誰がために桜は咲く
26.
ただいま、と室内に向かって告げる声が微かに震えているのが自分でも分かる。まさかもう一度ここに戻ってこれるとは思ってもいなかった。
昨日の今ごろは、自分の部屋で一人、翌日に控えた大一番を思ってひたすら緊張していた。二階堂に言うべき言葉を必死に考えて、途中で泣き出したりしないよう自分に気合を注入していたのだ。
それからたった一日しか経っていないというのに、今こうして二階堂の部屋にいる。帰宅するまでの車内でも夢見心地だったけれど、靴を脱いで部屋に上がると余計にふわふわして、本当に夢を見ているみたいだ。
「珠里、なにボーッとしてんだよ。こっちだぞ」
「う、うん……」
ほわんと頷いて、ともかく二階堂の後についてゆく。すると二階堂は廊下を真直ぐ進んで扉の前で立ち止まり、
「ほら、ここだろ？ お前の部屋」
「え？」
二階堂は苦笑を浮かべて、
「もう忘れちまったのか？」
そう言って扉を大きく開けた。
「あ……僕の……部屋………」
そう、そこはかつて珠里が使っていた部屋。しかも出ていった時と全く同じ、珠里が持ち込んだ本やお気に入りのクッションまでそのままにしてあった。
「何だか……片付けられなくてな。お前が出ていった時のままにしてある」
二階堂の言葉に背中を押されるように、珠里はふらふらと部屋の中へ入っていった。と同時に、途切れていた時間の端と端がすぅっと繋がってゆく。
「ぅっ……ぅぇ、ぇっ………」
泣いているのがばれないように嗚咽を押し込め、両手で何度も涙を拭う。もちろん二階堂を誤魔化せるはずもなく、背後からふわりと抱き締められ、
「泣くなよ」
「……泣いてないッ」
二階堂は「そうかそうか」と楽しげに返し、頭のてっぺんに口づけを落とした。そして殊更明るい声で、
「さあて、風呂でも入るか。外はけっこう寒かったからな。珠里、一緒に入るか？」
「なッ……冗談じゃない、誰がっ」
「何でだよ。いちゃいちゃお風呂タイムは新婚生活の基本だぜ？」
「誰が新婚だっ！」
大声で返して二階堂の身体を突き飛ばし、どかどかと荒々しい足音をたてて部屋を出ていった。二階堂は俯いて肩を震わせ、
「クッ、クククク………ほんとに可愛いヤツ」
湧き上がる本音をそのまま素直に言葉にした。
「はぁぁ〜〜」
珠里は濃厚な溜息をついて、ソファの上で膝を抱えたままころころ転がった。と思ったらぴたっと止まり、風呂場の方に何気なく目を向ける。そしてまた、溜息をつく。
少し前、二階堂は「じゃあ一人淋しく入ってくるかあ」と言い残して風呂場へ向かった。冗談めかした言葉ではあったけれど、そう言う表情は少し淋しげで、珠里の胸はちくんと痛んだ。
頭の中では二人の小さな珠里が言い合いをしている。一人は「恥ずかしいから嫌だ」と言い張り、もう一人は「いいじゃん、お風呂ぐらい一緒に入れば」と肩を竦める。
しかし決着は案外すぐに着いた。珠里はぴょんとソファから飛び下りて真直ぐ風呂場へ行き、素早く服を脱いで裸になった。
そう、こういうのは変に恥ずかしがらず、堂々としてればいいんだ。珠里は自分に言い聞かせ、すり硝子の扉を開けて浴室へ入った。そして、浴槽の中できょとんと目を見開いて驚きを露わにする二階堂の隣に、少し間隔を空けて身体を沈めた。
二階堂は暫し黙って珠里の取り澄ました横顔を眺めていたが、やがて静かに近付いて浮かれた口調で、
「そうかそうか。やっぱりいちゃいちゃお風呂タイムがやりたかったんだな」
すると珠里は真直ぐ前を睨んだまま逃げるようにすすすと移動しつつ、
「な、何ゆってるの。そんなんじゃないよっ。えと……そう、エコ。エコだよっ」
「エコ？」
「二人一緒に入れば、余計な電気とかガスとか使わないで済むでしょ？ だから……」
二階堂は「なるほど」と声を上げ、大仰に頷いた。
「確かにそうだな。うん、素晴らしい。さすがは珠里だ」
そう言いながら再び珠里との間隔を縮める。そして嬉しそうに、
「じゃあこれからは毎晩一緒に入ろうな」
「冗談だろっ、毎晩なんてそんな―――」
「なんでだよ。エコだろ。継続は力なり。小さな積み重ねが地球を救うんだ」
自分から言い出した“エコ”を楯に取られては何も言い返せず、珠里はむーっと黙り込む。二階堂はにやりと笑って、
「決まりだな」
そう言って珠里の両脇に手をつき、上から覆いかぶさる。いつの間にか浴槽の隅に追い込まれていた珠里は逃げ場を失い、今さらながらあたふたした。
「ちょっ……どけよ！」
「ん〜〜、どうしよっかなあ」
のんびりした口調とともに、二階堂の顔が近付いてくる。半ば観念した珠里は、内心の動揺を抑えてじろりと見上げた。途端に心臓が大きく跳ね上がり、頭にカーッと血が上る。
「ふわ……ぁ……」
こちらを見下ろす二階堂は、桜舞う夜を背景にしていた時とはまた違った美しさを湛えていた。
湿気を含んでなよやかにうねる髪は額や頬にまとわりつき、微かに上気した肌は浴室の照明を跳ね返して濡れた光沢を見せ、長い睫毛はしっとりと撓んで優美な曲線を描く。
妖艶、淫靡としか形容しようのない細部に対し、首から肩へのラインは精悍な雄の骨格そのもの。柔と剛の美を兼ね備えた彼の身体をこうして鑑賞しているだけで喉の奥が疼き、鼓動がどんどん速まってくる。
―――ど、どうしよ……も、だめ………
「珠里っ？ おい、大丈夫かっ」
「だいじょうぶ……じゃないかも……のぼせたぁ………」
かくんと後ろに首を折り、浴槽の縁にぐったり凭れかかる珠里。その顔は真っ赤で、目は虚ろ。さすがに二階堂も慌ててその身体を抱き上げ、洗い場へ。そしてぬるいシャワーを掛けて冷ましてやったのだった。
「まぁったく、内風呂でのぼせるなんて小学生かお前は」
「う、うるさぁい……」
弱々しい抗議を呟いてころんと反転し、背中を向ける。寝室のベッドの上。結局二階堂に身体まで洗ってもらい、柔らかなバスローブにくるまれてここまで連れてきてもらったのだ。
だから強く言い返すこともできず、こんな不貞腐れた態度で恥ずかしさを誤魔化すしかなかった。背中を向けたままちぢこまっていると、ベッドがほわんと波打った。そして背中が温もりに包まれる。
「珠里、気分はどうだ？」
本気で心配している声。珠里は素直に「もう大丈夫」と答え、二階堂の方に向き直って笑顔を見せた。
二階堂も微笑みを返し、額にかかった珠里の髪を優しく梳く。ささやかな愛撫が余りに心地よく、珠里はうっとりと目を閉じた。
二階堂の指先はゆっくりと移動して珠里のまぶたをなぞり、耳たぶを掠め、頬を撫でる。そして唇に触れると、まるでキスを誘うかのようにふわりと綻んだ。
二階堂は思わず目を細め、無邪気でもあり艶かしくもある半開きの唇に自分のそれを重ねた。すぐさま舌を入れ、ふっくら瑞々しい珠里の舌にこすりつける。ざらざらした表面が擦れ合うたびに、珠里は「くふぅ…ん」と鼻にかかった喘ぎを漏らして腰を揺らした。
その控え目な反応が可愛くて、二階堂は執拗に舌を愛撫し吸い上げた。ベッドが微かに軋む音、唾液の混ざり合う濡れた音、重なった唇の端から吐息が漏れる音、それら全てがこれから始まる閨事の先触れめいて、広い寝台をゆるりと覆っていった。
「にかいどうさぁん……」
二人分の唾液で蕩けるように光る唇を震わせて、珠里が珍しく甘えた声を出した。そのまぶたや鼻の頭にちょんちょんと口づけを落としながら、二階堂はからかい混じりに問う。
「ん？ なんだ？」
「あの、あのね……えと……」
理性や羞恥心が邪魔をして、直截な欲望を伝えることができない。しかしそんな珠里の煩悶も、二階堂には筒抜けだった。ククッと喉を鳴らして珠里のささやかな股間の膨らみを手のひらで包み、
「ここが熱いんだろ？」
腰に響く低音で囁く。珠里の下肢は意思に反してぶるっと震え、膨らみはとくとくと脈打ってさらに形を変え始めた。
二階堂は会心の笑みと共に、バスローブの上からぐにぐにと強めに揉む。珠里は全身をS字にくねらせて、「いや、いや、」と甘い拒絶の言葉をこぼす。二階堂はしたり顔で頷いて、
「そうか。やっぱりじかに触って欲しいんだな。分かった」
バスローブの前合わせから手を突っ込み、微妙な角度に勃ち上がった桜色の性器に指を絡めた。そして薄い包皮ごと上下に滑らす。それは手の中で一途な鼓動を刻みながら、むくむくと膨張していった。
「ぁっ……ゃっ、ぁ、ぁ………んっ………」
珠里の唇からこぼれる蜜のような喘ぎが、シーツの複雑な襞に吸い込まれてゆく。性器の先端からは正真正銘の蜜がこぽこぽと溢れ、二階堂の手をしとどに濡らした。
「お前、ぐしょぐしょだぞ」
二階堂は楽しげに浮ついた声でそう言いながら、性器を掴んでいた手を下方へ滑らせて柔らかな茂みを撫で、さらにやわやわと袋を弄び、そして谷間の奥へ進めてまだ硬い蕾をなぞった。
孔の周囲に寄った細かな襞を指先で弾くと、薄い皮膚がきゅっと窄まって指に吸い付く。その素直な反応が可愛くて、二階堂は同じ場所を執拗に嬲った。
「やだぁ……も……早く入れてよぉ………」
焦れったく陰湿な責めに、珠里は涙をにじませて抗議した。しかし二階堂はまだ入れようとはせず、ぬるぬると撫でながら、
「急かすなよ。せっかくの初夜なんだ、たっぷり時間を掛けて愛させてくれ」
「なっ……なんだよ初夜って！」
二階堂の言葉に珠里は顔を赤らめ、それを誤魔化すため必要以上の大声で質した。対して二階堂はさらりと答える。
「初夜だろ？ 晴れて一緒に暮らすことになった初めての夜なんだから。違うか？」
「そういうのは初夜ってゆわないんだよ！ ば、ばかみたい、浮かれちゃって」
冷たく突き放したようにそう言って、ぷいっと横を向く。しかし、さっきより一段と紅く色づいた頬が本音を物語っていた。
二階堂は含み笑いとともに耳許へ顔を寄せて、微かに毛羽立った上質のテノールで囁く。
「本当は死ぬほど嬉しいくせに」
「な…ん……」
「泣きたいほど嬉しいくせに。そうだろ？ ん？」
そう、二階堂の言う通り。嬉しくて嬉しくてたまらないのに、肝心な時に素直になれない。顔を背けて憎まれ口を叩いて―――
「そ、そうだよッ、でもしょうがないじゃん、これが僕なんだからっ」
半ばヤケになって叫ぶ珠里。顔を正面に戻して二階堂を睨み付け、
「直さなきゃいけない悪い癖だって分かってる。でも、でも、ダメなんだもん……」
目の縁が紅く潤み、やがて瞳全体が涙の菲膜に覆われてゆく。すると二階堂は、目尻に唇を押し当てて涙を吸い取り、
「いいんだよ、お前はそのままで。無理して素直になろうとしなくていい。憎まれ口やそっぽを向いた横顔の奥から真意を読み取るのが俺の役目だ」
「二階堂さん……」
「だからもう泣くな。お前が泣くのは気持ちいい時だけだ。分かったか、こら」
そう言ってつぷりと指先を埋め込む。待ち望んでいたささやかな刺激に珠里は図らずも「ひゃん」と声を上げ、後ろをきゅぅっと締め付けた。二階堂は「おお」と感嘆の声を上げ、
「ゆっくりほぐしてやるからな」
そして言葉通りゆっくり指を動かして中を掻き回し始めた。
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