甘いは苦い、苦いは甘い
「あの……森本君。これ、もらってくれる？」
登校してすぐ声を掛けてきたのは、隣のクラスの女子生徒。選択科目で一緒だったから、顔は何となく知っているが名前までは分からない。その程度の知り合いなのに、じっと見上げる目は真剣そのものだ。
「え？ 俺？」
侑志（ゆうし）が困惑混じりに聞き返すと、彼女は熱烈に頷いた。そして両手の中にあるピンクの包みをさらにぐいと突き出す。
「あ、ああ。ありがとう」
侑志は取り敢えず受け取ってお礼を言った。派手な包み紙にふわふわのリボン。これがプレゼントの類いだろうというのは分かる。とはいえ、なんでプレゼントがもらえるのかは全く分からないのだが。
彼女はその場で小さくガッツポーズすると、くるっと背中を向けて走り去った。それをぼーっと見送ってから、手の中で存在を主張するものに視線を落とした。その時、
「森本……ちょっと部室まで来い」
冷たいびろうどを想わせる低音。鼓膜に馴染んで久しいのに、今でも不意に声を掛けられると胸の奥がずくんと甘く竦む。しかし今日は、その声がかすかに毛羽立っていた。何か苛立つことがあったのだろうか。侑志はそんなことを思いながら振り向いた。
「おはようございます。藤堂先生」
しかし声の主、藤堂正親（とうどう・まさちか）は挨拶を返すことなくさっさと歩き出す。侑志は慌ててその後に続いた。
『藤堂先生ってさ、クールビューティーとかストイックって言葉がぴったりだと思わない？』
『思う！ あと、ちょっとミステリアスなところもあるよね。私生活が見えないっていうか』
『恋人にもきっと、冷たい感じで接するんだろうな。大人と大人の付き合いって感じ？ べたべたするのは嫌いだ、とか言っちゃって』
『やばい！ それ超萌えるんですけど！』
転任以来、女子生徒の熱視線を一身に集める彼が、実はクールでもストイックでもないことを知っているのは、校内広しといえども侑志だけだ。だから藤堂に関する噂やら憶測やら乙女の妄想を耳にすると、侑志は困惑してしまう。
藤堂の実像を知っているのは自分だけという、ちょっとした優越感ももちろんあったが、実像との落差（敢えて落差と言う）に半ば呆れてしまうのだ。
クラスメートからもよく、森本は藤堂先生と仲良くていいなあ、などとあからさまな羨望混じりに言われる。そのたびにどきりとしてしまうのだが、もちろんそ
う言う彼女らに底意はない。美術部の顧問と部長だから接することが多くて羨ましい、という程度だろう。そんな時、侑志は苦笑してごまかすのだった。
校舎から部室のあるクラブ棟へ移動してきた。画材などが置いてある美術部の部室は、この時間だから当然誰もいない。顧問の藤堂は鍵を持っているから、それで開けて室内に入った。
「出せ」
いきなり命令されて、侑志は首を傾げる。
「何を？」
「さっきもらったものだ」
どうやら、あのプレゼントのことを言っているようだ。侑志は戸惑いつつも素直に差し出した。受け取った藤堂は、一瞥もくれず傍らの不要品回収箱へ直で投げ入れた。
「ちょ…っ、何するんだよ！」
思わず大声を上げる侑志に、藤堂は表情を変えることなく、
「おい、今日は何の日だ」
いきなり聞かれ、勢いを削がれた侑志は「何の日って…」と口ごもる。
「今日は何月何日だ」
「えっと……2月、14日？」
答えてから、じわじわと頭の中に広がる言葉。
「あ、バレンタインデー？ バレンタイン……てことは……もしかしてさっきの……！」
ちょっと顔見知り程度の女子生徒がくれた小さな箱。あれはまさかバレンタインのチョコレートだったのだろうか。そんな驚きを表情から汲み取ったのか、藤堂は馬鹿にしたように肩を竦め、
「今ごろ気付いたのかよ。相変わらず間抜けだな」
「し、しょうがないだろ！ バレンタインなんて、これまで俺には無縁のイベントだったから……」
その通り。兄の和志（かずし）も弟の慧志（さとし）も、毎年抱えきれないほどのチョコレートをもらっていた。いや兄弟ばかりではない、父の京志（けいし）もだ。
美形揃いの誉れ高い森本一家。優れているのは容姿だけではない。慧志は同じ学校の一学年下に通っているが、成績優秀で教師からも一目置かれる存在だ。和志は卒業して現在大学生だが、誰もがその名を知っている一流大学に通っている。
侑志はその燦然たる輝きに埋もれて、劣等感と格闘しつつこれまで生きてきたのだ。何の取り柄もない平凡な次男というレッテルを自ら貼り付けて、ひたすら喘いでいた。けれど彼、藤堂はそんな侑志の傷を───
「だろうな。お前は和志とも弟とも違うもんな。まあ、もらった数は和志より俺の方が断然勝ってたけどな」
「………」
容赦なく抉る。それが藤堂正親。侑志は負けるもんかとキッと眦を決して見上げ、言い返した。
「分かってるよ！ そんなこと」
藤堂は兄、和志の先輩で、今でも親しくしていた。それも、侑志の心に灰色の影を落としていたのだ。穏やかで優しくて、誰からも好かれる美形の兄。藤堂とお似合いなのはむしろ、兄の方ではないかと。
「初めてもらったんだから……さっきの返してくれよ」
負けん気は続かなかった。侑志は弱々しい声で訴える。すると藤堂は、眉根を険しく寄せて冷ややかに侑志を見下ろした。どうやら、腹を立てているらしい。
「藤堂……先生？」
「二人きりの時は名前で呼べっていつも言ってるだろ」
藤堂は不機嫌を隠そうともせずそう言って、上着のポケットから小さな箱を取り出した。そして「ほら」と侑志に差し出す。
「え？」
わけが分からず箱をぽかんと見つめていると、藤堂が舌打ちとともに箱の包装を解いてふたを開けた。中に入っているのは───
「チョコレート……？」
藤堂は無言のまま一枚を指先でつまんで、侑志の目の前に掲げた。正方形の薄いそれは、濃厚なカカオの香りを漂わせていた。茶色と白のマーブル模様があまりに美しく、口に入れるのがためらわれるほどだ。
「お前の初めてを、あんなクソ女に譲るわけにはいかねえだろ。ほら、バレンタインだ」
「あ……」
侑志はおそるおそる顔を近づけ、藤堂の長い指に挟まれたチョコレートをそっと口に含んだ。それは口内であっという間に融けて、まろやかな甘さとぴりっとし
た苦味という味覚のマーブル模様を生み出す。舌触りといい鼻から抜けるカカオの芳香といい、極上の部類に入るチョコレートだということが分かる。
「おいしい……」
侑志がうっとり味わっていると、いきなり唇を塞がれた。熱い舌が傍若無人な動きで歯列を割り、口腔を掻き回し舐め回す。頭の芯が痺れるような甘さはチョコレートの媚薬効果なのか、含まされた舌のせいなのか。答えは言うまでもない。
「んっ……ん……」
とぷとぷと、舌の交わる音が頭蓋に響き、これまで藤堂に散々教え込まれ、嫌というほど身体に刻まれた淫らな熱が、ゆっくりと侑志の身体を巡り始める。が、それに支配される寸前で、タイミングを計ったかのように藤堂の唇が離れた。
「まあ、これでお前からもチョコレートをもらったことにしてやるよ」
そう言って、濡れた唇にちらと舌を這わせる藤堂は、悔しいけれど魅力的だった。これ以上直視していたら、あの危うい熱が再び勢力を増してしまう。侑志は慌てて目を逸らし、そんな自分を誤魔化すためと、藤堂の魅力に抗うため、芝居がかった低い声で、
「……不良教師」
もちろん藤堂は意に介さない。鼻先で嗤い、
「その不良教師にどうしようもなく惚れてるのは誰だよ」
実際その通りだから、何も言い返せない。
「校舎に戻るぞ。そろそろHRの時間だ。不良教師は、お前といる時だけだからな」
「……っ」
心臓がどきりと跳ねる。彼のちょっとした仕草や何気ないひと言に、こんなに敏感に反応してしまう自分が情けない。でも、どうしようもないのだ。
「行くぞ」
「う、うん……あ、ちょっと待って。さっきもらったチョコレート……」
藤堂が不要品回収箱に投げ捨てた包みを拾おうと、侑志は手を伸ばした。せっかくくれたのに、廃棄物扱いはあんまりだと常識的な行動をとったつもり、だったのだが───
「……ほぅ。俺がくれてやったチョコレートだけでは足りねえか」
「え？ いや、そういうことでは───」
「いい度胸だ、侑志。……後で覚えてろよ」
目の前にいるのが、常識が通用しない相手だということを失念していた。乱暴に腕を引かれ、部室を後にする。
「あ、後で覚えてろってどういうことだよ！」
必死に声を張り上げる侑志に、藤堂は艶笑を投げ、
「それは、お前の身体がよく知ってんだろ」
「なっ……！」
「放課後、美術部の倉庫に来い」
「この不良教師！」
侑志の本気の罵倒も、不良教師、藤堂正親の剣呑なほど美しい笑みを崩すことはできなかった。
その日の放課後、校舎から離れた倉庫で何が行われたのかは、二人しか知らない。
（Fin）
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