One Step Forward
第五話
覚醒は、唐突に訪れた。見慣れぬ天井。起き上がろうと試みたが、四肢が言うことをきかない。意識を失う寸前のことを思い出し、正親はああそうだったなと早々に納得した。
「目が覚めたみたいだな」
視界に現れた男の顔は、どこもかしこも緩みきっていた。口の端から涎を垂らしていないのが不思議なくらいだ。
この程度の卑劣さは、彼にとって日常茶飯事。ある程度は警戒しておくべきだったがもう遅い。俺も甘くなったものだと、思わず笑みがこぼれた。
「何が可笑しい」
「……何も」
舌は辛うじて動く。しかし肝心の手足は鉛に変質したかのように重く、力を入れて何とか数センチ持ち上がるほど。無駄に体力を使うのはやめようと思い、ここから脱出するという選択肢を捨てた。
「ずっと、戻ってきて欲しいと願っていた。それがようやく叶って、本当に嬉しいよ」
もちろん正親は無言を返す。応じるのも馬鹿馬鹿しい。
「私の愛が理解されないものだということは分かっている。それでも私は愛することをやめないよ。無償の愛だ。可愛い正親───」
陶酔しきった口上は途中で遮られた。正尚は緩んだ表情から一転、怒りと不快を隠そうともせず闖入者を睨み付けた。
「何の用だ、正美。協力してくれた連中への礼金は払ったはずだ」
正美は“おお、怖”とでも言いたげに肩をすくめ、
「それなんだけど、あいつら正親兄さんを気に入っちゃったみたいでさ。後で犯らせてくれたら金は要らない、返すって言ってる」
「ふざけたことを言うな！ 金を持ってさっさと出て行け」
「あはは、だよねえ」
正美は「そう言うと思った」と笑い、「ごゆっくり～」と軽い口調で言い置くと部屋を後にした。正尚はしばし尖った視線を扉に向けていたが、やがて正親に向き直り、
「全く、どうしようもない弟だ。お前とは大違い。さて、不粋な邪魔が入ったが……」
水の入った小さなコップに、薄紫の錠剤を溶かす。それを自ら口に含むと、正親の上に覆いかぶさった。
「っ、う……」
鼻を押さえ、口移しで流し込む。無味無臭の液体はしばし口の中に留まっていたが、苦しさには耐えられず正親は嚥下した。全て飲み込んだのを確認してから正尚は口を離し、正親の首筋に顔をうずめてうっとりと囁いた。
「さあ、あの頃に戻ろう。楽しかったあの頃に」
自分の身体が自分のものでなくなるような、意思の制御を離れて勝手に暴れまわるような狂感覚。それは初めてではないが久し振りであることに間違いはない。
すでに二度射精しているにもかかわらず、正親の性器は張り詰めて、先端からひっきりなしに半濁の粘液を垂らしている。
今は“先に達ったお仕置き”などと称して根元とカリの部分を縛められているため、漲るものを解放できず、苦痛と快楽の混ざり合った射精感が、媚毒のように全身を巡っていた。
正尚は時折、先端のささやかな窪みに親指の爪を捩じ込んで、正親の腰が淫らに跳ね上がるさまを愉しんだ。
不必要なほど正親の腰を高く抱え上げてまぐわっているのは、その部分を、生々しい結合の景色を見せ付けるためだ。
大きくＭ字に開かされた脚の付け根に、正尚の赤黒い竿が突き刺さる。激しく出入りするものには、犯す、喰らう、という獣じみた表現が似つかわしい。それは、お前の感じる場所は全て把握済みだと言わんばかりに、正親の筒肉を蹂躙した。
「ぅ……ぁ……」
散々喘がされた声帯は疲弊し、爛れた母音しか出てこない。それでも正尚にとっては極上の耳触りらしく、「いい声だ…」と惚けたように賛美した。
最初は微かに感じられた痛みも疾うに消え失せ、快楽の虜囚になってどのくらいの時間が経過しただろう。淫剤で強制的に蕩かされた身体は嬉々として、兄の陵辱を受け入れた。
腰は深い交合をねだるように淫らに揺れ、へその裏側をなかからズリズリとこすられた瞬間、喉を反らせ全身を痙攣させて射精した。
そんな正親の乱態に狂喜した正尚は、人間であることを放棄したかのようにぐるぐると喉を鳴らして腰を打ちつけ、射精の余韻を残してひくひくと収縮する場所に己の種をぶちまけたのだ。
それは、ほんの数分前のこと。自らも淫剤を服用した正尚のものは、欲望を吐き出してもすぐに隆々と再起し、抜かずにそのまま行為を再開した。
最前に放ったものが圧し出されて、正親の腹から胸を滴る。粘液でコーティングされた肌は絖のように艶めかしい光沢を帯びて、正尚を獣欲をさらに煽り立てた。
「正親……私の……ッ」
荒い呼吸の奥から絞り出される言葉には、煮詰められて赤黒く凝った愛執が淀んでいた。それは、愛は美しいものという幻想を打ち砕き、愛とはおぞましく自己中心的で、我欲に塗れているという究極の真理を露呈していた。
不思議なものだなと、乱れたシーツに喘ぎを染み込ませながら正親は思う。理性はほぼ瓦解し、全ての感覚は官能に侵されていたが、意識のある狭い領域だけはなぜか冴え冴えとしていた。その狭い領域で、正親は彼のことを思う。
好きだの愛してるだの美辞を弄したところで、結局行き着く先はここ、おぞましい執着と自己愛だと分かっていたはず。この家で幼い頃から兄に陵辱を受けたが、そのたびに兄は正親愛している、愛していると繰り返したのだ。
正親にとって“愛している”は、自らの獣性や欲望を誤魔化すための卑劣な言葉以外の何ものでもなかった。なのに。
彼の“好きです”は不思議と心地よい。時には控え目に、時には挑むように、時には泣きながら“好き”と言われるたびに、身体の内側と外側にこびりついた汚れが少しずつ落ちてゆくような気がした。そんな感覚に初めは戸惑ったが、これはこれで悪くない、と思えるようになった。
「ゆ…う……」
喘ぎの隙間からこぼれ出たものに、正尚は敏感に反応した。硬い声で、
「なんだ」
「………」
「今、なんと言った」
詰問に、正親は淡い笑みで返した。対照的に、正尚の顔はキリキリと尖ってゆく。
「別のことを考えてしまうのは、まだまだ足りない証拠だな」
そう言っていったん自身を引き抜き、棚からチューブを取り出した。ゼリー状の中身を二本の指にたっぷり搾り出し、そのまま正親の後孔に突き入れた。
「……っ」
入口の浅い部分から奥に向かって、内壁に塗り付ける。むず痒さがじわぁっと下腹部に広がり、たまらず腰をひねって悶えた。
「う……っく、ぅぅ……」
そして次に襲ってきたのは、むず痒さなどという可愛いものではなかった。足の爪先から脳天まで抜ける電流。皮膚の下であらゆる体液が煮えたぎる感覚。
「あ、あっ、い、いいッ……！」
あそこが、挿入を求めて激しく蠢動しているのが分かる。それを見透かしたのか、正尚の怒張が一気に貫いてきた。痛みと紙一重のビリビリとした快感が、背骨と頚椎を暴力的に揺さぶる。快楽に灼かれた声帯からは、悲鳴すら出てこなかった。
いつの間にか性器の縛めは解かれ、貫かれると同時に射精したようだが、その意識すら飛んでいる。正尚の腰使いはただ激しいだけでめちゃくちゃだったが、粘膜から吸収された淫剤の効果は凄まじく、幾重にも重なる波濤のような快感に心身は呑み込まれた。
正親が完全に意識を手放してもなお、正尚は執拗に犯し続けた。
虫の知らせとか胸騒ぎの類いを、侑志はそれなりに信じていた。
弟の慧志なら『非科学的』のひと言で切り捨てるのだろうが、人間の脳はまだまだ解明されていない部分が多いのだ。目に見えぬ何かを察知する能力が備わっていても、おかしくないのではなかろうか。
教室で自分の席に着いた侑志は思い出す。昨日、正親が帰り際にしてくれたキス。胸を衝かれたのはそれが唐突だったからではなく、切実な思いが唇を通して伝わってきたからだ。
それが何なのか分からないのがもどかしい。ともかく早く正親の顔を見て、安心したかった。そしてあのキスの意味を聞きたい。
別に意味なんかねえよ、きっとそんな答えが返ってくるのだろう。それでも構わない。いつものふてぶてしい、悪態を吐くような口調で言って欲しい。たかがキスひとつで大騒ぎするんじゃねえよ、お子様が───
「えっ……？」
教室がざわついた。無理もない。チャイムと共に入ってきたのは正親ではなく、学年主任の教師だったからだ。
「チャイムは鳴ったぞ。席に着きなさい。藤堂先生は体調を崩されて、暫く休養することになった」
ええ～っ、うそっ、やだぁ、大丈夫かなあ───驚き、嘆き、不安の声が重なり、窓ガラスを響かせた。しかし自分の考えを整理するので精いっぱいの侑志の耳には届かない。
───体調を？ まさか……昨日はそんな様子全く……。
「病気ですか？ すごく悪いんですか？」
生徒の質問に、学年主任は少し困惑した様子で、
「いやそれが……よく分からない。今朝、ご実家の方から連絡があって、暫く休むと言われただけで、容態などは何も。まあ先生たちの方で一度様子を見に行ってくるから、君たちは心配しないで学業に励みなさい」
「藤堂先生がいないと、学業に励む気持ちが起きませ～ん」
女子生徒の言葉に同調する声が次々上がり、学年主任も苦笑いしている。しかしそんなやり取りも、侑志の耳には届いていなかった。
「実家から……」
昨日、あれから正親は実家へ出向いたということか。侑志から、正尚との間で起きた顛末を聞いて、相当な怒りを覚えていたことは間違いない。正尚と話をつけるために実家に赴き、そこで何かが……。
「私ぃ、藤堂先生の実家にお見舞いに行こうかなあ」
「実家がどこだか知ってるの？」
「え～、それは知らないけどぉ……」
周囲の話がようやく耳に入ってきた。侑志は今すぐにでも実家を訪ねたい衝動を抑え、放課後を待った。
まさか、またここに来ることになろうとは。正尚の申し出に対する断りの返事を胸に、この重厚な門を叩いたのはほんの二日前。
しかしあの時は訪問する正当な理由があったが、今回はない。おまけに、正尚からは要注意人物のレッテルを貼られてしまっている。一体何と言えばここを開けてもらえるのか……。
「悩んでてもしょうがない！」
侑志は自分を鼓舞するように声を上げると、呼び鈴を鳴らした。そして家政婦さんらしき女性に来意を告げる。少々お待ちください、と言われてたっぷり五分ほど待たされた挙げ句、再びインターフォン越しに現れたのは正尚だった。追い返される、と身構えた侑志だったが、
『門は開いている。入りなさい』
「は、はい」
正親には近づけたくないだろうに、あっさり許可されて驚いたが、嬉しくないといえば嘘になる。侑志は早く正親に会いたいと急く胸を宥め、藤堂家の門をくぐった。
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