパートナーになるということだな」
「まあ、な。けどもう一つ、イヌには役割がある」
一颯が怪訝な表情を浮かべると、螢は立ち上がって時間を確認した。
「もうこんな時間か。ちょうどいい。言葉で説明するより目で見た方が分かりやすい。付いて来い。イヌが闘う時間だ」
もう一つの役割とは何なのか気になるが、一颯は余計な口は挟まず言われた通り螢の後に従った。
長い通路は雑然として、汚れたダンボール箱が積み重なっている。天井には太いパイプのようなものが巡らされ、一颯は頭をぶつけないよう時折屈まねばならなかった。
途中までは三人の“イヌ”たちと一緒だったが、別れて少し進むと、前方から熱気を孕んだざわめきのようなものが伝わってきた。
やがて薄暗かった通路の明度が増し、肌に感じる空気の振動が、この先には大きな高揚が待っていることを教えた。果たして、それは───
「これは……競技場か？」
ぎらつく照明の刺激で鈍痛のともった両目を瞬かせ、一颯は感じたままを言った。とても地下とは思えぬ広い空間には緩やかな傾斜が設けられ、観客なのかすでに大勢が座っていた。
一颯が立っているのは最上部で、客席に沿って視線を下方へ滑らせると、鉄製の柵のようなものに囲われている底面が見えた。一颯は、最初の印象を訂正した。
「競技場じゃないな。これは闘技場か」
「闘犬場だ」
「闘犬場？」
「ああ。闘犬（ドッグ・ファイト）。イヌとイヌが闘う。真剣勝負の殴り合いだ。特に反則もない。ルールを挙げるとすれば、武器を使わない。ダウンしてテンカウントで負け。それだけだ」
話しているうちに、二人の男が出てきた。と思ったらいきなり殴り合いを始めた。レフリーもいない。二人を紹介するアナウンスもない。尤も、あったとしても耳には届かないだろうが。
観客たちが発するのは喚声でも声援でも野次でもない。狂気の発散だ。鼓膜ではなく、直接脳を揺さぶられるような気がする。
「ファヴェーラでは───」
「ああ？！ 聞こえねえよッ」
一颯は腹に力を入れて声を張り上げた。
「ファヴェーラではケンカなんて珍しくもないはずだ！」
「ギャンブルの要素が加われば別だろ！」
一颯は周囲の観客を見渡した。確かに、純粋な娯楽にしては悲愴感が漂っている者が多く見られる。蒼褪めた額、血走ってせり出した眼球。この一試合に全てがかかっているんだと言わんばかりだ。
その時、場内が大きくどよめいた。何事かと闘場に視線を移すと、一人がダウンしていた。
「ナイン！ エイト！」
大きな電光掲示板にデジタル数字が映し出される。カウントが始まったのだ。
「セブン！ シックス！ ファイブ！」
怒号混じりのカウントが全身を突き刺す。進むにつれて熱気が加速度的に膨れ上がり、あっという間に飽和状態となった。行き場を失った熱の塊が、ぐわん、ぐわんと空間ごと揺るがすのが分かる。
「フォー！ スリー！ ツー！ ワン！」
倒れた男は時折苦しげに手足を動かすが、起き上がるのは不可能のようだ。そしてラストの絶叫。
「ゼロ！！」
勝敗が決した瞬間、観客たちが闘場に雪崩れ込む。鉄柵は容易に乗り越えられる高さで、何の歯止めにもならない。
一颯は、眉間に深い皺が寄るのを抑えられなかった。観客たちは敗者に群がり、暴行を加えているのだ。もちろん、ただの腹いせだろう。
「不甲斐ないバトルをすると、ああいう目に遭わされる。ま、あれも込みの余興だ」
「このままじゃ、殺されるぞ」
「問題ない。ファヴェーラでは、“ケンカで”死者が出るなんざ日常茶飯事だ。さ、そろそろ行くぞ」
螢は立ち上がり、客席の間の通路を下り始めた。すると、闘場で繰り広げられる阿鼻叫喚の“余興”に興奮しきっていた客たちの視線が、吸い寄せられるように螢に集中した。一颯はすぐさま後を追い、そっと耳打ちする。
「まさか、ケイも闘うのか？」
「なわけないだろ。闘うのは俺が所有するイヌたちだ」
その時、「あれがクイーン・オブ・ドッグか」という感嘆めいた声がどこからか聞こえた。確か先刻も、同じ言葉を聞いた記憶がある。クイーン・オブ・ドッグ、犬の女王。つまり闘犬場の女王ということだろうか。
確かに、絡み付く数多の視線をものともせず、左袖をはためかせて悠然と歩く彼には、女王の呼称に相応しい風格があった。床を突き刺すようなハイヒールの靴音が、周囲の喧噪を蹴散らすように気高く響く。
「イヌというとあの三人……」
「そうだ」
螢は最前列に用意された席に座った。一颯はその隣に腰を下ろす。するとそれが合図だったのか、二人の男が闘場に現れた。その一人は、螢が所有する三人のうちで最も美形のトキワだ。
「きゃああああッ」
「トキワ様ーーッ！」
途端に甲高い声が方々から上がる。無邪気に聞こえるが、よく耳を澄ますとどこか倒錯した悦びも感じられる。彼を応援しつつも、痛めつけられて苦痛に喘ぐ姿も期待しているのだろう。こんなところに来る女は、やはりまともじゃないということか。
「トキワは顔がいいから女に人気がある」
螢はそう言って、一颯をちらと横目で見た。
「ま、お前も女の人気を集めそうだけどな」
試合が始まると、女性の悲鳴にも似た歓声がより一層激しくなった。二人の戦闘力は見たところ互角。しかしトキワには、螢から貸与されたフェアリーの能力がある。どれだけ殴られても、ダメージは瞬時に回復する。もちろんダウンなどあり得ない。
どちらかといえば細身の精悍な身体で華麗な攻撃を繰り出し、攻撃を受けても平然としている。しかも美形。女性に人気なのもむべなるかなといえよう。
トキワの蹴りを顎に受けた敵手は鮮血を散らしながらダウンし、カウントがゼロになるまで起き上がることはなかった。トキワの勝利。黄色い歓声。
「これが、イヌのもう一つの役割か」
一颯は厳粛な声で呟いた。すでに、覚悟は決まっていた。
トキワの後にハヤテとトバも登場したが、あっさり勝利した。急所に蹴りが入っても平然としているのだから、相手としては勝ちようがないだろう。
当然ながら彼らのオッズは低いだろうが、今夜こそはと高額の配当金を狙って敵方に賭けるある意味真のギャンブラーも多く、三人が参戦する試合は人気が高いらしい。
しかしこれまで負けたことはなく、不敗のイヌを飼う闘犬場の女王として、螢は一部から崇拝に近い扱いを受けているらしい。
「ファイトマネーは折半ということにしている。ちまちま働くよりよっぽど稼げるぞ」
闘犬場から住居に戻ってきた螢は、再び一颯を奥の部屋に呼んだ。
「稼いだ金はもちろん何に使っても構わない。ここでの生活も、試合に出る以外は基本的に自由だ。堅苦しい決まりごともない。フェアリーについて他言は無用。このルールさえ守ってくれればいい。どうだ、悪い話じゃねえだろ」
一颯が頷くと、それを同意と受け取ったのか螢は満足げに目を細めた。そしてソファの上で膝立ちになると、右腕で一颯の頭を抱え込むようにして抱き締めた。
一颯の動揺を愉しんでいるのか、喉の奥からこもった笑いが聞こえる。一颯がゆるゆると顔を上げると、こちらを見下ろす螢と目が合った。
薔薇色に縁取られた双眸はとろりと潤んで、無機的に冷ややかな肌との対照は妖艶美の極致。それがゆっくりと近づくにつれて、異国の花園を想わせる懶惰に甘い香りが鼻をくすぐる。
「あとはひと月に一回、俺と交わればいいだけだ」
脊髄が痺れるような、言葉の媚薬。一颯は何か言おうとしたが声にならず、ぽかんと開いた唇は、柔らかく温かいものに塞がれた。
それが螢の唇だと認識した時にはすでに、口内は濡れた音を立てていた。螢の唇は初めの感触こそ優しかったが、続いて這い入ってきた舌は荒ぶる触手。一颯の肉厚な舌に絡み付き、表面をこすり合わせ、摩擦から快感の熱を生み出そうとする。
混ざり合った唾液はひたすら甘く、一颯は喉仏が卑しく上下するのを意識しつつごくり、ごくりと嚥下した。すると螢はあっさり舌をほどいて唇を離し、片手で器用にシャツのボタンを外し始めた。が、それを制止するように一颯の手が置かれると、不審げに見返した。
「何だよ」
「やめろ。俺はケイから治癒能力をもらうつもりはない」
一颯ははっきり告げると、螢の手を強く握った。
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