One Step Forward
第六話
通されたのは、離れの正尚の部屋だった。一昨日、正親との不適切な関係を糾弾され、最後通牒を突き付けられた部屋だ。
正尚はこちらに背を向け、窓辺に立っている。あの時の記憶が蘇り、胃がキリキリと悲鳴を上げるが、意思の力で抑え込んで口を開いた。
「突然申し訳ありません。藤堂先生が体調を崩してこちらにいると聞いたので。僕は美術部の部長で、部員に状況を説明する義務があります。もし可能ならば、少しで構わないので先生とお話させてもらえるでしょうか」
「まさか、君みたいな子供に奪われることになるとは。想像もしていなかった」
「……は？」
侑志は思わず聞き返し、そして眉をひそめた。何だか様子がおかしい。問いに対する答えがずれているのはもちろんだが、それだけではない。こちらに向けられた背中から感じる高濃度の情念が、彼の輪郭をいびつなものにしているような。
学校で声を掛けられた時も、二日前に会った時も、決して感じのいい人物ではなかったが、社会的な地位を確立した紳士という印象は持てた。
しかし今、声と背中だけという少ない情報からでも、狂疾的なものがじわじわ染み出しているのが分かる。侑志は無意識のうちに一歩後退した。
「正親とは歳が十一離れている。私はあれが子供の頃から大事に大事に可愛がってきた。なのに君が……ああ、そうだ。君に特別、私の宝物を見せてあげよう」
正尚はそう言うと、扉付きの書棚からびろうどの布が張られた美しい箱を取り出した。三十を過ぎた男性の口から出てきた『宝物』という言葉に、侑志は薄気味悪さを覚えた。しかし正尚は構わず、蓋を開けて中身をデスクの上に並べた。
「どんな巨匠の作品も、この傑作の前ではゴミのようなものだ。そうは思わないか？」
侑志は警戒しつつデスクに近づいた。どうやら写真のようだ。取り敢えず見て、適当なお世辞でも言えば納得するのだろうと思い、視線を落とす。
「………」
何だか分からない。頭が、心が“分かる”ことを拒絶している。しかし、
「あ……あ……あ……」
写真に写っているのは、間違いなく正親だ。歳は十四、五歳だろう。裸で両手首を縛られ、羞恥と屈辱に顔を歪めている。
別の写真には恍惚とした表情が写っており、顔のあちこちに白い粘液が付着している。上は制服で下は剥かれ、大きく脚を開いている写真もあった。
どれも正視に堪えるものではない。侑志は大きくよろめき、デスクに掴まって何とか体勢を維持した。足に力が入らない。
「な……んだ、これ……」
なんだこれなんだこれなんだこれ───腹の底からざわざわと湧き上がる疑問。しかし頭の中ではパズルのピースがはまり、全体像が見え始めていた。
なぜ正親は兄を徹底的に拒絶していたのか、なぜ実家に寄り付かないのか。そうだ、正親はかつて、実家を『檻』と呼んでいた。誰も助けてくれない、味方はいない、光も見えない、檻。
「美しいだろう？ 正親こそが芸術作品なんだよ。それを私は誰よりも愛し、大切に慈しみ───」
「あんたは鬼畜だ。人の皮を被った畜生だ！」
侑志は叫ぶと同時に、デスクの上の写真を払い落とす。『宝物』をぞんざいに扱われた正尚は眉を吊り上げたが、すぐに笑み崩れ、
「君のような凡人には分からないか。無理もない」
侑志は拳を握り締め、自分を叱咤した。相手に呑み込まれるな。今、自分がするべきことに集中しろ。
「あなたとお喋りしている時間がもったいない。正親さんはどこですか。一緒に帰ります」
素直に教えてくれるとはもちろん思っていない。しかしこの家のどこかにいることは間違いないのだ。正親の名を叫んで家中を捜し回ってやる、制止されても構うものか。そんな意気で正尚を睨み付けた。
「帰る？ 正親の帰る場所はここ以外にない。それに、疲れて休んでいるよ。昨夜は久し振りの再会だったからな。つい、夢中になってしまった」
「あ、あんたまさか、ゆうべも正親さんをっ……」
正尚はにたりと笑った。その下品な笑みが答えだった。その瞬間、侑志は制御不可能の何かが自分の中で鼓動するのを感じた。それはどくん、どくんと激しく脈打って、心臓の鼓動を掻き消してしまう。
駄目だ、それ以上膨張するなと言い聞かせ、ゆっくりと顔を上げると、斜め前の棚が銀色に閃いた。思わず目が釘付けになる。手を伸ばせば届く場所に置かれた一振りのナイフは、まるで天啓のように侑志を魅了した。
正尚という怪物が発する瘴気にも汚されぬ、清廉とした存在感。このナイフだけが自分の味方にように思えた。だからこそ、侑志は顔を背けた。そして左手で右手を押さえながら、正尚を見返す。
「疲れているならなおさらだ。一刻も早くこんなところから連れ出して、休ませてあげないと。今、正親さんが必要としているのは他の誰でもない、俺なんだから」
正尚は不愉快そうに眉をひそめる。
「生意気なことを。そもそも君は、私に感謝すべきなんだぞ」
「感謝？ 寝惚けたこと言うな！」
「正親が教師にならなければ、君とは出会うことすらできなかった。つまり、教師になったきっかけを作った私は恩人ということだ」
戯言だと思ったが、気にならないと言えば嘘になる。
「教師になったきっかけ？ 事故で右手を怪我して、それが原因で絵が描けなくなった。だから教師の道を───」
「そう、あれは酷い事故だった。正親には何の落ち度もない。ただ歩いていただけだ。風の強い日だったな。工事現場を囲む鉄のプレートが、風に煽られてガタガタ揺れていた。そのすぐ脇が歩道になっていて、正親はそこを歩いていたんだ」
「まるで、見ていたかのように話すんですね」
「当然だ。見ていたのだから」
「え？」
侑志は思わず聞き返す。一体この男は何を言っているのか。妄想と現実が混ざり合って区別がつかなくなってしまったのか。
「ひと際強い突風が吹き、プレートががくんと傾いた。おそらく、繋いでいたワイヤーが切れたか外れたかしたのだろう。そのまま正親に覆いかぶさるように倒れた。正親は避けようとしたが間に合わなかった。いや、間に合ったとも言える。あと少し遅かったら全身が下敷きになっていたのだから。しかし幸いなことに、下敷きになったのは右手だけだった」
「ちょ…っと待て。事故現場に居合わせた人はいなかったはずだ。暫く経ってようやく、通行人が見つけたと……」
「いや、いたよ、私が。事故現場はこの家に帰るための裏道になっていて、私もよく通るからな。私は当時、正親の後ろを歩いていて、全てを見ていた」
どくんどくんと、激しい脈動が鼓膜を打つ。必死に抑え込んでいたものが、腹の底でのそりと頭をもたげた。侑志は震える舌を駆り立て、決定的な問いをぶつける。
「あんたは見ていて……何もしなかったのか。すぐに救急車を呼んでしかるべき処置をすれば、後遺症も残らずに済んだ可能性が高かったと聞いた」
ゆっくりと、顔の筋肉が熔けるように正尚は笑った。それは、生理的な嫌悪感を呼び起こす毒笑とも呼ぶべき笑い。
「もちろん私もそうしようとした。しかしどこからか冷静な声が聞こえた。鉄板が潰しているのは右手だけ。命に関わることはないと」
「だから……放っておいたと？」
「当時、正親はアートコンペに提出する作品を描き上げたばかりだった。それを見て私は慄えたよ。これは必ず賞を獲る。そうすれば正親は間違いなく家を出て、海外研修に行ってしまうだろう。可愛い正親が、私の元から飛び立ってしまう！ ならば、羽をもぎ取ってしまえばいい。絵が描けなくなればいい。だから私は、倒れている正親をその場に残して立ち去ったんだ」
一瞬、それは一瞬だった。視界が暗転し、次に明度と輪郭を取り戻した時には、侑志の両手はナイフを握っていた。
「あああああああああーーーーーッッ」
眠りと覚醒の狭間で、侑志の声が聞こえた。いや気のせいだろうと再び感覚を閉ざそうとした時、胸の奥がざわりと騒いだ。そして起きろ、早く起きろと促してくる。あれは間違いなく侑志の声だ。これまで聞いたことのない、腹の底から搾り出すような狂乱の叫びだ。
「くそ……身体が……」
身体の自由を奪う薬物の名残りに加え、執拗に繰り返された行為の派生物である澱のような疲労のせいで、四肢が思うように動かせない。それでも行かねばならぬ。先刻の声は尋常ではなかった。
「侑志……そいつを相手にするな……」
正親は何とかベッドから下りると、思い通りにならぬ足を引きずって部屋を出た。
許さない許さない許さない。その一点に収斂された感情のもと、統率された意思はわずかな淀みもなく、刃に宿っていた。胸の前でナイフを握り締める両手に震えはなく、澄み切った双眸は眼前の男の急所を見据える。
「お前のッ、お前のせいで！」
刃先は真っ直ぐ正尚を向いている。にもかかわらず、正尚は怯えた様子もなく、寧ろ嬉しそうに笑っている。さらに挑発的に口元を歪め、
「どうした、構えているだけでは何も起きんぞ」
「黙れ！」
「何をそんなに憤激しているのか。さっきも言ったはずだ。君は私に感謝すべきだと。そうだろう？ 私のお陰で君は正親と出会うことができた。もしあの怪我がなかったら、正親は今ごろ海外にアトリエを構え、新進気鋭のアーティストとして活躍していただろう。教師になぞなるはずもない。もちろん、君などと親しくなるはずもない」
侑志はナイフを握る手に力を込めた。殺意が結集する。それはある種、恍惚とする瞬間でもあった。何もかも打ち捨てて、目の前の男を殺すという純粋な意思に全てが従属する。
「君だって思ったはずだ。正親が怪我をしてくれてよかったと」
「黙れぇぇぇッ」
叫びながら、大きく前に踏み出した。その時。
「やめろ、侑志」
静かな、しかし厳然たる力のこもった声に引き戻され、侑志は足を止めた。しかしナイフは離さない。
「正親さん……」
「そいつを相手にするな」
侑志は激しく首を振る。
「いやだ！ こいつのせいだ、こいつが事故に遭ったあなたを見捨てたせいで、あなたは絵を描けなくなったんだ！」
ナイフを握った手が、今になってがくがくと震え出す。怯えではない、怒りだ。
「許さない、俺はこいつを許さない。全部失ったっていい。俺はこいつをッ……」
すると正親は、かすかに微笑んだ。
「侑志、お前は俺に残された唯一の光なんだ。この男のせいで失うのは耐えられない」
侑志の震えが、ぴたりと止まる。
「あ……あ……」
「戻ってこい、侑志」
カラン、と音をたててナイフが床に落ちる。と同時に侑志が駆け出した。そして正親の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。
「ぅぁぁぁぁーーーん、ぅ、ぇ、ぇぇっ……」
「よし、戻ってきたな」
正親は腕の中の存在を確かめるように呟くと、続けて「帰るぞ」と言った。侑志は何度も何度も頷く。
「まだ身体が思うように動かない。手を貸してくれ」
侑志はさらに大きく頷いて、正親に抱き着いていた腕をほどき、背中に回して支えた。正親は顔を上げて正尚に向かい、
「この家には二度と来ない。親父の呼び出しがあってもだ。藤堂正雪の二代目として、せいぜい精進しろよ。それから、侑志とのことを公にするならご自由に。その代わりやられたらやり返す。こっちにも、あんたがさんざん好き放題してきたことの証拠がある。全部ぶちまける覚悟はできている。刺激的なスキャンダルになるだろうよ」
「ま、待て、待ってくれ、正親───」
「じゃあな」
支え合って立ち去る二人を、正尚は震えながら見送るしかできなかった。
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