act.16 【幸福の重み】
そうか、幸福とは重いものなのだ。
これまでの生で全く縁がなかったから、幸福というのは眩しくて軽やかなものだと漠然と思い込んでいた。
しかし初めて実感して分かった。幸福は重い。全身にずしりとのしかかる甘い重量感。この重みは即ち、生きることや命そのものなのかもしれぬ。
確かに、幸福を知らぬまま生きてきた今まで、自分の命は酷く軽かったように思う。何となく生きているだけ。いつ死んでもいい。それが幸福を知ったことで重くなったのだ。
一颯は今、微睡みながらそんな重みを感じていた。
ああ、幸せだ。しかしそれは徐々に圧迫感へと変わり───
「うう、くるしい……」
苦しさからはたと目を開けると、しなやかな腕に首を絞められていた。
「起きろ、絶倫」
一颯は『降参』の意味を込めて腕を軽く叩いた。腕がするりとほどかれ、復活した自由な呼吸を享受しつつ一颯は深く息をついた。
「起きたか、絶倫」
一颯は声のした方にゆっくり顔を向けた。大きな枕の上に肘をついて、螢がこちらを真っ直ぐ見つめている。一颯は、先刻とは異なる色の溜め息をついて、
「絶倫、はやめてくれ」
「絶倫だから絶倫て言っただけだ。まさか否定するのか？ ああ？」
「………」
口ごもる一颯。確かにそう言われても仕方はないかもしれない。昨夜はベッドの上で、それこそ体液をどろどろに混ぜ合わせるような激しい交合に耽った。
そのあと風呂で身体を流し、さっぱりして眠りにつくはずだったが一颯の情欲は鎮まらず、ベッドに入ると同時に二回戦へ雪崩れ込んだ。で、空が白んできてようやく欲望の矛を収めたという顛末。
さすがの螢もへろへろで声はガラガラ。倒れ込むようにして寝落ちした。
「いや、確かにゆうべはその……やりすぎたかもしれんが……」
絶倫に異議があるというより、初めて愛し合った夜が明けて、同じベッドで目覚めるというシチュエーションには、もう少し色っぽい言葉が相応しいのではないかと思ったのだ。
しかし一颯は黙り込んだ。そんなことを言おうものなら、図体はデカいくせにスーパーロマンチストかと、またからかわれるに決まっているからだ。
「全くだ。ぱっと見はストイックな野武士なのに、どんだけセックス好きなんだよ」
「別にセックスが好きなわけではない。ケイと愛し合うことが───」
「ああ分かった分かった」
うるさそうに遮った螢の、次の言葉に一颯は固まった。
「ったく、まだお前が中にいるみたいだ」
さらりと放ったひと言のつもりなのだろう。それにどれほど淫らな含蓄があるか、言った本人は分かっていないに違いない。
「ケイ、この状況でその言葉は……誘っているに等しいぞ」
「は？ ナニ言って───」
その困惑ごと螢を抱き締めて、一颯は熱い吐息混じりの囁きを耳に流し込んだ。
「俺がまだ中にいるみたいなのか？ つまり疼いているのか？」
一颯がなぜ興奮したのか朧げながら気付いたのか、螢はすぐさま否定した。
「そういう意味じゃねえよ」
「ケイ、挿れたい……」
「却下だ！」
ごん、と頭突きをして抱擁から逃れた螢は、身体を起こして一颯を睨み、
「そういやイッサ、ゆうべはちゃんと俺の精液を摂取したか？」
一瞬、なぜそんなことを聞くのか分からなかったが、すぐに思い出した。一颯は正直に首を振る。
「いや、すっかり忘れていた。行為に没頭していたからな」
螢は厳しい顔つきで忠告する。
「忘れるな。一カ月、一カ月だぞ。精液を摂取しなかったらお前はガチで死ぬ」
「それは分かっている。次の機会に摂取すればいいだろう？ まさか……次は一カ月後のつもりだったのか？ ひと月に一回しかしない……のか？」
みるみるうちに萎れる一颯に、厳しさを保っていた螢の表情が和らいだ。
「しょげるなよ」
「それは無理だ」
「ひと月に一回じゃ不満か？」
「不満というより、さみしい」
一颯の返答に、螢は笑いをこえらえながら、
「さ、さみしい、ってお前……」
「何が可笑しいんだ。俺は気持ちを正直に───」
「分かった分かった」
宥めるように遮って、螢は一颯の首に腕を巻き付けた。そして裸の胸を密着させ、
「またしてやるよ。近いうちにな。その時は忘れんじゃねえぞ。大事なことだからな」
「……今からは」
「それは却下だ」
螢は即答を返すと、ベッドから飛び下りて不敵に笑ってみせた。一颯は失われた温もりの余韻を追いかけつつ、螢に視線を向けた。
生まれたままの姿を惜しげもなくさらす螢。その左腕は肩の下で途切れている。こうしてまじまじと見つめるのは初めてだったが、そこに“喪失”を物語る悲愴感はなく、驚くほどあっけらかんとした光景だった。
それは螢が全てを受け入れているからこその自然体なのだと分かってはいるのだが、一颯は訊かずにはいられなかった。
「……ケイ、義手を着けようとは思わなかったのか？」
片手で器用に下着をつけた螢は振り向いて首を傾げ、
「義手？ 必要ねえよそんなの」
「しかし不自由だろう？」
「ま、一本より二本あった方が便利かもしれねえけど。でも不老不死になったんだから、このくらいの欠損があってちょうどいいんじゃねえか？」
意外な言葉に一颯が眉根を寄せると、螢は軽やかに笑った。
「何かを得れば何かを失う。そうやって、神様だかなんだか知らねえけど、バランス取ってんだろ、きっと」
「しかし、不老不死はケイが望んだことではない。意思に反して半ば無理やり押し付けられた能力ではないのか」
反論しながらも一颯は分かっていた。螢はそういうことを言っているのではないと。個人の意思や思惑を足下にした遥か高みにいる存在の采配を、彼は感じているのだ。
一颯の予想通り、螢はちらと肩をすくめ、
「俺は望んじゃいないが、あの三人みたいに何としても手に入れたいと思うヤツだっている。瀕死の重傷を負った子を持つ親なら、自分の腕を差し出してもいいからフェアリーの能力を与えてくれって懇願するはずだ。俺はフェアリーの能力を得た。望むと望まざるとにかかわらず、それは事実。あとは主観の問題だ」
是が非でもフェアリーの能力を欲しがる者は確かにいるだろう。フェアリーの能力それ自体は、善でも悪でもない。
しかし螢はまさに、その能力がために腕を失い、不自由を強いられてきたのではないか。それは、“主観の問題”で片付けられることなのだろうか。誰かを恨んだり憎んだりはしなかったのだろうか。
「ケイ……」
あなたはそれで納得できるのか？ そんな問いを差し出そうか迷っていると、螢の鼻歌が耳に届いた。懐かしく軽やかな、それでいてどこか憂愁を感じさせるメロディ───
「ケ セラ セラ……」
思い出した。『Que Sera,Sera』。確か古い映画の主題歌だったはず。
気にしてもしょうがない
なるようになるさ
明日のことなんて誰もわからない
気にしてもしょうがない
なるようになるさ
一颯はベッドから下りると、鼻歌を歌いながら着替えていた螢を抱き締めた。愛しいとか切ないとかそんな感情より先に、胸が苦しくてたまらない。
「どうした？ イッサ」
問いかける螢の声は、限りなく優しい。その優しさが、一颯の苦しさを増幅させた。
誰かを恨むことも憎むこともせず、全てを受け入れて生きる。ケ・セラ・セラ。気にしてもしょうがない。そのひと言で、あらゆる屈辱も理不尽も苦悩もさらりと受け流してきたのだろう。
裏を返せば、そうするしかなかったのだ。自己憐憫や自己卑下に陥らずに、顔を上げて気高く生きるためには。
「俺が……ケイを幸せにする。必ず」
「なんだソレ。まるでプロポーズだな」
「そう受け取ってもらって構わない」
「真っ裸でプロポーズとか聞いたことねえよ」
そう言われて初めて、自分が裸のままだったことに気付いた。
「確かにそうだ。では後で改めて、タキシードを調達してこよう」
「お前、真面目なのか不真面目なのか分からねえな」
「いたって真面目だが」
と、真面目な声で返すと、螢がぷっと吹き出した。
「だよな。お前はいつだって真面目だ。飯を作る時も、ドッグファイトで闘う時も、俺を抱く時も」
「真面目でないというのがどういうことなのか、俺にはよく分からない。もし息苦しさを感じさせているのなら、すまない」
言い終わるとほぼ同時に、螢が下から唇を重ねてきた。不意打ちのキスは愛撫にも似た優しさで、一颯の心を甘く蕩かした。
舌先を軽くじゃれ合わせ、熱い吐息を交換する。舌を絡めることなくそこで踏みとどまったのは、それ以上の激しさは不穏な熱を呼び寄せると分かっていたからだ。もちろん、この甘やかな触れ合いだけでも一颯の情欲を揺り動かすには十分なのだが。
どちらからともなく口づけをほどくと、舌先を繋ぐ細い銀糸が微かに光った。一颯は軽く唇を合わせ、それを吸い取る。
「……ケイ、今のはどういうキスだ？」
無邪気に訊ねると、螢は顔をしかめた。
「キスに意味なんてあるのか」
「ないのか？」
「知らねえよ。自分で考えろ」
ふいっと背中を向けて行ってしまった螢は、少し怒っているようだ。置いてけぼり状態の一颯はその場に立ち尽くす。どうやら無神経なことを聞いてしまったようだと気付き、謝ろうか迷っていると螢が戻ってきた。手には服らしきものを持っている。
「ほら、ヤツらの置いてった服だ。取り敢えず着ておけ。いくらファヴェーラとはいえ、あの血塗れの着て外に出るわけにもいかねえだろ」
「あ、ああ」
言われた通り、渡された服に袖を通す。若干サイズが小さかったが着用できないほどではなかった。
「よし。それじゃ、ここともおさらばだ」
螢が清々した口調でそう言うのも分かる。一颯も昨日までは、一刻も早くこの部屋から、あの三人が螢を“飼って”いた部屋から出たいと思っていた。しかし、
「少し、名残惜しいな」
「あ？ 何でだよ」
「いや、その……。初めて螢と愛し合った部屋だからな。思い出が───」
一颯は途中で気付き、すぐに口を閉じた。しかし時すでに遅し。
「ほんっとにお前はスーパーロマンチストだな」
やっぱり。からかわれると思ったのだ。
「男はみんなロマンチストだ」
「お、居直りやがったな」
「放っといてくれ」
「怒るなよ」
「怒っていない」
ぶっきらぼうに答えて背中を向け、部屋の出口に向かうと、ぱっと手を握られた。
「思い出なんて過去のものだ。これから味わう悦びの方がずっと価値がある」
螢はそう言って、握る力を強め、
「幸せに、してくれるんだろ？」
嗚咽をこらえて何度も頷く以外に、一颯に何ができただろうか。二人は手を繋いだまま部屋を出て、新たな一歩を踏み出した。
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