Cinderella
―幸せになる方法―
１.
本当の幸せって何だろう。お城での贅沢な生活、きらびやかな舞踏会、宝石をちりばめたドレス、床に敷き詰められた薔薇の花―――それとも……？
丘の上にそびえる白亜のお城。その麓に広がる城下町に、その少年は住んでおりました。
名前は純。しかし家族や町の住人からは灰かぶりを意味するシンデレラと呼ばれ、蔑まれておりました。
純は生まれてすぐ母親を亡くし、その後父親は裕福な商家の後家と再婚しました。新しい母親とその娘二人は純の美しさを妬み、使用人の部屋に住まわせ汚れた服を与え、家庭内の仕事を全て押し付けたのでした。
一日の仕事を終えて身も心もへとへとになった純は、粗末な暖炉に手を翳して冷えた身体を温めながら、母親の写真に語りかけるのでした。
お母さん、待っててね。僕ももうすぐそちらへ行くから、と。それが唯一、純に許された安らぎのひとときでした。
ところがある日、そんな灰色の毎日を送っていた純に素晴らしい知らせが飛び込んできました。クリスマスの夜、丘の上のお城で開かれる盛大な舞踏会に、町の住人たちが招待されたのです。
しかもその舞踏会には王子様も列席され、最も美しい者を妃として娶るというお触れが出回ったのですから、城下町は上を下への大騒ぎとなりました。
純は秘かに胸をときめかせました。もちろん自分がお妃に選ばれるとは思っていません。でも舞踏会に出席して、自分を小間使いとしてお城で雇って欲しいと直訴することはできる。そうすればこの辛く苦しい毎日から抜け出すことができるに違いない、と。
純はそんな思惑を周到に隠したまま、継母に自分も舞踏会に出席したいという意志を伝えたのでした。
しかし、返ってきたのは身も凍るような哄笑でした。舞踏会？ ふざけたこと言うんじゃないよ、この灰かぶりが。その煤と埃で汚れた服を来て、踵のすり減った木靴を履いてお城へ行こうっていうのかい？ 我が家の恥をさらすような真似はやめておくれ。
僅かな希望を打ち砕かれた純は両手で顔を覆い、自分の部屋に逃げ込みました。すると部屋の扉が外から乱暴に叩かれ、姉たちの叱責が浴びせられます。
「ちょっと何やってんのよ！ 舞踏会に着て行くドレスを合わせるんだから手伝ってよ」
「は、はい。かしこまりました……」
純は目尻を拭って部屋から出ると、姉たちの着付けを手伝いました。これまで見たこともないような豪華絢爛なドレス、眩いばかりの宝石。きっと他の家の娘たちも姉たちのように、王子の心を射止めんと必死に着飾ってくることでしょう。
純は舞踏会に出席したいと考えた自分の愚かさを嗤いました。宝石一つ持っていないくせに、どんな格好でお城に行くつもりだったのか。所詮は儚き夢。自分はこのまま使用人として一生を終えるしかないのだ、と。
そしてクリスマス。舞踏会の夜がやって来ました。姉たちはコルセットでぎゅうぎゅうに締め付けた身体に豪奢なドレスをまとって、馬車に乗り込み出かけてゆきました。
純はもちろん自分の部屋でひとり、決して手の届かない世界に思いを馳せておりました。けれど何を思ったかいきなり立ち上がると、エプロンのポケットからシルクのリボンを取り出しました。
これは姉の着付けを手伝った時、床に落ちたものでした。姉たちは気付いていないようだったので、ポケットに忍ばせて持ち帰ってきたのです。
それを首に巻き付けてふんわり蝶結びにすると、まるでチョーカーのように首元を飾ってくれました。
純は嬉しくて、エプロンの裾をつまんでお辞儀すると、くるくると踊り出しました。舞踏会、美しい音楽、宝石の輝き、優しい王子様―――
「んっ……く、んんっ………」
純は突然ぴたりと止まり、その場に座り込みました。これまでずっとこらえていた涙。泣いても解決することなんてないと自分に言い聞かせ、涙は天の国で母に逢った時のために取っておこうと溜め込んでおりました。
けれど、もう―――
「ぼく……ぼくぅ………」
涙を押し止めていた強固な堰は、ついに崩壊したのです。純は座り込んだまま、両手で顔を覆って存分に涙を流しました。その時です。
「……そんなに舞踏会とやらに行きたいのか？」
突然背後から聞こえてきた声に驚いた純は、慌てて振り返りました。するとそこには、黒衣の男性が立ってこちらを見下ろしておりました。
いえ、黒いのは着ているものだけではありません。髪も瞳も、濡れたような、闇を磨いたような黒。純は一瞬、涙も驚きも忘れてその瞳に見入りました。
なんて、なんて綺麗なんだろう。あの瞳の中に閉じ込められたら、きっと甘美な夢に溺れることができるに違いない。
対して男性はゆっくりと近付き、純の前に膝をつきました。そして指先で濡れた睫毛を拭うと、「綺麗な眼だな」と呟きました。
純は思わず首を振ります。そんなことない、あなたの黒い瞳の方がずっとずっと綺麗です、と。そしてためらいがちにそっと訊ねました。
「あなたは……誰？」
「俺は魔法使いだ」
「まほう……つかい」
「ああ。名前は成仁」
純はたった今教えてもらった名前を、丁寧に、愛情込めて記憶に刻み込みました。成仁と名乗った魔法使いは、冷ややかな情熱を秘めた眼差しで純を見つめたまま、
「舞踏会に行けば、お前は幸せになれるんだな？」
「え…？ あ、あの………」
改めて問われると、口ごもってしまいます。純は自分がその明確な答えを持っていないことに、今さらながら気付きました。だからといって、他に望みがあるわけでもありません。純はもやもやしたものを抱えたまま、成仁の問いに頷きを返したのでした。
すると成仁は「分かった」と言い置いて立ち上がり、純にすっと手を差し伸べました。純は鼓動が速まるのを意識しつつ、その手を掴んで立ち上がりました。
「俺が、お前を城の舞踏会に連れて行ってやる」
「本当に？」
純は目を輝かせましたが、すぐにしゅんと萎れてしまいます。
「ありがとうございます。でも僕……舞踏会に相応しいドレスを持ってません。こんな格好でお城へ行ったら、笑われてしまいます」
「阿呆。俺を誰だと思ってる。魔法使いだと言っただろう？ お前を変身させるくらい朝飯前だ」
成仁はそう言って、指先を宙で優雅に振ってみせました。するとどうでしょう、煤で汚れたみすぼらしい服があっという間に―――
「ひゃっ、何これぇ……」
純は思わず悲鳴を上げて、剥き出しの太ももを隠しました。それもそのはず、成仁の魔法によって、下着が見えそうなほど短いスカートにふわふわの白ブーツ、頭にはうさぎの耳という仮装のような格好に変身させられてしまったのですから。とてもよく似合っているのは間違いないのですが。
純は顔を真っ赤に染めて、潤んだ上目遣いで成仁を睨んでいます。対して成仁は肩を竦め、
「なんだ、気に入らねえのか」
「あ、当たり前ですっ！ もっと大人っぽい感じで……」
成仁は頷いて再び指を振りました。すると今度は皮のボンデージファッション。どうやら成仁は、何が何でも短いスカートを穿かせたいようです。
「違います！ こんなんじゃなくて……」
「なんだよ、大人っぽい感じって言うから……」
成仁はぶつぶつ言いつつも、もう一度指を振ります。するとフリフリのレースに包まれた可愛いメイドさんに。もちろんスカート丈は極短。
「魔法使いさんのバカぁ……バカバカバカ………」
半泣き状態で成仁の胸をぽかぽか叩く純を宥め、「じゃあどんな衣装がいいんだ」と不貞腐れたように訊ねる成仁。純はくすんくすんと鼻をすすり上げ、
「ふつうの……ドレスがいい……」
「なんだ、それを早く言えよ」
言わなくても分かりそうなものですが。ともかく何度目かの正直で、成仁は指を振りました。
「う…わああ……すごい………きれい………」
純の感慨も当然でしょう。白地に銀糸を細かく織り込んだ布のドレスは複雑にして繊細な輝きをまとって、時には月明かりを浴びた湖面の如く、時には雪の結晶の如く、時にはオパールの神秘の如く見る者を惹き付けます。
ドレスは着ていることを忘れてしまいそうなほど軽く、動くたびにしゃらんと霊妙な響きを奏でます。
パニエを幾重にも重ねてスカートを膨らませるデザインが主流でしたが、このドレスにはそのような不自然さはなく、流れるような襞と身体に自然にまとわり付く意匠が新鮮で、且つエロティックでもありました。
成仁は、自分の魔法による変身にもかかわらず、純の艶姿、その匂い立つような美とエロスに我を忘れかけました。不穏にぬめる瞳で純を見据え、所有欲に駆られるまま手を伸ばします。
それでもすんでのところで踏みとどまり、喜びと興奮でほんのり薔薇色に染まった純の頬を撫でるだけに留めたのでした。
「魔法使いさん、ありがとうございます。でも僕……何もお礼できなくて………」
そう言ってこわごわ見上げてくる純に、抑えたはずの感情が湧き上がります。お礼なんか要らない、俺が欲しいのは―――と心の中で吼えたものの、表情には一切出すことなく、成仁は純の首に巻かれたままのリボンをするりとほどきました。
「これをもらおう。いいか？」
「も、もちろんです。でも、あの、そんなもので本当に……」
成仁は手の中のリボンを優しく撫でて、頷きました。純の涙が降り掛かったリボンは微かに湿っています。成仁はそのリボンに、否、染み込んだ涙にそっと口づけて、丁寧に仕舞い込んだのでした。
「さあ純。城へ向かうぞ」
成仁は純を連れて家の外に出ると、辺りをきょろきょろ見回しました。そして「うん、あれがいいな」と呟くと、転がっていたカボチャに向かって指を振りました。
「ふわぁぁ………」
こうして驚かされるのは何度目でしょうか。カボチャが変身した愛らしい馬車や、一緒に現れた立派な馬や御者に、純は夢見心地です。やがて成仁のエスコートで乗り込むと、馬車はゆっくり走り出したのでした。
生まれて初めての馬車。窓の外を流れる景色まで、いつもと違った輝きを帯びて見えます。とはいえ、純の心は窓からの眺めではなく、すぐ隣に座っている美貌の魔法使いに惹き付けられてしまいます。
「あ、あの……魔法使いさん」
「ん？ なんだ？」
純はほんの少しすり寄って、
「どうして、僕のために魔法を……？」
成仁は正面を向いたまま、答えを返します。
「ずっとお前のことを見ていた。そして考えていた。どうしたらお前を幸せにしてやれるだろうか、と」
思いもしなかった答えに純は驚き、成仁の顔をじっと見つめます。紫の瞳、その甘美な呪縛から逃れんと成仁は顔を背けました。窓の外を眺める振りをしつつ、言葉を続けます。
「あの継母や姉たちを酷い目に遭わせても、お前が喜ぶとは思えなかった。お前は何を求めているのだろうか、お前にとっての幸せとは何だろうかと考えていたところ、舞踏会の話を耳にした。どうやらお前もそれに行きたがっているらしい、と。だから―――」
「だから……僕に魔法をかけてくれたの？」
「そうだ。舞踏会に行って王子に見初められれば、お前は幸せになれるんだな？」
純はまた、すぐに答えることができませんでした。暫し躊躇したのち、小さな声で、
「本当は……分からないんです。何が幸せなのか。僕にとって唯一の幸せは、お母さんのいるところへ行くことだと思っていましたから」
成仁は息を呑み、切実な眼差しを純へ向けます。対して純はふわりと笑い、
「僕は生まれてこない方が良かったんです。僕を生んだせいでお母さんは死んでしまいました。そんな僕が幸せを求めるなんて許されない―――」
言葉は途中で遮られました。成仁の抱擁によって。その存在が放つ怜悧な輝きからは想像もつかないほど成仁の胸は温かく、純はこれまで味わったことのない安らぎと悦びに満たされました。
「誰にでも幸せになる権利はある」
成仁の言葉に小さく頷いて、純はその胸にきゅっとしがみ付きました。そして考えます。誰にでも幸せになる権利はある、ならば僕の幸せとは何だろう、本当に、着飾って舞踏会へ行くことなのだろうか、王子様に見初められることなのだろうか………
ああ、答えはすでに出ていたというのに。幸せは、すぐ目の前にあったのに。
二人を乗せた馬車は丘をのぼり、城に近付いてきました。成仁は抱擁の腕をそっと外し、僅かな逡巡ののち口を開きました。
「大事なことを忘れていた。いいか、純。この魔法の効力は今夜十二時までだ。十二時の鐘が鳴り終わると同時に、お前は元の姿に戻ってしまう。だからそれまでに帰ってくるんだぞ」
「はい、分かりました」
真剣な表情で頷く純からそっと目を逸らし、
「悪いな。俺の力はその程度なんだよ」
「そんなこと言わないで。僕のために………ありがとう」
純がお礼を言うと同時に、馬車が止まりました。ついにお城に到着したのです。成仁は素早く下りると、純の側の扉を開けて手を差し伸べました。恭しいエスコートに恐縮しつつ、純はその手を取って馬車から下りました。
夢にまで見た舞踏会、その入口はすぐ目の前です。思わずすーはーと深呼吸する純。成仁はその指先に軽く口付け、
「大丈夫だ。いつものお前らしくしていろ」
「魔法使いさん……」
成仁は淡い笑みとともに純から離れます。そして、
「とても……綺麗だよ」
たった一言に百万の想いを乗せて捧げると、そのまま去っていったのでした。
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