後日談

部屋で一人、明日提出のレポートに取り組んでいると、扉を控え目に叩く音が。それだけで、兄の和志だと分かる。弟の慧志はこんな叩き方はしない。というよりそもそも、慧志がわざわざ部屋まで自分を訪ねてくることなんてここ数年はなかった。

「侑志、ちょっといいか？」

予想通り、扉の向こうから和志の声が届いた。侑志は机から離れて、自ら扉を開けに行く。

「どうぞ」
「ああ、悪いな。勉強中に」
「大丈夫だよ。適当に文字で埋めればいい類いのレポートだから」

侑志はそう言って、兄からふっと目を逸らす。

頭脳明晰で容姿端麗、穏和で誠実で誰からも好かれる自慢の兄。侑志も彼のことが大好きだし信頼もしていたが、こうして一対一で対面すると自分の欠点や卑小さがより鮮明に浮き上がってくるような気がしていたたまれなくなるのだ。そういう意味では、慧志より苦手かもしれない。

「その……最近どうだ？　学校の方は」
「え？」

侑志は素の状態で聞き返してしまった。見上げると、和志は芝居がかった鹿爪顔をしていた。内心の困惑を隠そうとしているのが、ありありと分かる。いつも冷静で思慮深い兄にしては珍しい。

「どう、って……まあ普通だよ」
「ん、そ、そうか」

侑志は思わず吹き出した。

「なんだよ、和兄。その、久しぶりに会った親戚のおじさんみたいな質問」

和志もつられて笑う。

「確かにそうだな。弟に改めて訊くようなことじゃない。俺が訊きたかったのは……藤堂先輩のことだ」
「藤堂先生の……」
「ああ。余計なお世話かもしれないけどな。最近の侑志を見てるとつい口出ししたくなってしまう」

和志はそう言って、侑志の頬を手のひらでふわん、と叩いた。

「少し痩せたんじゃないか？　藤堂先輩とはそれなりに付き合いも長いから、性格についてもそこそこ把握しているつもりだ。魅力的な人だとは思うが、本気で好きになったら色々厄介だぞ」

侑志は黙って兄を見上げた。労わりと慈しみに満ちた優しい眼差しは、藤堂の部屋にあった画集で見たラファエロの聖母を想起させる。

そうだ、自分はこの眼差しにずっと守られてきたのだ。いつだって兄は、自分のことより弟たちのことを優先させた。母が天国に旅立った時も、哀しくないはずないのに自分は涙を見せず、弟たちを支え護ることに徹した。

「和兄、気付いてたんだ。俺と正親さんのこと」
「ん、まあ、な。他ならぬ弟のことだから」
「そっか……」

きっと、相当心配をかけてしまったのだろう。兄弟、家族といえど、こういったプライベートなことに当然の権利と言わんばかりにずかずか踏み入ってくるような無神経な人間でないことは、侑志もよく分かっている。

「なんか……ごめん、和兄」

いきなり謝られて面食らったようだ。瞬きを繰り返す和志に、侑志はそっと微笑みかけた。

「母さんが死んだ時も、俺が一番ボロボロになって迷惑かけたし。やっと少し立ち直ってきたかと思ったら、今度は恋愛のことで心配かけて」
「迷惑なんて言うな。家族なんだから、支え合うのは当然だろ？」

ほんの少し怒ったような口調が、くすぐったい。侑志の口は自然と感謝の言葉を紡いでいた。

「ありがとう、和兄」

真っ直ぐ見つめて礼を言うと、和志は軽く瞠目した。ややあって、ためらいがちに口を開く。

「あの人は……侑志のことを大事にしてくれてるのか？」

うん、とても大事にしてくれてるよ───そう言えば多少は安心させられるのかもしれない。でも嘘はつきたくなかった。

本当のことを言えば余計に心配させてしまうかもしれないけれど、耳障りのいい嘘で一時的に安心させるような不誠実なことは、この兄相手にはしたくない。だから侑志は正直に話した。

「よく分からない。俺以外にも付き合ってる人がいるのは確実だ。つらくないと言えば嘘になるけど、でも分かったんだ。どうしたってあの人から離れることはできないって。つらさや苦しさ、嫉妬。そういう負の感情は、この恋愛のいわば副作用として受け入れるしかないんだって」
「侑志、お前そこまで……」
「うん。まあ、口で言うほど簡単じゃないって分かってるけど」

和志は苦しげに眉根を寄せ、

「そんなことを続けていたら、いつか心が壊れてしまう」
「もし壊れてしまっても、俺には帰る場所がある。受け入れてくれる家族がいる。でもね、和兄。あの人は……正親さんには帰る場所がないんだ。無条件で受け入れてくれる家族もいないんだ。だから俺は、いつか完全に捨てられる時まで、お前はもう要らないと言われるその時まで、あの人の傍にいる。これからもたくさん傷ついて、たくさん心配かけると思うけど、でも大丈夫だから」

侑志がきっぱり言うと、和志は一瞬痛みをこらえるように顔をしかめた。優しくて感受性豊かな兄だからきっと、侑志がこれから受けるであろう傷、苦痛に共感したに違いない。侑志は声に出さず謝罪した。ごめん、和兄。でも俺はこうするしかないんだ。

「……そうか、分かったよ。でもな、つらくてどうしようもない時は、俺や慧志を頼っていいんだぞ。俺たちはいつだって、お前の味方だ。それは忘れないでくれ」

兄らしい真っ直ぐな言葉は、侑志の心の柔らかい部分にすぅっと浸透した。侑志は大きく頷いたが、ひとつだけ、兄に言っておきたいことがあった。

「心配かけてばかりの俺が言うのもおこがましいけど、和兄はもう自分の幸せを一番に考えていいんじゃないかな」
「な、なんだ。どういう意味だ」
「言葉通りの意味だよ」

思い出せばいつも、和志の傍には彼がいた。長兄という立場のせいか、人に甘えることが苦手な和志が唯一寄りかかれる存在。単なる幼馴染みと呼ぶにはあまりに密度の濃い何かが二人の間に存在していることに、侑志は最近ようやく気付いたのだ。

たぶん彼、木村純は、侑志も慧志も知らない森本和志を知っている唯一の人間だろう。心なしか顔の赤い兄に笑顔を向けて、侑志は机に戻った。






侑志の部屋から退出すると、腕を組んで壁にもたれる慧志と目が合った。和志は思わず苦笑する。

「やっぱり聞いてたのか」
「……ああ」

彼の仏頂面はデフォルトだが、今は特に機嫌が悪いようだ。その理由は探るまでもない。

「そんなに気に入らないか？　あの人が」
「当たり前だろ。好き勝手に侑のこと振り回して。まるでおもちゃかペットだ」

義憤混じりの口調に、和志の笑みは深まる。本当は侑志のことが心配でならないくせに、それを態度や言葉で表そうとしない。むしろ、口を開けば辛辣な言葉ばかり。

そのせいで侑志から距離を置かれているのだが、本心はあの優しくて繊細な兄が大好きなのだ。

「和兄だってそう思うだろ？　あんな不誠実でいい加減な男、侑にはふさわしくない。だいいち、侑がどれほど傷つきやすくて脆い人間か全く分かってない」

普段、あまり感情を露わにしない彼が、ここまで怒りを見せるのは珍しい。しかし和志は敢えて宥めず、静かに首を振った。

「いや。もしかしたら、俺たちより藤堂先輩の方が侑志のことを分かっているのかもしれない」
「はっ、まさか。あんな男に侑の何が分かるっていうんだよ」

慧志がそう言いたくなる気持ちも分かる。実際和志も、ついさっきまではそう思っていた。『あいつは強えよ。お前が思ってるよりずっと』───藤堂の言葉に、頷くことなど到底できなかった。しかし先刻の侑志との会話で、認識を改めざるを得なくなった。

「侑志は、俺たちが思っているより強い。いや、強くなったのかもしれないな。藤堂先輩と出会ったことで」
「そんな馬鹿な───」
「あいつ、俺たちと話す時はいつも決まって目を逸らしてただろ？　それがさっきは、しっかり目を合わせて自分の考えを伝えてくれた。驚いたよ。誰かを愛そうという強い意志が、侑志を変えたとしか思えない」
「……クサい台詞だな」
「ああ、俺もそう思う」

和志が晴れやかな声で応えると、慧志はわずかに表情を緩めた。和志は頷き、

「黙って見守る。それは傍にいる家族だからこそできることだ。だろう？」
「ああ……そうだな。分かったよ、和兄」

慧志が肩を竦めて了承を伝えるのとほぼ同時に、階下から明るい声が届いた。

「慧志ぃ～、アイス買ってきた！　一緒に食おうぜ！」

慧志は深い溜め息をつき、「バカが来たぞ。ったくうるさいな」とぼやく。

「慧志ってば！　アイス溶けるっ、溶けるぅ～～」
「はいはい、分かったよ。今行くから」

がりがり頭を掻いて、階下でわめく森実颯月（もりざね・さつき）の元に向かう。いかにも嫌々、といった風情を見せてはいるが、その内心は和志にはお見通しだった。

「嬉しいくせに。お前も相当天邪鬼だな」

和志は苦笑混じりに呟くと、時計を見た。

「……純ちゃんはもう帰ってるかな」

なぜか、彼に会いたくなった。

（fin.）

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