誰がために桜は咲く
20.
「天海さん？ 何をしてらっしゃるのですか？」
「夕食の仕度です」
背中を向けたまま、僅かに強張った声で答える珠里。寒河江は大きく瞬きして、
「失礼しました。お腹が空いてらしたのですね。今すぐ私が―――」
「けっこうですっ。今日は僕がやりますから、寒河江さんはテレビでも見ててください」
「はあ……」
寒河江は間延びした返事を返して、暫し珠里の仕事を眺めていた。が、自分が手出しする必要がないと分かると、目を細めて「では、よろしくお願いします」と言って、だし汁の匂いがほわほわ漂うキッチンを後にした。
二階堂の部屋の前で、珠里はいったん深呼吸をした。次に手にしたお盆をひとまず床に置き、扉を開ける。そして再びお盆を抱えて室内に入っていった。
二階堂はうとうとしていたのか、珠里の気配を察してふっと目を開けた。そして何か言おうと唇を開いたが、それに先んじて珠里が「ご飯です」と強張った声で告げた。
「あ、ああ」
その勢いに何となく気押され、二階堂はたじろいだ。そうするうちに珠里はベッドに近づいて、サイドテーブルの上にお盆を置いた。その上には、小さな土鍋が載っている。珠里が蓋を外すと、白い湯気と共に上質な出汁の匂いが立ちのぼった。
「これ、僕が作りました」
「お前が？」
「そうだよ。食べたくなかったら食べなくてもいいからっ」
ほとんど喧嘩腰で言い置いて、くるりと背中を向ける。二階堂はすかさず引き止めて、
「おい、俺は奈智に頼めと言ったはずだぞ」
その言葉に珠里はびくんと肩を揺らし、二階堂に向き直って全身で叫んだ。
「何だよッ、奈智が奈智が、って！ 僕だってこれくらいはできるんだから！ レンジで温めるしかできない誰かと違って」
顔は真っ赤に火照り、目尻にじんわり涙が浮かんでいる。それでも強気な態度は崩さない。豪快に鼻をすすり上げて、
「僕だって寒河江さんみたく傍にいたいし、看病したい。なのにあなたは口を開けば書け書けばっかり！ も、やだ！ バカッ。もう心配なんてしてやんない！！」
自分でもむちゃくちゃだと呆れてしまうような捨て台詞を残して、珠里は部屋から飛び出した。
引き止めることもできず、開け放しの扉をただぼぅっと眺めていた二階堂だったが、やがて嬉しいような困ったような笑みを浮かべつつ、珠里が作った鍋焼きうどんをゆっくりと食べ始めたのだった。
一応パソコンの電源は入れたけれど、何も書く気なんて起こらない。珠里は机の上に頬杖をついて、泣いたせいで重く腫れた目を時折こすった。すると扉が二度鳴って、寒河江が控え目な声で呼びかけた。
「天海さん、お仕事中失礼します。坊っちゃまが部屋まで来て欲しいと。お願いできますか？」
珠里の心臓はどくんと大きく鳴ったが、努めて平静を装って「分かりました」と素っ気なく答えた。そして二階堂の許へ。一応ノックをして部屋に入ると、二階堂はかなり快復したのかベッドの上で身体を起こして、「よお」と珠里に向かって手を上げた。
珠里はむっつり黙り込んだまま、とことこと近づく。呼ばれたから来てやったんだ、と言わんばかりに。そんな珠里を二階堂は楽しげに見上げて、
「鍋焼きうどん、旨かった。ありがとな」
「……食べたの？」
「ああ。一気に食った。ほら、突っ立ってないでそこに座れ」
珠里は素直に従った。ベッドサイドの椅子にちょこんと腰かけて、二階堂をじっと見返す。美味しかったと言ってくれたけれど、簡単には本音を言わない二階堂のことだから裏があるかもしれない。そんな疑念が伝わったのか、二階堂は苦笑を浮かべて、
「本当に旨かったって。そんなに俺の言うことが信じられないか？」
「だって……寒河江さんが作ったやつの方がいいんでしょ？」
そう言ってぷいっと横を向く珠里。すると二階堂はすかさずその手を掴んで、自分の方へ引き寄せた。思いがけぬ二階堂の行動に反応できず、珠里は「ひゃぁ」と間抜けな悲鳴を上げて胸の中に倒れ込んだ。
何するんだよっと声を上げようとしたが、久しぶりの温もりが抗議の言葉を蕩かしてしまった。胸にぴったり押し当てた頬が、徐々に火照ってくる。しかも、胸に触れていない方の頬を大きな手のひらで撫でられて、さらに真っ赤に色付いた。
「ったく……風邪をうつすかもしれねえから、本当はこういうことしたくなかったんだ」
「じ、じゃあしなきゃいいだろっ」
「仕方ねえだろ。お前が可愛いことしまくるから、我慢できなくなったんだ」
珠里は自分の意志とは関係なく鼓動が速まるのを感じ、必死に言い聞かせた。こういう甘い言葉に逆上せちゃだめ、と。
「べつに……可愛いことなんてしてないけどっ」
「そういう反応が可愛いんだよ」
「嘘だ。生意気でひねくれ者のガキって思ってるくせに」
二階堂は笑って、「分かってるんじゃねえか」と楽しげに応じた。珠里はますますむくれたが、表情とは裏腹に甘えた仕草で腕を巻き付ける。そして自分から身体をすり寄せた。二階堂は耳許で、
「そんなに……看病したかったのか？」
「そうだよ。悪いっ？」
「そんなに心配してくれたのか？」
珠里はキッと眦を決して見上げ、
「当たり前じゃないか！ 僕のせいでこんなことになって、熱出して苦しんで……。なのに二階堂さんてば寒河江さんにばかり頼って、僕のことはまるで邪魔者みたいに追い払って。ほんとはずっと傍にいたかったのに……」
「はは。お前、奈智に妬いてたのか」
「う、うるさぁい……」
二階堂に指摘されて、確かにこれでは寒河江に嫉妬していると思われても仕方ないと自覚した珠里。途端に恥ずかしさが込み上げて、じたばたしつつ顔を強く押し付けた。
「暴れるな、こら」
二階堂に叱られて、しゅんと項垂れてしまう。やがてか細い声で、
「そう…だよ。寒河江さんに嫉妬してた。だってなんか……僕が割り込めない空気が二人の間にあるような気がして……寒河江さんて、二階堂さんのこと……す、好きなのかなあ、って」
「バカだな。そんなんじゃねえよ。あいつは仕事として俺の世話をしているだけだ」
二階堂の答えは明快だった。特別な含みも感じられない。しかし、だからと言って寒河江も同じとは限らない。
昨夜、風呂場で目にした光景がふと頭をよぎる。床に跪き、濡れた二階堂の肌を愛情込めて一心に拭う寒河江―――
「でも……いくら仕事だからってあんな風に身体拭いてあげたりとか……」
呟いてしまってから、珠里は慌てて口を閉ざした。二階堂は驚いた様子だったが、すぐに淡く笑って、
「なんだ、あれを見てたのか」
「う、うん……覗くつもりじゃなかったんだけど……」
「別に構わない。そうだな、確かに他人から見たら異様な光景かもしれねえな。俺も奈智も慣れてるから特に何も感じないけど。ま、ガキの頃からの習慣だ。
言っとくが毎日あんなことしてるわけじゃないぞ。あの時は熱でふらついてたから、手伝ってもらっただけだ」
「そか……」
胸の痞えが少し下りたような気がする。珠里はほっと息を吐いて表情を緩めた。二階堂はその頭を撫でながら、
「今度は奈智じゃなくてお前にやってもらおうかな」
「や、やだよっ。なんで僕が……」
「うわ、冷てえ。そういやお前、俺となんか二度とヤリたくないって豪語したよな。うう、淋しい。つまりこの前のがお前との最後の情事ってわけか」
弱々しく呟いて、わざとらしく溜息をつく。そして、
「やっぱり九条のパーティーで発散するしかねえかなあ。今度九条センセに頼んで、可愛くて素直な美少年を用意しといてもらうか」
珠里の神経を逆撫ですることを言って、二階堂は秘かにその反応を待った。「可愛くなくて悪かったな！」と暴れるか、真っ赤な顔に涙をにじませて「好きにすればっ」とそっぽを向くか、それともむっつり黙り込むか―――
「……ね、二階堂さんにとって僕は何？」
「え？」
想定していたどの反応とも異なる言葉を返されて、二階堂は困惑した。何わけの分からないこと言ってんだよと笑い飛ばすこともできたけれど、珠里の真剣な眼差しにはそういった誤魔化しを許さない強い力がこもっていた。
二階堂の不審を察した珠里は僅かに表情を緩めて、
「突然ごめん。質問の仕方を変えるね。二階堂さんは、僕のことをどう思ってるの？」
「どう思ってる？ つまりそれは―――」
「育て甲斐のある新人作家の一人だと思ってくれていることは分かる。でも僕が訊きたいのは……」
濃厚なためらいを引きずったまま、珠里はいったん口を噤んだ。しかしすぐに決然と口を開き、
「僕は前に一度、ボールを投げました。けれどあなたは返してくれなかった。聞こえない振りをして、そのまま流してしまった」
そう言って二階堂を見上げる双眸は、微かに潤んでいた。しかしそれは同情を誘うような泣き顔ではなかった。強い眼差しは、ただ純粋に真実を求めていた。
そう、確かに珠里の言う通り、二階堂は一度逃げた。
この部屋で初めて珠里を抱いた夜、腕の中で珠里は囁くように、しかし想いを込めて「好き」と告げた。その告白を二階堂は受け入れることも拒絶することもせず、するりとかわして“なかったこと”にしたのだ。
自分の狡さは重々承知していた。さらに卑怯なことに、そうするのが現段階での最善なのだと自分を誤魔化し、勝手に猶予期間を設けて逃げ道を舗装した。いつかは答えを出さねばならないと分かっていながら。
「二階堂さん、答えを……ください」
二階堂の逡巡を見透かすかのように、珠里は答えを求めた。二階堂は迷った末、もう一度逃げ道を作った。
「俺は見ての通り、いい加減な人間だ」
二階堂の言わんとすることをすぐに察した珠里は、くすっと笑って、
「そんなの分かってる」
そして姿勢を正し、二階堂の胸にそっと両手を置いた。
「僕は将来の約束が欲しいわけじゃない。あなたに枷を嵌めたいわけじゃない。ただ……今の答えが欲しいだけ」
珠里の真直ぐな言葉は、二階堂の煩悶をさらに深いものにした。
「お前は……大人だな。俺なんかよりずっと……」
力ない笑みをこぼし、そう言うのがやっとだった。あくまで編集者として珠里に向き合うべきなのか、それとも人間として、一人の男として己の感情に忠実に生きるべきなのか。どちらの覚悟もできていない。中途半端な、どっちつかずの自分がもどかしい。珠里はすでに答えを出しているというのに、自分は逃げてばかり。
「俺は……」
そう言ったきり、熱のせいで少し乾いた形の良い唇は止まってしまった。そして珠里の視線から逃れるように目を伏せる。
「二階堂さん……」
珠里はすでに後悔していた。こんな風に、性急に答えを求めるべきではなかったと。“その時”が来れば、答えは自ずから明らかになるものなのだろう。
「二階堂さん、ごめんなさい。こんな……あなたが弱っている時に余計に疲れさせるようなことを言って」
珠里は二人の間に生じた重い空気を払うように軽やかに笑い、
「それに僕も今は、執筆に専念しなくちゃ。あなたが掘り起こしてくれたテーマに正面から向き合って、それを昇華させるような作品を書いてみせる」
そう言うと、柔らかな曲線を描いた唇を二階堂の唇にそっと押し付け、ベッドからぽんと飛び下りた。
「また鍋焼きうどん作ってあげるね。それじゃ、お休みなさい」
鼓膜を優しく慰撫するような声で言い置いて、珠里は部屋を出ていった。
二階堂は暫く身じろぎせず、珠里のいなくなった虚ろな空間を眺めながら、答えの出ない問いを弄び続けた。
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