悲恋桜―異説・月に游ぐ―
＜狂亂の章＞
「どうした、浮かぬ顔をして」
躰は間断なく襲う快楽の波に悶えながら、心はどこか遠くを彷徨っている。まるで抜け殻を抱いているかのようだ。
もちろん近江卿には游月の憂いの理由が分かっていたが、そ知らぬ顔で腰を打ち付ける。すでに卿の陰茎に馴染んで久しい游月の秘部は捲れ返り、ぬちゃぬちゃと鳴きつつ絡み付いた。
「恐い……の………この快楽に溺れてしまいそうで………」
卿の機嫌を損ねないよう、精一杯の嘘をつく游月。全てお見通しの卿はフンと鼻を鳴らし、敢えて避けていた奥の膨らみを容赦なく責め始めた。
早く、早く忘れてしまえ、あんな男のことなど―――苛立ちと愛執込めた訴えを、喉の奥で燃え上がらせながら。
「うあッ……あ、ああッ……ン…………」
游月は卿の背中に爪を立て、官能の奈落へ引き摺られぬようしがみ付きながら、何故これが透麻でないのだろうと答えの出ない問いを繰り返す。
あの宴会の夜以来、透麻はぱったりと訪れなくなった。仕事が忙しいのだろうか、執筆に専念しているのだろうか、それとも……それとも……誰か、他のひとを―――
「ぃゃぁっ………ぁ、ぁぁっ………ぁ、ん…………」
違う、絶対に違う。いつか必ず一緒になろう、それは拙い約束だったけど、でも不安を押し退けて信じることができるだけの重みと誠心（まこと）がこもっていたではないか。少し会えなくなっただけですぐに疑いを持とうとするなんて、透麻さんに失礼だ。
そう、一緒に月夜の中庭を散策して、桜の苗木を眺めたのはついこの間の……つい、この間の………ああ、あれからどの位経ってしまったのか、夜を数えるのが恐い…………
「ぁぁ………もっと……もっと激しく…………」
もっと激しく責め抜いて。そして今だけでいいから、心に重くのしかかる不安の澱から解放して―――
「あ、あああああ………と……まさん………」
視界を覆う暗い星々に意識が呑まれる瞬間、游月の唇は瞼の裏に棲む愛しい人の名を弱々しく刻んだ。ゆるゆると閉じられた目から溢れる涙を、近江卿は忌々しげに拭って払った。
「ん、んっ………」
目を開けると、すでに空は白んでいた。曙色の空に、淡い残月が頼りなげに浮いている。まるで不安に怯える今の自分の姿を見ているようでいたたまれず、游月はふいと顔を背けて視界から消した。
「起きたか」
「あ、はい……。今お仕度を……」
「まだ早い。もう少しこの無為の時間を愉しみたい」
游月に異存があるはずもなかった。小さく頷いて、卿の胸に顔を寄せる。
「寒くはないか？」
「はい。温かくて気持ち良うございます」
卿は「うむ」と微かな相槌を打つと、游月の肩を優しく撫でた。そして何故か、大きく溜め息をついた。まるで、己れを鼓舞するかのように。そして何気ない風を装って口を開く。
「暫くは来れんかもしれぬ。娘の結納準備などで忙しくてな」
「まあ。それはおめでとうございます。でも、父親としては複雑な心境でございましょうね」
「いや、三番目の娘だからな。もう慣れた。それに相手は儂の直属の部下でな。なかなか優秀な男だから安心して任せられる」
その時何故か、游月の心臓が大きく跳ね上がった。そんなはずはない。直属の部下は何人もいるはずだ。
しかしどうしても、確かめずにはいられなかった。
「直属の部下とは………お若い方なのでございますか？」
「ああ、まだ若い。榊君というのだが、優秀なだけでなくかなりの男ぶりでな。見合いの場で娘がすっかりのぼせ上がってしまい―――」
「う、う…そ………」
「榊君も最初は渋っていたものの、娘の写真を見たら途端に態度を変えおった。どうやら誰か心に秘める恋人がいたようだが、まあ所詮男とはそんなもの。今ではすっかり―――」
卿は思わず言葉を呑み込んだ。腕の中の游月がガタガタ震え出したのだ。呼吸もままならないのか、喉の奥から苦しげな喘鳴が聞こえてくる。
「夕顔っ、どうした。しっかりせんか！」
游月はぎしぎし音がしそうなほどぎこちなく首を振り、「何でもありません」と答えようとした。しかしその唇から言葉が出ることはなく、「ウ…ア……」と狂った音が漏れ出るのみ。
「ウ……ア……アアアアアア…………」
「夕顔、夕顔っ！」
近江卿は咄嗟に上から覆いかぶさって抱き締めた。そうしないと、このまま狂気の世界へ沈み込んでしまいそうだったから。
そのままどのくらい経っただろうか、游月の震えも徐々に収まってきた。卿はおそるおそる抱擁を解き、游月の顔を上から覗き込んだ。
「夕顔………」
背筋に冷たい戦慄が走る。輝きの失せた瞳は何も映さず、焦点の合わぬ濁った眼差しをふわふわと漂わせているだけ。近江卿が何度名前を呼んでも、その瞳が此岸へ戻ってくることはなかった。
近江卿が帰ると同時に、游月は高熱を出して倒れた。熱のせいか躰も頭も浮遊感に襲われ、夢とうつつが融け合った曖昧な境界上をふわふわと漂う。そうしながらも、游月の意識は不思議な世界に迷い込んでいた。
逆上せた頭が見たただの夢に過ぎない、そう言ってしまえばそれまでだろう。しかしそう断じてしまうには余りに現実感があり、且つ幸せな夢だった。
そこは恐らく、今游月が暮らしているのとは異質の世界。それでもそこで游月は透麻と二人、仲睦まじく生活していた。
透麻は、天井まで届く作り付けの書棚がある部屋で熱心に調べものをしている。そこへ游月がそっと顔を出す。透麻さん、お茶の用意ができましたよ。
すると透麻は顔を上げてにっこり笑い、ありがとうと言って游月を膝の上に呼ぶ。お茶菓子の載ったお盆を机の上に置いて、ほんのり頬を赤らめつつ透麻の膝の上にちょこんと座る游月。
透麻は愛おしさを込めてその躰を抱き締め、今夜の夕食は久々に私が腕を揮いますからね、と囁くのだ。
それはまるで、深い愛情によって結ばれた夫婦のよう。もうひとつの世界の“游月”に同化した游月は、幸せの余り叫び出しそうになってしまう。
ああ……こんな日々がずっと、ずっと永遠に続けばいいのに―――
「―――姫、夕顔姫………」
呼びかけに応えるように、震える瞼をこじ開ける。霞む視界にぼんやり浮かび上がる顔が、徐々に鮮明な輪郭を取り戻してゆく。
「良かった……お目覚めになられて………」
心配そうに游月の顔を覗き込んでいた世話係りは、ほっと安堵の息を吐いて淡い笑みを浮かべた。
「あ……ぼく………」
「はい。高熱にうなされて、三日三晩眠り続けていたのでございます」
「三日も……」
世話係りは頷いて、「重湯をお持ちします」と言って立ち上がった。游月はすかさず手を差し伸べて引き留め、
「あの……僕が眠っていた三日の間に、お客さまはお見えになったの？」
「はい。近江様が心配されて、毎日お越しくださいました」
「近江様……だけ？」
「左様でございます」
上客中の上客が毎日通ってくれたというのに、何か不満があるのかと言いたげに素っ気なく答え、世話係りは部屋を出て行った。
一人残された游月は呆然と宙を見据える。夢の世界が余りに幸せだったから、目覚めた後の現実との落差に心が対応しきれないのだ。
「透麻さんが………けっこんする………」
現実を確認するため、游月は敢えて口に出して呟いた。
「近江卿の……娘と……夫婦に………」
その瞬間、半ば麻痺しかけていた心が苦痛の叫びを上げた。しかし游月は続ける。
「もう二度と………逢うことはできない………」
そう、もう二度と透麻がここを訪れることはない。艶を帯びた低音で游月の名を呼んでくれることもない、優しく潤った眼差しを向けてくれることもない、温かなくちびるを游月の耳に押し当て、媚薬の如き「愛してる」を注ぎ込んでくれることもない、逞しい胸に抱きとめてくれることもない―――
「なぁんにも……なくなっちゃったァ…………あはは、ははッ、あはははは…………」
游月は笑いながら布団を払って起き上がり、よろめきながら中庭へ出ようとした。
全てを失ってしまった今、桜の苗木だけが透麻と過ごした日々の思い出を留めた、唯一の確かなものだった。それに縋ることで、正気を保とうとしたのだ。しかし、
「夕顔姫っ、一体どこへ行かれるおつもりですか。お戻りください！」
重湯を持って戻ってきた女郎が神経質な叫びを上げて駆け寄り、游月の腕を掴んだ。当然ながら、体力が著しく低下している游月は抵抗らしい抵抗もできず、そのまま引き戻されてしまう。
「おね…がい……離してっ………行かせてぇ………」
「いけません！ 大人しくなさっていてくださいまし。姫にもしものことがあったら……。せっかく近江様が身請けを―――」
游月はぴたりと動きを止め、眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いて唇をわななかせ、
「身請け………僕を…………」
「左様でございます。あのような立派な紳士の方が、申し出てくださったのですよ。しかも、夕顔姫のための小さなお屋敷まで用意して。
お分かりですか？ 姫のお躰は、もうあなたお一人のものではないのです。ですから呉々も無理はせず、近江卿のご機嫌を損ねぬよう…………姫？ 夕顔姫っ？」
次々と襲い掛かる絶望の波涛に、ついに游月の心は砕けた。その場に崩れ落ち、辛うじて息をしている程度の浅い呼吸を繰り返す。世話係りの女郎は人を呼びに、慌てて部屋を飛び出した。
「逢わ……なくちゃ………」
再び部屋に一人残された游月は、ひゅうひゅうと苦しげな喘鳴を搾り出しながらも立ち上がり、裸足のまま外に駆け出した。そして庭を抜けて裏木戸から外へ出る。
「透麻……さん………」
もう一度透麻に逢って、そして問い質したい。花火大会の日に交わした約束は、初めからただの戯れだったのかと。まさに夜空を刹那的に彩る花火の如く、遊廓という虚飾の世界に咲いた徒花だったのかと。信じた自分が……愚かだったのかと。
「透麻さん、透麻さん………」
既に日は落ち、冷たい夜風が吹き抜ける港町を、游月は行く当てもなく彷徨う。自分がどこへ向かっているのかも分からない。当然だ。游月は、透麻がどこに住んでいるかも知らないのだから。
「どこに……いるの、ねえ………」
游月は思い知った。何より確かだと信じていた絆が、どれほど脆く、一方的なものであったかを。
「透麻さん……どこにも………いない………」
その時どこからか、桜の呼ぶ声が、聞こえた。
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