Cinderella
―幸せになる方法―
２.
案内人の導きに従って長い廊下を歩いてゆくと、華やかな音楽が聞こえてきました。と同時に芳しい馥りが漂って、鼻孔を甘く酔わせます。
そして舞踏会の舞台である大広間に足を踏み入れた途端、光の洪水に襲われて軽い眩暈を覚えました。
純はよろめきながらもゆっくり進んでゆきます。一歩、また一歩と進むごとに周囲から溜息とも感嘆ともつかぬ声が沸き上がり、広間の高い天井を揺らしました。
しかしそんな周囲の狂躁になど気付かぬ純は、ようやくハレーションが収まった視界の観察を始めました。
高い天井から無数のカットガラスを鏤めたシャンデリアが吊り下がり、複雑な光の綾を生み出しています。白い大理石の床にはラピスラズリや黒曜石、翡翠、瑪瑙などで世界地図が描かれ、その上で着飾った紳士淑女が踊っています。
花瓶に生けられた色とりどりの花々は、全て宝石で拵えられた造花。天井まで届く大きなクリスマスツリーには無数の天使が連なって、来客たちを祝福しています。異国風の瓶には七種の酒がなみなみと注がれ、甘い醺香を放っておりました。
揃いのお仕着せをまとった楽団は、メヌエット、ガボット、ロンドと次々演奏し、褐色の肌の奴隷たちは香炉に甘松や肉桂の粉を投げ入れます。
ああ、何という光景でしょう。これぞ贅の極み。丘の下から見上げるばかりだった世界が、今、目の前に開かれているのです。
純は胸にそっと手を当てました。そして自分に言い聞かせます。これが夢見ていた世界なんだ、と。しかし―――
「これを……求めていたの……？」
純は弱々しい声で呟くと、胸に当てた手をだらりと下ろしました。手のひらに伝わる鼓動は、黒衣の魔法使いに抱き締められた時ほど高ぶってはいませんでした。贅を凝らした広間に氾濫する光輝も、あの黒瞳ほど心を惹き付けはしませんでした。
純はそんな自分に戸惑いを隠しきれません。一体僕はどうしてしまったのだろう。あれほど憧れ、夢見ていた場所に立つことができたというのに、心にぽっかり空いた虚（あな）が重くて仕方がない。
ここに来れば、何かが変わると思っていた。辛い日常から抜け出して、明るい未来の存在を信じることができると思っていた。なのに―――
「お相手願えますか？」
突然声をかけられ、純ははっと我に返りました。そして声のした方を振り向くと、そこには輝く金髪の男性が。純に向かってにっこり笑いかけ、手を差し伸べておりました。
純は驚きましたが、相手に気まずさを感じさせてはならないと思い、笑顔を返して手を取りました。
すると男性は純の腰に手を当てて、広間の中央へ。周囲からの嫉妬と羨望相混じった視線や、楽団長の恭しい態度などから、さすがの純にもこの男性が誰であるか分かりました。
「あ、あの……あなたは王子様？」
男性は愉しそうに笑って、
「そうだよ」
まさかいきなり王子と踊ることになるとは想像もしていなかった純は、あわあわしながら「お誘い下さいまして光栄です」と言いました。
王子はますます笑みを深めると、純の腰に腕を回して抱き寄せました。それを合図に楽団長が棒を振り、緩やかなワルツを奏で始めました。王子は巧みに純をリードしながら、耳許で「名前は？」と訊ねます。
「純と申します」
純は答えると同時に床に躓いてしまい、小さな悲鳴と共に王子の胸に倒れ込みました。王子は「おやおや」と笑いながら身体を受け止め、「お転婆さんだね」と耳許で囁きます。
「も、申し訳ありません」
純はおそるおそる顔を上げて、王子の顔を見つめました。王子の瞳は淡いブルー。町の人々は“サファイアの瞳を持つ王子様”とその美しさを褒めそやしておりましたが、純は黒い瞳の方が好きだなと思いました。
「そんなに恐縮しないで、さあ」
止まっていた音楽が再び響き渡り、二人はダンスを再開しました。ワルツが終わると、サラバンド、メヌエット、アリオーソと続きます。けれど王子は純を離そうとはしません。
「あの……他の方と踊らなくてよろしいのですか？」
遠慮がちに訊ねる純に、王子はちらと肩を竦めて、
「嫌だ。君を離したら、すぐ他の男が申し込んでくるに決まっている」
王子の答えは、理解の範疇を超えておりました。純はちょんと首を傾げ、
「他の男性が？ そんなことあるはずが―――」
「ああ、何たることだ……」
王子は芝居がかった仕草で天を仰ぎ、慨嘆しました。そして純に向き直り、
「君がこの広間に姿を現わした途端、全ての宝石、七宝螺鈿から輝きは失せ、楽聖の旋律は遠のき、たちこめる醺香は霧消した。あらゆる美が、あらゆる光が君の前に屈したのだ！」
どうやら、王子の言葉は本心からのようでした。尤も、自分の言葉に酔っている部分もありましたが、嘘偽りのないことは確かでした。
「僕は初めて、身体が震えるほどの感動を味わった。純、君の美しさに―――」
王子の熱烈な賛辞に、純は小さく首を振って応えました。違う、違うんです。これは本当の僕の姿ではありません。普段は誰もが蔑む灰かぶり。あの優しく誇り高い魔法使いさんの助けがなければ、ここに立つことすらできなかった。
そう、讃えるべきは魔法使いさんの真摯な思い遣り―――
けれど、そんな純の思いが王子に伝わるはずもありません。純の否定を奥床しさと受け止めた王子は、ますます熱くなって純の手を取り、
「ああ純、僕は君を―――」
その時、広間に大きな鐘の音が響き渡りました。何事かと驚いて顔を上げると、広間を見下ろすほどに大きな振り子時計が時を刻むのが見えました。
「ああっ」
長針と短針は揃って真上を指しております。純は魔法使いの言葉を思い出しました。十二時の鐘が鳴り終わると同時に、お前は元の姿に戻ってしまう―――
「純？ どうしたんだい？ 顔色が……」
純は王子の胸に手をついてやんわりはねのけ、
「ごめんなさい、王子様。僕はもう帰らなくてはなりません」
そう言ってくるりと背中を向け、ドレスの裾を閃かせて走り出しました。
「ま、待ちなさい！ 待つんだ！！」
生まれて初めて大声を上げた王子は、去り行く背中を慌てて追いました。しかし純も必死に走ります。毛足の長い絨毯に足をとられながらも速度を弱めず、ついに城の出口が見えてきました。残された鐘はあと二つ。その時、
「ぁっ」
躓いて片方の靴が脱げてしまいましたが、拾いに行く時間はありません。純は靴を諦めて、外に出ました。とほぼ同時に最後の鐘が鳴り終わると、銀色に輝くドレスは跡形もなく消えてしまいました。もちろん、かぼちゃの馬車も、馬も、御者も。
闇に独り、ぽつんと投げ出された純は、来た道をとぼとぼと歩いて帰るしかありませんでした。埃に塗れたいつもの使用人服は寒く、木靴は冷たく足を凍らせます。
つい先刻いた場所とは天と地ほどの差がありましたが、思い出されるのはやはり……魔法使いの胸の温もりだったのでした。
舞踏会の翌日。いつもと変わらぬ朝がやって来ました。ゆうべの出来事は現実だったのか、或いは過酷な日常からの逃避願望が見せた夢だったのか。しかし純にとってはどちらも変わりありませんでした。
たとえ現実だっとしても、夢だったとしても、もう二度と魔法使いさんに会えないのは厳然たる事実。
昨夜帰宅して自分の部屋に戻った純はその事実に改めて思い当たり、声を殺して泣き続けたのでした。何故こんなに悲しいのか、胸を押し潰さんばかりの苦しさは一体何なのか分からぬまま。
いえ、心の奥底にある神秘の階層では、全て分かっていたのですが。
寝坊してしまった純は、厳しい叱責に打ち据えられるのを覚悟でおそるおそる姉たちの許へ。しかし意外なことに姉たちは叱ることなく、そわそわと部屋の中を歩き回るばかり。不思議に思った純はそおっと声を掛けました。
「お姉様……あの、一体何が………」
すると姉たちは得意げに笑って、
「もうすぐ、城からの使者がガラスの靴を持って私たちに会いにくるのよ」
「そう。そしてその靴にぴったりの足を持つ者が、王子様のお妃になれるの。すごいでしょ？」
姉たちの話によると、王子は昨夜の舞踏会で運命のひとに出会った。しかしその人は片方のガラスの靴を残して王子の前から消え失せてしまった。だからその靴の持ち主を探しているとのことでした。
そんな展開になっているとは夢にも思わなかった純が驚いていると、ついに城からの使者が訪れました。
姉たちは我先にと件の靴に足を突っ込みましたが、踵がはみ出たり爪先がきつかったり、とてもぴったりには見えません。それでもお妃になりたい一心で足の指を丸め、ぎゅうぎゅうに押し込みましたが、ガラスの靴はつんと取り澄まして受け入れようとはしませんでした。
純は部屋の隅からその様子を眺めては、溜息をつきました。どんなに無理しても、自分以外にあの靴は履けない。履けるはずがない。だってあれは、魔法使いさんが僕の足に合うように設えてくれたものなのだから。
城からの使者は半ば呆れ顔で姉たちの奮闘を眺めておりましたが、ふと部屋の隅にいる純に目を留めました。
使者はガラスの靴を恭しく抱えて純に近付き、「ぜひお試しください」と頭を下げてきたのです。
「え、でも、僕は………」
戸惑う純に構わず、靴を足下へ置いて「さあ」と微笑みを向けます。そこまでされては断るわけにもいかず、純はそっと足を差し入れました。
「おお……これは………」
誰に対してもよそよそしかったガラスの靴が、純の足を優しく包み込んで宝石の如く輝きます。当然です。これは昨夜、彼が履いていた靴なのですから。
「間違いない。あなたこそ王子がお探しになっている方です」
使者は感極まった声でそう告げると、純の手を優しく取りました。そして「お城へ来てくださいますね」と言って手を引きます。二人の姉や継母は、驚きの余り白目を剥いて立ち尽くすばかり。
「あ、あの……僕は………」
純は困惑しつつも馬車に乗せられ、そのまま真直ぐ王子の待つ城へ連れて行かれたのでした。
城へ到着すると、息つく間もなく石造りの豪華な風呂へ。有無を言わせず着ているものを全て脱がされ、生まれたままの姿で湯女たちに身体を磨かれました。
余りの展開に恥ずかしいという感情も湧かず、ただされるがまま。蜂蜜色の香油をすり込まれた純の肌は真珠の光沢を放ち、輪郭は暈然と輝いて高価な室内装飾も色褪せて見えるほど。
白い布を身体に巻いて現れたその姿は、たった今泡から生まれたヴェヌス神そのものでした。
「こちらでお待ちくださいませ」
湯女は機械的な口調でそう告げると、軽く一礼して去っていきました。純は身体に柔らかな布を巻き付けた状態で、たった一人部屋に取り残されてしまいました。
お待ちくださいと言われても、どうしてよいか分かりません。目の前には大きな寝台が。金色の天使たちがその天蓋を支え、祝福を贈るかのように笑っております。
こんな豪奢な寝台は見たこともなく、自分のような者が触れては申し訳ないような気持ちになってしまって腰を下ろすこともできません。純は部屋の真ん中で、途方に暮れたように立ち尽くしておりました。
その時、背後の扉が開いて人の入る気配が。身体を隠す布が落ちないように押さえたまま振り向くと、そこには昨夜一緒に踊った王子が。しかし昨夜とは少し様子が異なっておりました。
サファイアの瞳は微かに濁り、優雅な歩みは跡形もなく、大股でどかどかと近付いて来ます。純は思わずあとずさり、怯えの色濃い眼差しで王子を見つめました。
「やっと……捕まえたぞ、純」
「あ、あの……」
「もう逃がさない。………絶対に」
頭が命じるより早く、身体が反応しました。純は背中を向けて逃げようとしましたが、腕を掴まれ抱き寄せられました。身体を覆っていた布がはらりと落ち、光も透き通るほど眩い素肌が甘い香りと共に露わになりました。
王子は細い頸に吸い付いて、我を忘れて味わいます。純はいやいやと頭を振って抵抗し、王子の拘束から逃れようとしました。すると王子は純の顎に手を掛けてぐいと上を向かせ、
「純、そなたは僕のものだ。愛している」
「な…にを……」
「僕は国を支配し、そなたは僕を支配する。運命の神が、僕たちを引き合わせたのだ」
カタカタ震えてただ首を振るしかできない純に、王子は優しい笑みを、見ようによっては残酷な笑みを投げ掛けます。
「ああ、恐がらなくていいよ。恐縮する必要もない。僕が必ず幸せにしてあげるから」
「幸……せ？」
「そう。聞けばお前は、家で使用人のように扱われていたんだってね。綺麗な服も着させてもらえず、粗末な部屋に押し込められていたのだろう？ でも―――」
王子は懐の中から眩い輝きを放つ宝石を取り出しました。それを純の頸に掛け、
「でもこれからは、どんな贅沢だって思いのままだ。お前のために毎晩舞踏会を開こう、部屋には薔薇の花を敷き詰めよう、宝石を縫い込んだドレスでクローゼットをいっぱいにしよう。そしてこれまでお前を苛め、灰かぶりと蔑んだ輩を見下してやるがいい、嘲笑ってやるがいい！」
王子の言葉が心身に浸透してゆくにつれ、純は冷静になってゆきました。やがて純は首元を飾る宝石を外し、
「それは、僕の幸せではありません」
思慮に沈んだ声でそう言って返しました。王子は目を見開いて詰め寄ります。
「何だって？！ では何が望みなのだ、お前の幸せとは何なのだ！」
「そ、それは……」
口ごもる純の肩を掴んで強く揺さぶり、王子は尚も問い掛けます。しかし答えが出ないと見ると、純の身体を抱き上げて寝台の上に投げ落としました。そしてすぐさま上からのしかかり、身体の自由を奪います。
「分からないのなら僕が教えてあげよう。幸せとは何なのか、快楽とは何なのかを」
王子の声は、高貴な生まれとは相入れぬ野卑な欲望で撓んでおりました。王子が何をしようとしているのか分からぬ純は、それでも本能的に危険を察して抵抗を試みました。
しかし押さえ付けられた腕はびくともせず、王子に唇を塞がれてしまいました。ぬるりとした熱いものが口内に侵入し、余りの不快感に涙が溢れます。
「ぅ……ゃ、ぁ………」
比較的自由な下半身をくねらせて抵抗したものの、誰が見てもそれは淫らな誘惑のダンスでした。
王子の手がなだらかな下腹から股間に伸び、ちぢこまって震える性器を掴んだ瞬間、純は、自分の望みを、求めているものをようやく覚りました。
「助けてぇっ、魔法使いさん！！」
叫ぶと同時に、身体がふわりと浮遊する感覚に襲われました。どうやら、誰かに抱き上げられたようです。
何がなんだか分からぬまま、たった今自分が押し倒された寝台を見下ろすと、王子が白目を剥いて倒れておりました。
「しっかり掴まっていろ」
声の主を確かめるまでもありませんでした。聞き間違えるはずがありません。夢ならまだ醒めないでと懇願しながら、純は温かな胸にぎゅっとしがみついたのでした。
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