月光の水にひたりて
「ったく、顧問と部長に任せっきりで部員は一人も来ないって、どういうことだよ」
ぶつぶつ言いながらも、藤堂は一応真面目に働いていた。美術部が倉庫代わりに使っている狭い部屋。何年も片付けや掃除をしていないらしく、埃をかぶったカンバスやイーゼル、古いパソコン、画材、雑誌などがこれでもかと積み上げられていた。
夏休みの間に片付けようと部員に召集をかけたのだが、バイトがあるから、夏季講習で忙しくて、などの理由でみな欠席。半ば予想通りとも言えるのだが、結局、藤堂と侑志が二人でやらざるを得なかった。
部屋に冷房はない。窓を全開にしても夏独特の重量感ある熱気がこもり、じっとしていても汗が吹き出す。二人とも滝のように滴る汗を拭いもせず、ひたすら作業に没頭した。
夏休み後半の貴重な時間を、猛暑の中部室の片付けに費やすなんて、友人に話せばみな同情してくれるだろう。しかし侑志は、顔にこそ出さないものの、このひとときを楽しんでいた。
「侑志、お前も飲め」
藤堂は定期的に水やスポーツ飲料のペットボトルに口を付け、それを侑志にも投げてよこす。間接キスなんて、恋に恋する乙女ならともかく、れっきとした高校生男子の思考としては正直気持ち悪いと自分でも思うのだが、同じボトルに口を付けるたびに勝手に早くなる鼓動はどうすることもできなかった。
やがて日は落ち、気付けば外は紗のように薄い闇に満たされていた。侑志は綺麗に片付いた部室の窓から顔を出し、どこか人の息づかいに似て甘く湿った空気を思い切り吸い込んだ。
「侑志、何してるんだ。もう行くぞ」
「あ、うん」
慌てて窓を閉めて施錠し、藤堂の後に続いて部屋を出た。懶げで甘美な、夏の黄昏。このまま帰ってしまうのはもったいない気がしたが、仕方がない。汗と埃でべたついた身体も不快だった。藤堂も汗で張り付いたシャツを指先でつまみ、いかにも不快げに顔をしかめた。
「気持ち悪ぃな。おい、侑志。ちょっと汗を流していこうぜ」
そして、休みの間唯一開放されている通用門とは逆の方向に歩き出した。
「え？ どこ行くんだよ」
「いいから付いてこい」
汗を流すって、確かクラブハウスにはシャワー室があったが、この時間はもう入れないはずだ。しかし侑志の困惑をおいて、藤堂は当てがあるのか迷いなく歩みを進める。そして着いたのは……。
「ここってもしかして……プール？」
「もしかしなくてもプールだ。行くぞ」
当然ながら、入り口は閉ざされている。しかし藤堂は柵の隙間から手を差し込み、チェーンを外して開けてしまった。
「あ、もしかして許可を取っておいてくれたとか」
藤堂があまりに堂々としているから、予め許可を得ているのかと思った。しかし、
「許可ぁ？ んなわけねえだろ」
呆れたような物言いで返され、侑志は思わず黙り込む。どっちが非常識なんだと言い返したかったが、やめた。今さらだと思ったからだ。
靴を脱ぎ、裸足でプールサイドに出ると、独特の匂いがツンと鼻を刺激した。プールの匂い、水の匂い。しかしそれは、侑志の知っているプールではなかった。それは、まるで、
月光の水にひたりて わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
萩原朔太郎の『月光と海月』の一節が浮かぶ。いつだったか、授業で藤堂がこの詩を朗読したことがあった。余計な情感は込めず、かすかにこもった低音で淡々と言葉を紡ぐだけなのに、水面に滴る月の雫や、皮膚を刺す水の冷たさまでもが伝わって、静かに戦慄したのをよく覚えている。
そして今、夜のプールを目の前にして、その一節が藤堂の声とともに脳裏に浮かんだのだ。
「どうしたんだよ、ぼーっとして」
「え？ あ、いや。何でもない。それより、ほんとに入るのか？」
「おう。気持ちいいぞ、きっと」
侑志の口から溜め息が出た。
「あのさあ、こういうのって普通は生徒が暴走して、教師が止めるだろ」
「普通って何だよ。知るか。つうか、うだうだ言ってねえでさっさと飛び込め」
「このまま？！」
「どうせ、汗でぐじゃぐじゃに濡れてんだからいいだろ。あ、そんなに躊躇するってことは、もしかしてお前カナヅチか？」
「違う！ ちゃんと泳げるよっ。そうじゃなくて、このまま飛び込むっていうのが余りに非常識というか───」
言い終わる前に藤堂の手が伸びて、サッと眼鏡を取られた。そして間髪いれず肩をどんと突き飛ばされる。
「うわあああっ」
悲鳴は水飛沫に掻き消され、侑志は背中からプールに飛び込んだ、否、落下した。
「ぶわっ……なにするんだよ！」
水面から顔を出して当然の抗議をするが、「騒ぐな、見つかるぞ」とはね付けられ、悔しいが呑み込むしかなかった。
藤堂は澄ました顔つきで、軽く床を蹴って水に吸い込まれるように飛び込んだ。侑志のぶざまな落下とはえらい違いだ。そしてゆったりと、優雅に水を掻く。
侑志もカナヅチではないことを証明するために泳いでみせたが、バシャバシャとはねる水音は、夜のプールが醸す群青色の非日常を台無しにするような気がして、泳ぐのをやめてしまった。
藤堂はといえば、そんな侑志には構わず気持ちよさそうに泳いでいる。侑志のように派手な飛沫を上げることなく、時折ぴしゃん、ぱしゃん、と上がる水の戯れは、月夜の静寂を乱すどころかより一層その神秘を強調するような、甘く淫靡な響きとなって侑志の耳に届いた。
泳ぐというより游ぐという表現が似合う手足の伸びやかな動きは、鑑賞に値するほど美しい。侑志はプールの真ん中で突っ立ったまま、小さな溜め息をついた。ほんとにこの人は、何をしても綺麗だなと思う。この十分の一、いや百分の一でいいから内面に反映されたらいいのに、とも。
そんな思いを鬱々とくゆらせていると、藤堂が泳ぐのをやめてプールサイドに背中をもたせ掛けた。仰向けになり身体をゆらゆら浮遊させながら、夜空を見上げている。侑志が音をたてずゆったりと水を掻いて近づくと、藤堂はちらと流れるような一瞥をくれて淡く笑い、
「月光の水にひたりて わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか」
藤堂も同じことを考えていたという嬉しさと、厚いびろうどを想わせる低音の鼓膜をくすぐる響きに、侑志は身体の芯が火照るのを感じた。
夜気を含んだ水の浸透で肌は冷たいのに、身体は熱い。侑志は頬が赤くなるのを自覚しつつ、藤堂の傍にぴったり寄り添う。
彼は水の揺蕩いに微睡むように目を閉じていた。唇は、彼には珍しく無防備な綻びを見せている。侑志はそれに、自身の唇を上から重ねた。
「………ッ」
藤堂は素早く目を開けたが、固まったまま何の反応も示さない。どうやら驚いているようだと気付いたが、それと同時に侑志はもうひとつの事実にも気付いた。自分からこうしてキスを仕掛けたのは初めてだったという事実に。
「わっ」
思わず声を上げて離れると、眉間に浅い皺を刻んだ藤堂に不審な眼差しを向けられた。
「何だよ、いきなり」
侑志は恥ずかしさをごかますため、強い口調で言い返した。
「べ、別にいいだろっ。たまには俺の方からしたって」
藤堂は冷ややかに目をすがめたが、やがて無言のままプールから上がってしまった。侑志は慌ててその後に続き、手を伸ばして藤堂の腰にまとわりつくシャツの裾を掴んだ。そして勢い込んで弁明する。
「ほんとはっ、正親さんが綺麗だから、あんまり綺麗だからついキスしちゃったんだ」
そして「ごめん…」と小さな声で謝罪した。侑志は察知したのだ、藤堂の怯えを。そう、藤堂が硬直したのは、驚いたというより寧ろ怯えたからではないかと。
もちろん、こんなことで怯えるような脆弱な人間でないことは分かっている。けれど、理性や意思では制御できぬ心の深層に微かなさざ波が立つのを、侑志は感取したのだ。
恐らくそれは、侑志自身が繊細な感性の持ち主だからこそ気付くことができたのだろう。共鳴と呼ぶにふさわしい、心と心の直接的な感応だった。
「……ガキがサカりやがって」
そう言って馬鹿にしたように笑う藤堂は、いつもの彼だった。さっき感じたのは全て侑志の錯覚、思い違いかもしれない。でも、それならそれで構わなかった。
「そりゃ、サカるよ。俺だって男なんだから、キスしたいって思うし、あなたを抱きたいって思う」
ふてくされた口調で言い返したが、真面目に伝えるべきことだと思い直し言葉を改めた。
「そう思うのは、あなたを好きだからだ。愛してるからだ。それ以外に理由なんてない」
恥ずかしくて頭が爆発しそうだったが、侑志はきっぱり告げた。そしてじっと見上げると、藤堂の冷たい眼差しに迎えられた。腹の底がひやりとする。しかし侑志は目を逸らさなかった。自分は、間違ったことは言っていない。
意外なことに、先に目を逸らしたのは藤堂の方だった。
「皆が皆、お前のような考えを持っているとは限らない」
「え？」
「壊すために抱こうとする奴もいる」
答えてから藤堂は、自分の言葉を否定するように首を振った。
「いや……何でもねえよ」
俯く藤堂の顔は、濃い陰翳に沈み表情は窺えない。しかしなぜか侑志の心は震えた。さっきと同じ、共鳴だ。ということは、藤堂の心も今、震えているのだろうか。負の感情に耐えているのだろうか。
「正親さん、俺……」
そろりと手を伸ばすと、乱暴に掴まれた。そのまま力任せに引き寄せられ、声を上げる間もなく唇を塞がれる。間髪いれず侵入してきた舌の動きは荒っぽかったが、何かを口移しで伝えようとしているようにも思えた。
何かを？ 何を？ それはまだ侑志には分からなかったが、全てを受け入れる覚悟はあるという思いを伝えるため、背中に腕を回して必死にしがみついた。
「ん…ぅ…ふっ、ふぅ…ン……」
注がれる唾液は温かく、舌を絡め合ったまま喉を鳴らして飲み干す。藤堂の手がある明確な意図を持って尻を撫で回すのに気付いたが、抵抗するつもりもなかった。いっそこのままここで抱かれても構わない、そう思ったのだが。
「誰かいるのかッ、そんなところで何をしている！」
官能の萌しを孕んだ静寂に、いきなり亀裂が走った。見れば、懐中電灯を掲げた警備員らしき男性がこちらに向かってくる。
「やべえ、逃げるぞ侑志」
藤堂はそう言うやいなや、靴に足を突っ込んで走り出した。侑志も「うわうわ」と焦りつつ、その後を追う。
「ちょ、自分だけ先に逃げるなんてずるい！」
「うるせえ、黙って走れ」
プールを飛び出して敷地内をしばらく走り、ようやく人心地ついた。
「逃げられてよかったぁ」
侑志が安堵の息をつくと、藤堂は涼しい顔つきで、
「まあ、もし捕まっても俺は大丈夫だけどな。勝手に潜り込んだお前を見つけて注意していたことにすればいい」
「なんだよそれ！ 俺になすりつける気だったのか」
「おう。生徒の方が罪は軽いだろ。生活指導からの厳重注意程度だ。でも教師じゃそうはいかねえからな」
「そもそもプールに忍び込もうと唆したのは正親さんだろ！」
「お前、俺が失職してもいいのかよ」
「いい！ ていうか失職しろこの不良教師！」
侑志は腹の底から声を出して罵倒したが、当の不良教師は軽く肩をすくめて嗤うだけだった。
「……ただいま」
「ああ、侑志お帰り……って、うわ、どうしたんだ。びしょ濡れじゃないか！」
笑顔から驚きに変わった兄、和志の顔を侑志はすがるように見上げ、「プールで泳いできた」と答える。当然ながら和志は首を傾げ、
「プール？ どこの？」
「学校。忍び込んで」
「え？ だって今日は部室の片付けで藤堂先輩と一緒に………あ！」
どうやら事情を察したようだ。さすが、藤堂と付き合いが長いだけある。和志は憐れんでいるようにも笑いをこらえているようにも見える顔で侑志を見つめ、ひと言、
「大変だったな」
「うう……和兄～～っ」
侑志は涙目で抱き着こうとしたが、和志にひょいとかわされた。恨めしげに見返すと、和志は苦笑を浮かべてバスルームを指差し、
「とにかくシャワーを浴びておいで。藤堂先輩には、後で俺が言っておくから。弟を不法侵入に巻き込まないでください、って」
「反省、してくれるかな」
「うん、たぶん無理」
即答を返された侑志は、肩を落としてとぼとぼとバスルームに向かったのだった。
（fin.）
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