act.23 【告白】

初めは遠くでかすかに。しかし徐々に音量が増し、鼓膜をビリビリと刺激する騒音になってようやく、一颯は重いまぶたをこじ開けた。

「な…んだ？　目覚ましか？」

目覚まし時計で起床するなんて久しぶりだ。太陽が天頂に届く頃のそりと起き出す生活になってから久しい。それはつまり、螢と共に過ごすようになってから、という意味だが。

「なんだ、まだ暗いじゃないか。ケイ？」

朝早くここを出立するつもりでいたが、いくらなんでも早すぎだ。夜明け前の、闇が最も濃度を増す時刻だろうと動物的感覚で察知する。果たして、その通りだった。アラームの設定時間を間違えてしまったのか。

「ケイ？」

一颯はもう一度螢の名を呼んだ。隣にあるはずの温もりも、聞こえるはずの寝息も、闇に塗り込められてしまったのか感じることができない。一颯は弾かれたように身体を起こして布団をはねのけ、照明をつけた。明るく照らされた室内の、ぞっとするようなよそよそしさ。

これは初めてではない。ドッグヒルズで螢が三人のイヌに連れ去られた時も、全く同じものを感じた。ということは、つまり、まさか───

「ケイ！！」

心臓を握り潰されるかのような焦燥感に奥歯を噛み締め、一颯は部屋を飛び出そうとした。が、テーブルの上に置かれた数枚の紙に視線が吸い寄せられ、慌ててそれを手に取った。

『イッサへ　必ず最後まで読むこと』と書かれた一枚目をめくると、強い筆圧で書かれた文字が整然と並んでいる。螢の字なんて見たことはないのに、なぜかすぐに分かった。これは間違いなく螢が書いたものだと。


『イッサ、まずは落ち着け。落ち着いて深呼吸しろ。俺は拉致られたわけでも脅されて連れ出されたわけでもない。自分の意思で、ラボに戻ることにした』


「なッ……信じられるかそんなこと！　くそっ、俺が寝ている間に……」


『どうせ、信じられないって息巻いてるんだろ？　お前の反応は手に取るように分かる。でも嘘じゃない。本当だ。なんで俺がこんな結論を出したか、これから説明する。

その前に、大事なことをひとつ。フェアリーから普通の人間に戻る方法が分かったんだ。拍子抜けするほど簡単なことだ。もう一度、血珠の儀式をやればいい。つまりもう一度俺の血を飲めば、お前は普通の人間に戻れる。

手紙の傍に、小さな箱が置いてあるだろう。その中に入っている赤い珠。それを飲め。ただし分かっていると思うが、この形を維持していられるのは一時間だ。俺が珠を作ってその部屋を出たのは午前三時四十分。てことは四時四十分を過ぎると効力を失ってしまう。くれぐれも、忘れるなよ』


一颯は半ば朦朧とする頭を押さえて時計を見た。現在時刻はちょうど四時。その時一颯の頭に真っ先に浮かんだのは、螢がここを出てからまだ二十分程度しか経っていないということだった。すぐに追いかければ……と思い腰を浮かせると、続く文章が目に入った。


『おい、腰浮かせんな。今から追いかければ間に合うとか考えんなよ。とにかくこの手紙を最後まで読め。これは命令だ。読み終わるのに十分もかからないはずだ。それから箱の中の赤い珠を飲む。分かったな、イッサ』


一颯は浮かせた腰を戻し、がくりと項垂れた。行動も心情も全てお見通しというわけだ。

「くそっ、分かったよ。読めばいいんだろう」

一颯は続きの文章に目を走らせた。


『ちゃんと腰据えて読むことにしたな？　よしよし、いい子だ。改めて、俺がなんで一人でラボに戻ることにしたか話そう。この部屋は、すでに奴らに知られていたんだ。けど久能は（ラボの所長だ。覚えてるよな）無理やり拉致るのではなく、俺と話し合うことを選んだ。そして、お前をフェアリーから普通の人間に戻し、俺だけがラボに戻るという提案をしてきた。俺はそれを受け入れたというわけだ』


「な…んでだ。俺だけが自由になっても意味がないだろう！」

二人で捕まった方がずっとマシだ。これは、考え得る最悪のパターンではないか。どんな苦境に陥っても、螢と一緒ならば何とかなる。逆に言えば、螢がいなければ何もかもが無意味なのだ。なのに。


『俺はこれまで、夢を見ていた。お前と一緒にいろんな街を訪ねていろんな景色を見て、終わりの見えない人生を楽しむことができるのではないかと。ごく一部の幸せなフェアリーたちのように、互いを永遠のパートナーとすることができるのではないかと。でもそれは無理だとも、頭のどこかで分かっていた。それを、久能が、あの男が思い出させてくれた』


気付けば、一颯は頭を振っていた。分からない。なぜ無理なのか分からない。自分に何か、足りないものがあったのか。だとしたら、螢ならばそれを指摘してくれたはずだ。


『イッサ、俺はお前に、ひとつ隠していることがある。これまで何度も打ち明けようと思ったが、そのたびに臆病風に吹かれて呑み込んでしまった。結果的に俺は、お前を騙し続けていたことになる。本当にすまない。
イッサ、お前の大事な家族を殺したのは、俺なんだ───


視界がぐにゃりと歪み、全ての文字がゲシュタルト崩壊を起こす。バラバラになったかつて文字だった“もの”が再び意味を持つまでのわずかな間、一颯は確かに狂気の深淵を覗き込んでいた。


───あのツインタワー南棟で起きた大量死。犯人は俺だ。ラボから逃走した俺はあっさり見つかって、連れ戻されそうになった。ところが久能が、交換条件を出してきたんだ。自分の指示に従うなら、ファヴェーラで自由に生活して構わないと。その指示が、ツインタワー南棟の貯水槽に異物を混入させるというものだった。久能ははっきり毒物とは言わなかった。だから俺も、まさかあんな大事になるとは思っていなかった。

……いや、違うな。俺は分かっていた。きっととんでもないことになると分かっていたんだ。でも俺は、目の前にぶら下げられた“自由”というエサの魅力に抗えなかった。ラボにはもう、二度と戻りたくなかった。人間らしい生活がしたかった。だから俺は敢えて思考を閉じ、久能の手先となることを選んだ。指示通りに実行したんだ。

なぜ久能があんなことを俺にさせたのか、裏にどんな謀略が潜んでいるのかは未だに分からない。というより、理由や動機を追及する余裕なんて俺にはなかった。自分の行動が招いた結末、そのあまりの重大さ、惨たらしさに半ば呆然として、しばらくは文字通り起き上がれなかった。そして、事件からひと月半ほど経ってようやく日常を取り戻した頃、イッサ、お前と出会ったんだ。

お前が大量死事件の遺族だと、すぐに分かった。黒いビニール袋を大事そうに抱えて、踏みにじられた花の前で泣いていたな。正直、俺が一番見たくない光景だった。こっちはやっと立ち直りかけたとこだったのに、神様ってのはこんな残酷な仕打ちをするのかと思ったよ。もっともっと苦しんで、懺悔して、自分が何をしたのか思い知らねばならない、そう言われているようでな。

俺は目を背けて立ち去ろうとした。すると男が二人、お前に因縁つけて近づいてきた。さらに銃を突きつけて脅したが、お前は怯む素振りすら見せなかったな。ああ、こいつはとうに命を捨てているんだ、あの事件で家族か恋人か分からねえけど、大切な人を喪って絶望し、生きることをすでにやめてしまったんだ。そう思った瞬間、俺は銃口の前に飛び出していた。

なぜかは今でも分からない。せめてもの償い、俺が奪ってしまった命の代わりに救おうとした、そう言えば格好がつくかもしれないが、そんな気は毛頭なかった。ただ俺は、お前に生きてほしいと思った。名前も知らぬこの男を、絶対に死なせるわけにはいかないと思ったんだ。

お前は俺に救われたと、俺を命の恩人と思ってくれたようだがとんでもない。うまく言えないが、お前に救われたのは俺なんだよ。お前の真っ直ぐな、バカみたいに真っ直ぐな気持ちを受け止めるたび、俺は自分の中に溜まった汚れが少しずつ洗浄されて、身も心もきれいになっていくような錯覚に溺れた。お前にしたらふざけんな、だよな。家族を殺しておいて、なに寝ぼけたこと言ってやがる、って。はは、そりゃそうだ。

これが、俺がお前とは一緒にいられない理由だ。ずっと黙っていて悪かった。本当はこんな手紙じゃなく、顔を合わせて謝罪すべきなのだろうが、さすがにそれはつらい。臆病で卑怯で自分勝手な人間、いや、化け物。それが俺だ。女王でも何でもねえよ。お前も、嫌というほど分かっただろ？

家族の仇を討ちたいと思うかもしれないが、これから俺はあのラボで、これまで以上に酷い目に遭わされるだろう。せめてそれで溜飲を下げてくれないか。十分な罰になるはずだ。

さあ、イッサ。箱を開けて中のものを飲むんだ。そして新しい人生を歩んでくれ。お前ならきっと幸せになれる。ハンサムで料理上手で誠実な男を、女が放っておくはずないからな。

今までありがとう。そしてすまなかった。

ケイ』


一颯は箱に手を伸ばした。蓋を開けて、指先で赤い珠をつまむ。それはほのかに温かく、まるで鼓動しているかのようにちかちかと輝いている。まさに命そのものだ。

「新しい……人生を……」

一颯はそれを暫し眺めていたが、やがてゆっくりと唇に近づけた。

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