act.18 【海辺の街】
「うわ、風が生臭い！」
「ケイ、せめて潮の香り、と言ってくれないか」
「おおそうか。これが潮の香りってやつか」
駅に降り立った螢は、初めての経験に興奮している様子だった。しかし一颯は、そこまで無邪気になれなかった。
これからどうするか。まずは今夜の宿だ。それから、住む場所を探さねばならない。廃ビルに勝手に住み着くわけにもいかない。ここはファヴェーラではないのだ。
部屋を借りればいい話だが、面倒な手続きや審査があることは、一颯も知識として知っていた。保証人が必要なことも。自分だけなら労働者向けの簡易宿泊所で構わないが、螢が一緒なのだ。彼をそんな場所に連れていくなんて、想像するのもご免だ。
「イッサ、海が見たい」
螢の要求はできる限り叶えたかった。しかし今回は状況に対応することを優先させねばならない。
「海は明日だ。だいいち、もう暗い。まずは今夜の宿を探す」
「宿なんていらねえよ。適当にその辺で寝ればいい」
「ここはファヴェーラではないんだぞ。すぐに通報されて警官が来る」
螢はむぅっと膨れて黙り込んだが、ファヴェーラ外では一颯の言う通りにした方が賢明だと思い直したのだろう。いかにもしぶしぶ、といった感じだが聞き入れたようだ。
「……腹減った。宿を探す前に飯食いたい」
確かに、列車の中でサンドイッチを食べただけだった。すでに夕食の時間だ。
「分かった。では先に飯にしよう」
駅の周辺にはいくつかホテルがあった。ラブホテルも含まれるが、いざとなれば螢に女性のふりをしてもらって泊まるという選択もある。
「よっし！ ならあっちの方に行ってみようぜ。なんか賑やかだ」
率先して繁華街の方へ向かう螢を、一颯は止めることができなかった。
本当は、駅から少し離れた静かなレストランに入りたかった。時刻は6時過ぎ。工場や作業現場で働いていた労働者たちが、安酒を求めて一斉に街へ繰り出す時間だ。
毎晩どこかで酔っ払い同士の小競り合いが起こり、道端には毒々しい化粧を施した国籍不明の女が立つ。ファヴェーラのイカレ具合とはまた違った悪環境から、なるべく螢を引き離しておきたい。
しかし、海を見たいという螢の望みをはね付けたのだから、あとは自由にさせてあげたかったのだ。
「なあ、いい匂いがする。あの店に入ってみようぜ」
螢が選んだのは焼き鳥屋だった。入り口は全開にしており、店の外にもテーブルを出して飲ませている。店内はそこそこ広いがカウンターのみ。この界隈ではよくあるスタイルだ。
「ああ、いいんじゃないか」
すでに客は多かったが、時間が早いせいかまだアルコールの侵食は浅かった。みな、食べることに精を出している。一颯は安堵の息をついたが、店内に足を踏み入れてすぐに自分の甘さを思い知った。
一斉に集中する視線。ある者はグラスを傾けたまま、ある者は焼き鳥の串を咥えたまま、濁った目を見開いて螢を凝視する。
彼がどれほど目立つ存在か、衆目を惹き付ける磁渦そのものであるか、今さらながら再認識する。店に入る前にあの派手なコートは脱いでいたが、それで螢の威容が些かも損なわれることはなかった。
左袖を翻し、ヒールを鳴らして店内を闊歩する。クイーン・オブ・ドッグの異称はもはや意味をなさないが、それでも彼は女王だった。隻腕の、気高き女王。
「……ケイ、やっぱり出よう」
一颯が低い声で囁くと、螢は眉間に浅い皺を寄せ、
「なんでだよ。焼き鳥食いたい」
「もう少し清潔な店にしよう」
「何言ってんだ。ファヴェーラのゴミ溜めに比べたら花園じゃねえか」
螢は意に介さず、空いている席に座る。一颯も仕方なく隣に腰を下ろしたが、あちこちから「よそ者だな」「女か？ 男か？」「剥いてみりゃ分かるぜ」などと聞こえてくる囁きに神経が尖り、食欲も失せてしまった。
螢はというと、一颯の分までてきぱきと注文し、焼酎のグラスを旨そうに傾けている。
「よお、ねえちゃん。あんた、ここらの人じゃねえな」
隣の男が身を乗り出して聞いてきた。酒臭い息が一颯にまで届く。しかし螢はさらりと、
「ねえちゃんじゃねえよ。男だ」
「そりゃ失礼。そんな女みたいな靴履いてるからてっきり」
「かかとの高い靴履くと、自然と背筋が伸びるんだよ。気持ちいいぜ。おっさんも一度履いてみろよ」
「俺がぁ？ 冗談だろ」
「ああ、冗談だ」
螢はそう言って不敵に笑い、グラスを男のグラスの縁にカツンと合わせて残りを一気に飲み干した。
「……あんた、スカした奴かと思ったが案外面白いな。それにずいぶん色っぽい」
「褒め言葉と受け取っておくよ」
二杯目を呷る螢の横顔に、男の視線が注がれる。それが淫蕩な粘り気を帯びてきたことに、一颯は敏く気付いた。
いや隣席の男だけではない。螢に集中していた全ての眼差しが、色を変え始めていた。
確かに、アルコールを摂取した螢の肌は血色と湿りを帯び、微かに潤んだ双眸は男を誘うようにとろりと光る。酒に強い螢がこの程度で酔うことはないだろうが、アルコールがもたらす体温の上昇は確実に、甘い何かを分泌していた。
注文した物を全て平らげたタイミングで、一颯は席を立って勘定を頼んだ。
「なんだよ、もう少しゆっくりしようぜ」
案の定、螢は不満げだったが、一颯は聞き入れず手を引いて店を出た。客たちもまだ酔いが浅いうちだったから何事もなく済んだが、夜の進行とともに酔いが深まればどうなっていたか分からない。
「ケイ、あんたは目立ちすぎる」
抗議めいた言葉が、口をついて出る。螢は陰惨に笑い、
「左手のない、片輪だからか」
「違う！ いや……確かにそれも、ある。でもそれを遥かに凌いで人の目を惹くものが、ケイにはあるんだ。抗えない魅力が」
「ったく、恋する真面目男は手に負えねえな。フィルターかかりすぎだろ」
それは、違う。自分は螢の魅力に溺れているかもしれないが、客観的な目は保っているつもりだ。要所要所で的確な判断をするためにも、客観的な目は失えない。
「何とでも言ってくれ。ともかく、ここはファヴェーラとは違う。厄介事に巻き込まれても、ファヴェーラなら非合法的手段で収めることができる。しかしここでそれは通用しない。ファヴェーラより慎重に振る舞う必要があるんだ」
一颯は“慎重に”を強調して言った。すると螢は肩をすくめ、
「分かったよ。ファヴェーラしか知らない俺は、ここでは赤ん坊のようなものだからな。一颯の言う通りにしてやるよ」
「ありがとう」
一颯は頭を下げて礼を言い、そっと手を差し伸べた。螢は小さく頷いてその手を取ろうした、その時。
「おい、一颯じゃねえか！」
いきなり大声で呼びかけられ、一颯はきつく眉根を寄せた。そして声の主を睨む。
「お前は……」
日雇い派遣の寮で一緒だった男だ。名前などもちろん忘れてしまった。というより、当時から名前など知らなかったかもしれない。
「相変わらず怖え顔してんなあ。お前、いきなりいなくなったからびっくりしたぜえ。またこっちに戻ってきたのか」
「……まあ、そんなところだ」
男は単純に喜んでいるようだが、一颯としては一刻も早く男と別れたかった。なぜなら、
「おい、どえらい美人連れてんな。俺にも紹介してくれよお」
自然と舌打ちが出る。予想通りの展開だ。
「悪いが、今夜の宿を探さないといけない。また今度にしてくれ」
一颯はそう言ってさりげなく螢の肩を抱いた。しかし男は執拗に食い下がる。
「冷たいこと言うなって。ちょっとぐらいいいだろ。話させてくれよ。なあ、美人サン」
男は螢に手を伸ばし、左腕を掴んだ。正確には、左腕があるはずの場所だ。しかし袖の中は空っぽ。男は掴んだ手を離さず、
「なんだあんた。手ぇケガしてんのか？ 可哀想に」
労わりを込めようとしたようだが、顔には卑屈な笑みが張り付くばかり。日ごろ、他人を労わるという経験がないせいだろう。すると螢は男を一瞥し、
「いや。腕がない。ここから」
淡々と答えて、自分の肩を軽く叩いた。
「えっ？ あ、いやあの……そ、そうなんですか……」
一気に酔いが醒めたらしく、掴んでいた螢の袖を慌てて離して何度も頭を下げる。
「ついでに言えば、俺は男だ。さっきも店でねえちゃんに間違われた」
男は二度目の「えっ？」を口から吐き出し、螢をまじまじと見つめた。不躾な視線だったが、螢が怒りや気後れを露わにするはずもない。堂々と受け止めて「そんなに驚くなよ」と不敵に笑う。
「さ、もういいだろう。行くぞ」
一颯が会話を引き取り、今度こそ男の前から去ろうとした。しかしまたしても男が引き止める。
「なあ、もし長期間滞在するつもりなら、いい所紹介してやるぜ」
「けっこうだ」
「そう言うなって。話だけでも聞けよ。俺の知り合いなんだけどな、長期の住み込みの仕事が入って暫く部屋を空けてるんだよ。半年は戻ってこない。で、俺がたまに掃除しに行ってんだけど、そこに住まないか？」
確かにありがたい申し出だが、一颯は断るつもりだった。誰かの世話になる、借りを作るのは避けたかったのだ。しかし、
「いいじゃねえか、イッサ。そこにしようぜ」
「いや、でも……」
螢の同意を得て勢いづいたのか、男は馴れ馴れしい口調で、
「部屋を借りるのもいろいろ面倒だぜ。審査もあるし保証人もいる。お前みたいな前科者に喜んで貸す不動産屋なんていねえぞお」
螢が驚くのが気配で伝わった。そう、彼にはまだ話していなかったのだ。余計なことを言うなと男を締め上げようかとも思ったが、敢えて騒ぎを起こすのは得策でないと計算が働いた。
それより、男の言うことも尤もだった。ファヴェーラ出身の前科者が部屋を借りるのがどれほど難しいか、一颯は嫌というほど知っている。
「ともかく、どんな部屋なのか見せてもらおうぜ。それでどうするか決めたらいい」
「……分かった」
螢の提案を受け入れる形で、二人は男の知り合いの部屋に向かった。男は入江と名乗り、かつて一颯が住んでいた派遣業者の寮にまだ住んでいると言った。
「このアパートだ。二階の角部屋」
話では築年数がかなり経過した古いアパートとのことだったが、外壁を塗り直したのか古ぼけた感じはしない。初めは渋った一颯だったが、この時点で乗り気になっていた。というのも、繁華街から離れた閑静な住宅地だったからだ。
螢は螢で、一颯とは違った理由でこの場所を気に入ったようだ。
「波の音が聞こえる……！ もしかして、海が近いのか？」
「ああ。歩いてすぐだ」
「やった！」
無邪気に喜ぶ螢は、今にも『ここにしよう』と言い出しそうだ。一颯は苦笑を呑み込んで、外付けの階段から二階へ上がり、入江が案内する部屋の中に入った。
「……悪くないな」
広さはドッグヒルズに遠く及ばないが、清潔で私物がほとんどないのが気に入った。
「イッサ！ キッチンがあるぜ」
「普通あるだろう」
「そうなのか？」
どうやら螢にとって、キッチンの有無はかなりの重要事項らしい。それは、一颯の手料理に対する期待度に比例しているのだろう。“参ったな”とぼやきつつ、嬉しさを噛み締める。
「部屋の広さに割には立派なキッチンだな」
「一人暮らしというより、若い新婚夫婦向けの部屋らしいからな」
入江の言葉に妙な含みはなかったが、一颯と螢の関係をどのように推測しているのかは分からない。尤も、何と思われようと構わなかったが。
「ケイ、どうする。ここにするか？」
答えは分かっていたが、一応伺いを立てる。窓を開けて潮風に当たっていた螢は振り向き、
「毎日海に行けるな」
「ああ、そうだな」
一颯は笑み含んだ声で答えると、入江に了承を伝えた。すると入江は急にこちらの顔色を窺うような卑屈な表情を浮かべ、
「そりゃあよかった。なら……家賃はひと月5万でどうだ？」
「お前……他人の部屋を勝手に貸して家賃を取るのか」
「そ、そしたら3万でいい！」
一颯は憮然として黙り込んだが、実際は家賃を払った方がいいと思っていた。タダより高いものはない。金さえ払っていれば、後になって恩を着せられることもないだろう。
「分かった。なら3万5000円払おう」
「いいのか？！」
「ああ。紹介料込み、だ」
入江はあからさまな喜色を浮かべ、その場で支払った一颯に何度も礼を言った。そして部屋の鍵と自分の連絡先を置いて、出て行った。
「……なあイッサ。波の音って眠くなるな」
そう言う螢は、窓辺でうとうとしていた。一颯は苦笑を浮かべ、
「そんなところで寝たら風邪をひく。ベッドに行こう」
「ん……」
夢うつつで頷く螢の身体を抱き上げ、両腕にかかる重みに一颯は誓った。この街で、必ず、螢を幸せにするのだと。
未来を真っ直ぐ見据える一颯は、後方から近づく影に気付くことができなかった。
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