One Step Forward
第八話
侑志はベッドの上で悄然と項垂れていた。和志が話したことを整理しようとするが、頭がうまく回らない。
「正親さん、が……」
これまで何度も『別れる』と喚いたが、そのたびにどうぞご随意にと嗤っていなされた。この関係に執着しているのは自分だけで、正親にとっては遊びや戯れの延長のようなものに違いない、そう思い込んでいたのだ。
けれど、和志に語った言葉がもし本心であるのなら、正親は侑志のことを愛して……いた？
「わかんないよ。あなたにとって俺は一体何なんだ？」
重い疑問を口にしてみたものの、答えなど出てくるはずがない。これまで正親は一度たりとも、侑志への愛情を窺わせるような言葉を口にしたことはなかった。好きだの愛してるだの、甘い言葉は侑志にとって高嶺の花で───
侑志の呼吸が止まった。確かに、『好きだ』も『愛してる』も言われたことはない。けれど、
『お前は俺に残された唯一の光なんだ』
「あ……」
藤堂正尚への怒りと殺意を抑えられず、両手で握ったナイフを今にも振り上げようとしていた侑志を引き止めた言葉。これ以上の愛情の吐露があるだろうか。これほど美しく詩的な告白があるだろうか。
「正親さ…ん……」
瞬きを忘れ大きく開いた両目から、とめどない涙が溢れる。自分は確かに、愛されていた。今になって気付くなんて。
でも、もう遅い。侑志は自ら背中を向けてしまった。別れを告げてしまった。そして正親は、唯一の光を失ってしまったのだ。
「ごめ…なさい……正親さん、ごめ……」
あとは言葉にならず、侑志は喉が干からびるまで声を上げて泣き続けた。
講師の部屋が並ぶ研究棟の入口で場所を確認し、目的の研究室へ向かう。扉をノックすると、誰何することなく向こうから開けられた。
「久し振りだね。待っていたよ。さあさあ中へ」
前もって訪問を伝えていたから問題なく迎え入れてもらえるだろうと思っていたが、ここまで歓待されるとは。正親は、これまで不義理にしていたことを申し訳なく思いつつ頭を下げた。
「河村先生、ご無沙汰しております」
「堅苦しい挨拶はいいから。ほらほら、そこに掛けなさい。散らかり放題ですまないね」
そう言って相好を崩すのは、画家の河村青徳。かつて、短い期間だったが正親を指導したことがあった。
当時より若干、髪に白いものが増えていたが、以前より創作意欲は旺盛で次々と作品を発表している。現在は、この蒼薇造形美術大学で講師も務めていた。
「先生、早速ですが見てください」
正親は、持てるだけ持ってきた侑志の作品を広げた。そして数歩引き、河村の評価を待つ。どのくらい時間が経過しただろう。河村はゆっくり振り向いて微笑み、
「面白いね、実に面白い。こんなに、描いている時の精神状態が如実に作品に反映されるのは珍しい。よほど素直な子なんだろうな」
「仰る通りです。メンタルな部分に左右されやすい。そこが強みでもあり、弱点でもある」
「だからこそ、傍で支える者の存在が重要になってくるということか。分かったよ。僕の手助けが必要な時は、いつでも言ってくれ。力になろう」
「ありがとうございます」
正親は礼を言って、ほっと安堵の息をついた。自分が侑志にしてやれることはこの程度のことだが、この先道に迷った時、彼の助言は道標になるはずだ。かつての自分にとって、そうだったように。
「ところで君はもう描かないのか？」
河村はもちろん、正親を襲った奇禍について知っている。知った上でもう描かないのかと聞いているのだ。
「昔のようには描けませんから」
素っ気ない答えを返す正親に、河村は「ふむ」とうなり、
「昔のように描く必要があるのかな？ 人間は成長する。あの事故以来環境が変わり、君は色々な経験をしてきた。新しい出会いもあっただろう。その全てが君を成長させたはずだよ」
「新しい出会い……」
もし侑志との出会いがなかったら、美術部の顧問などしていなかっただろう。こうしてかつての恩師に会いに来ようとも思わなかったはずだ。河村は、正親の肩を強く掴み、
「確かに昔と同じようには描けないかもしれない。しかし昔の君には描けなかったものが、今なら描けるはずだ。過去へのこだわりは捨てなさい。大切なのは今、君が何を感じ何を表現したいかだ」
正親は、自分の右手をじっと見つめた。白い傷痕がうっすら残っている。いずれ、完全に消えるだろう。身体は日々成長し、過去を克服しているのだ。
なのに心は過去にこだわり、過去に停滞したまま。昔のようには描けないと顔を背けてきたが、求めるものは前方にある。手を伸ばせば、届くかもしれない。こんな風に考えることができるようになったのも、成長の証なのだろう。
「……また、伺ってもいいですか」
正親の言葉に、河村は満面の笑みで答えた。
「もちろんだ。いつでも待ってるよ」
そして固い握手を交わした。
「……森本、お前大丈夫か？」
体調の回復が芳しくなく、侑志は結局二日間学校を休んだ。精神的なダメージが、回復の足を引っ張っているのは明らかだ。
しかしこれ以上休むわけにもいかないと、無理して登校したのだが、消耗は友人の目にも明らかなようだ。三上巧は眉間にらしくない皺を刻み、侑志の顔を覗き込む。
「ありがとう、大丈夫だよ。それより……藤堂先生は？ 先生も身体を壊したって言ってたけど」
「ああ。先生は一昨日から来てるよ。ちょうど、森本と入れ違いだな。心配かけて悪かったな、っていつもと変わらない感じで」
自宅に戻った直後は酷く疲弊していたが、翌日から復帰できたようだ。侑志はほっとしつつも、腹の底に力を入れた。もうすぐ朝のHRだ。正親が教室に入ってくる。声を聞いて姿を見ても、平静を保てるようにしなくては。
「ほら、席に着け」
どきん、と心臓が跳ね上がり、一気に血流が速まるのが分かる。侑志は俯いて、膝の上に揃えた自分の手をひたすら見つめた。できるだけ耳を閉ざし、声が流れ込むのを堰き止め───
「森本、身体の具合はどうだ」
すぐ近くから声が聞こえ、侑志はびくりと肩を震わせた。おそるおそる視線を上げると、机の傍らに正親が立っている。しかし顔を見ることができない。
「だ、大丈夫です」
「そうか」
短い返答だったが、本気で心配していたことが分かる声だ。嬉しさと切なさが同時に込み上げ、侑志は唇を強く噛み締めた。そうしないと、叫び出してしまいそうで。
HRが終わり、正親が教室から出て行ってようやく、身体から力が抜けた。ぐったりと机に突っ伏す侑志に、「ずいぶん消耗してんな」と三上が声を掛ける。
「うん、なんか、三日ぶりの学校で疲れた」
「はは、無理すんなよ。それよりお前、もうすぐ誕生日じゃなかったっけ？」
「誕生日……そうだ、明後日だ」
そういえば今朝和志が、「明後日は侑志の好きなものを作ってあげるよ」と言っていた。何でだろうと思っていたが、誕生日だからだ。
「覚えててくれたんだ」
「まあな。プレゼントはないけど。てかお前、忘れてたのかよ」
「うん、忘れてた」
もともと自分の誕生日には淡白な上、この数日間は色々なことがあり過ぎてそれどころじゃなかった。
「ま、祝ってくれる彼女もいないもんな」
今の侑志には酷なからかいだったが、もちろん三上に悪気はない。「家族が祝ってくれるからいいよ」と、弱々しく笑うしかできなかった。
「父さんから連絡があったよ。少し遅れるから、先に始めててくれって」
「おっし、じゃあ始めようぜ。かんぱ～い」
森実颯月がコーラの入ったグラスを掲げると、隣からにゅっと手が伸びて頭をぱしっとはたいた。
「いって～、なにすんだよ、慧志」
「勝手に始めるな。今日の主役は侑だ」
「分かってるよ。だから率先して乾杯を……」
「君は早くご馳走が食べたいだけだろ」
二人のやり取りを眺める侑志の口元には笑みが浮かんでいたが、双眸にかかる翳が心の裡を物語っていた。
18歳の誕生日はみんなで盛大に祝おうと、和志は言ってくれた。その言葉通り、森本家の食卓には凝りに凝ったパーティー料理が並び、華やかな宴の雰囲気に満ちていた。
侑志の傷心を知っている和志が、少しでも元気になってほしい、淋しさを忘れてほしいと腕をふるってくれたのは分かっている。だから侑志もその気持ちに応えるため、できるだけ笑顔を絶やさないよう努めた。作り笑いには違いないが、嘘でも笑っていれば心が軽くなるかもしれない。
「俺もお腹が空いたよ。さっちゃん、乾杯の音頭をとってくれるかな」
「おう、任せとけ。えーと、本日はお日柄もよく……んと……健やかな時も病める時も……あれ？ なんかちがう？ とにかく侑ちゃん、誕生日おめでとう。かんぱ～い！」
颯月の挨拶にみな苦笑を浮かべつつ、グラスを掲げてかちりと縁を合わせた。
「うっわ、このラザニア旨え！ ラザニアは飲み物だな」
「バカか君は。ほら、口の周りにミートソースが付いてる」
「あ、颯平さんもお酒飲むんだ」
「たまにね。この前、京志さんにワインバーに連れていってもらった」
「そーへーばっかりずるい！ 俺もワインバー行く！」
「未成年はマックでコーラ飲んでろ」
喋るのと食べるので、みな口を忙しく動かしている。しかし、
「侑志、食欲が湧かないか？」
和志にそっと耳打ちされて初めて、自分がほとんど食べていないことに気付いた。
「い、いや、そんなことないよ」
慌てて皿に手を伸ばす侑志をそっと押し留め、和志は続けた。
「無理しなくていい。それより、実は今日───」
言葉を遮るように、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、おじさんが帰ってきた！」
迎えに出ようとする颯月を制して、和志が玄関に向かう。暫くして戻ってきたがその後ろには───
「正親さん……」
侑志は無意識のうちに、胸をぎゅっと掴んだ。
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