誰がために桜は咲く
16.
「僕は珠里の母親の恋人でした。彼女は若くて美しく、奔放な女性で、夫を早くに亡くしてからはいつも複数の恋人を持っていました。彼女が僕のように大した取り柄もない男と付き合ってくれたのが不思議ですが、まあ色んなタイプの男を経験してみたかったのでしょう」
祐介の話は、自虐的な言葉から始まった。二階堂は黙って耳を傾ける。
「彼女は自宅に恋人を連れ込んで、半同棲のような生活をすることもありました。そうするうちに、息子である珠里に目を付ける者も少なからず現れたようです。二階堂さんもご存知の通り、珠里も相当の美少年ですからね。母親の不在中、彼らと、その、そういう関係を持つこともあったようです」
「気を使わなくていい。真実を包み隠さず話して欲しい」
祐介は神妙に頷いて、続けた。
「それがいわゆる性的虐待と呼ぶべきものなのか、それとも合意の上での行為だったのか僕には分かりません。ただ、彼らのそういった行為について知った珠里の母親は、息子を守るどころか……進んで息子の身体を男たちに差し出し、見返りに金を受け取るようになったのです。まるで、売春の斡旋です」
「まるで、じゃない。売春斡旋そのものだ」
言いながら二階堂は、喉の奥で叫んだ。これだ、間違いない。珠里が腹ん中に抱えている“怪物”。容易に吐き出すことのできない情念。あいつが本当に書きたいもの。書かねばならないもの。
「そう…ですね。仰る通り、売春斡旋そのものです。子供を自分の所有物と考えている親は最近多いようですが、その考えが行き着く極限の行為と言えるでしょう。僕はこの事実を、珠里が家を出てから知りました。彼女は悪びれることなく言い放ちました。もう少し稼いでから出て行ってくれれば良かったのに、と」
その時のことを思い出したのだろう、祐介は眉間を険しく寄せて、苦しげに吐き出した。
「僕は激しく後悔しました。どうして気付いてやれなかったんだろう。もっと早く何とかすることができただろうに。そして、こんな女と長い間関係を持っていた自分に嫌悪を抱きました」
「……そういえば、珠里は言っていたな。母親の恋人で自分に優しくしてくれたのは、あなただけだったと」
祐介はくしゃりと顔を歪め、唇を噛み締めた。肩を震わせて、込み上げる感情に耐えている。二階堂は黙って、彼が落ち着くのを待った。やがて、
「そ…んなことを言ってくれたんですね。僕の方こそ、一緒にいれて楽しかった。兄のように慕ってくれて……一緒に古本屋を巡って………」
祐介はふぅっと大きく息を吐き出して、思い出の余韻を払った。そして二階堂を真直ぐ見据え、
「きっかけは何であれ、珠里があの家を出たのはいいことだと思います。二階堂さん、珠里のことをよろしくお願いします。『幻想小説』に掲載された珠里の作品、読みました。素晴らしかった。九条先生の同人誌に載った『絳い月』にも衝撃を受けたけれど、さらに飛躍的な進歩を遂げていると感じました。きっとあなたの影響なのでしょう。これからも、彼を見守ってあげて下さい」
深々と頭を下げる祐介から感じるのは、珠里への大きな愛情だった。それに引き替え自分は、珠里の傷付いた心を思い遣りながらもどうやってこれを書かせようか頭を巡らせている。
仕方ない、これが俺の“愛情”なんだと宥めつつ、二階堂はそんな自分への嫌悪を抑えることができなかった。
つくづく、因果な職業だと思う。傷を癒すどころか、傷を意識の表層に引っ張り上げて瘡蓋を剥がし、もう一度正面から向き合わせようというのだから。
「……分かった。あんたの想いを無駄にはしない」
何が珠里にとっての幸せなのか確信が持てないまま、二階堂はそう答えるしかなかった。
「お帰りなさいませ」
社長秘書から家政夫となって久しい寒河江の出迎えに、二階堂は「ああ」と応じて上着を渡し、お決まりの言葉を掛けた。
「あいつはどうしてる？」
「お部屋にいらっしゃいます」
「飯は？」
「まだです。全然お腹が空かないそうです」
そう言って意味深な微笑みを浮かべる寒河江をじろと睨んで、
「飯の前に、あいつと話すことがある。奈智、もう帰っていいぞ」
「分かりました。お食事は、温めればいいだけになっております。珠里さんにしてもらって下さい」
「温めるぐらい俺でもできる」
二階堂は不貞腐れた調子で言い返して、珠里の部屋へ向かった。一応ドアをノックして、中に入る。珠里はパソコンの前に座っていたが、モニターは真っ黒だった。
「あ、お帰りなさい。考え事してたから気付かなかった」
「いや、別に構わない。それより珠里、ちょっといいか？」
「え？ う、うん……」
こんな風に、改まって会話を持ちかけられるのは珍しい。珠里は自分でも気付かぬうちに背筋を伸ばして、膝の上に両手を揃えていた。
「今日、長谷川祐介に会った」
「えっ……」
予想もしていなかった言葉に、珠里は口を半開きにしたまま絶句した。しかし二階堂は構わず続ける。
「俺に会いに、社まで来たんだ。色々と話をした。もちろん、全てお前のことだ」
「そ、そうなんだ、祐介さんが……」
怯えた様子で俯く珠里。彼がまだ祐介に対し負い目を感じていることは明らかだった。
「何か……僕のこと言ってた？」
「ああ。お前のことをとても心配していた。そして、俺に頭を下げたぞ。珠里のことをよろしくお願いしますと言って」
さらなる驚きに襲われた珠里だったが、突然顔を歪めて今にも泣き出しそうな声で、
「そんな……嘘言わないでよ。二階堂さん、僕に気を使ってるんだろ。らしくないよ」
「らしくないことはしねえよ。気を使うとか遠慮するとか空気を読むとか、俺が一番嫌いなことだ。彼は今、バイトをしながら介護福祉の勉強をしていると言っていた。とても充実しているように見えたぞ」
「ほんと…に？」
「嘘言ってどうするんだよ。珠里のお陰で、自分の才能に見切りを付けることができたとも言ってたな。俺の見たところ、素直で真面目な青年だ。お前に夢を潰されたなんてうじうじ恨むような人間には見えない。違うか？」
珠里は双眸に涙をいっぱい溜めて、二階堂の言葉ひとつひとつを心に吸収した。そして熱く震える声で呟いた。
「祐介さん……ありがと………」
「まぁったく……だから言っただろ？ 自分を責めるな、って。分かったか、こら」
珠里はぐすんと豪快に鼻をすすり上げて、大きく頷いた。それから両手で交互に涙を拭うと、顔を上げてふわりと笑った。二階堂が息を呑むほど美しい笑顔で。そして、
「二階堂さん、ありがとう」
「珠里……」
この時、ほんの一瞬だが二階堂は、これ以上何も触れずに済ますべきではないかと思った。文学？ 傑作？ そんなもの、この笑顔に比べてどれほどの価値があるのかと。
しかし二階堂は迷いを振り切って、話を核心に進めた。
「話はこれで終わりじゃない。彼から聞いたぞ。お前、母親に売春を強要されていたんだな」
幸せそうに輝いていた珠里の顔が、険しい音を立てて凍り付いてゆく。その痛ましい変化を、二階堂は挑むように正面から見据えた。
「母親は“客”となる男を家に連れてきてお前に無理やり相手をさせ、金を取っていた。そうだな？」
珠里は軋む音が聞こえそうなほどぎこちない動作で首を振り、
「ち…がう……あれは……あれは僕が好きでやって………」
「最初は、お前の美しさに目を付けた母親の恋人たちが相手だった。しかし、それを知った母親はお前をそういった淫らな手から守るどころか、金と引き替えに進んで差し出し、そして―――」
「仕方なかったんだ！ 父さんは借金を残して早くに病死した。それを返済しながらたった一人で僕を育てるため、母さんは必死だったんだ」
頬を紅潮させ、二階堂に噛み付かんばかりに母親を擁護する珠里。その姿は、母を想う健気な子供そのものだった。
しかし二階堂はそんな感傷には惑わされないとばかりに、双眸に冷徹な輝きを張り付けて珠里を見据える。それでも珠里は弁護の言葉を続けた。
「僕はまだまだ子供で、そんな母さんに何もしてあげられない。バイトで稼いだお金なんて高が知れている。だから……だから仕方なかったんだ。あれしか方法はなかった。僕だって納得してる。母さんは悪くないっ」
いつだったか、作品を奪って自分のものにしようとした九条を庇おうとした珠里。その時の姿と重なって見える。それでもやはり、二階堂の冷ややかな態度は崩れない。
「本当にそう思っているのか？」
冴え冴えとした二階堂の声が、火照った珠里の頭に静かに響く。珠里は咄嗟に答えることができず、顔を強張らせて二階堂を見返すばかり。
「本当に、母親は悪くないと思っているのか？ 本当に彼女を憎んではいないのか？」
「あ……あたりまえじゃ……ないか………母さんを憎むなんて……そんな………」
畳み掛ける二階堂に対し、珠里はおどおどと視線を泳がせつつ何とか答える。しかし、先刻母親を擁護した時の勢いはなかった。
二階堂はそれ以上追及はせず、別の方法で珠里の心に踏み込んでいった。
「分かった。ならば珠里、お前が初めて男に身体を売った時のことを思い出してみろ。その時の感覚や感情をできるだけ鮮明に」
「な、なんでそんなこと……」
「嫌なのか？ お前も納得した上で、母親のためにやったことなんだろ？ だったらいいじゃねえか。ほら、思い出してみろよ。相手はどんな男だった？ ちゃんと満足させることができたか？ 終わった後、母親はお前に何て言った？」
「や、やめ……やめてよ………」
「男に散々弄ばれ、鉛のように重い身体を叱咤して必死に起き上がろうとするお前に、母親は何て言った？ 優しい労りの言葉を掛けてくれたか？」
珠里は両手で顔を覆って、椅子の上でうずくまってしまった。華奢な肩がさらに縮んで、もうやめてと訴えるかのように震えている。二階堂はゆっくり立ち上がって近付き、
「いや、優しい言葉なんて掛けてくれなかっただろう。自分が強要したにもかかわらず、汚らしいものでも見るような目付きで一瞥しただけ」
「ゃぁ、ぁぁぁぁぁ…………」
「それでもお前は、母親の命令に従った。捨てられたくなかったから。頑張ればいつかきっと認めてもらえると、愛してもらえると信じていたから。しかし―――」
二階堂はちぢこまる珠里の身体を抱き締め、耳許で残酷な“真実”を伝えた。
「珠里、お前は疾うに捨てられてたんだよ。どんなに頑張ったって無駄だ。本当は気付いているんだろう？ 本当は、母親が憎くて憎くてたまらないんだろう？」
珠里の震えがぴたりと止まった。二階堂は抱き締める力を強め、こくりと喉を鳴らした。さあ来い。全て吐き出せ。全て受け止めてやる。
「何が……母親だ……あんな女っ………」
二階堂の肌がぞくりと粟立った。珠里がずっと抑え込んでいた“怪物”が、今、ゆっくりと頭をもたげ―――
「僕が……どれだけ苦しんだか……どれだけ辛かったか……なのにあいつは………」
―――そして正体を現した。どろどろに煮詰められた、憎悪。
「あいつは笑って、男と遊んでたんだ。畜生、ちくしょぉぉぉ………」
顔を覆った指の隙間から、黒く凝った呪詛がどろりと溢れ出る。二階堂は臆することなくそれを呑み込むと、珠里の手を取ってそっと引き剥がした。そして真っ直ぐ顔を覗き込み、
「憎いか？ 母親が」
「憎いよっ。あなたの言う通り、本当は分かってた。あいつは最低な母親だって。でも、ちょっとでも憎しみを抱いたら、憎悪の化け物にあっという間に心を食い荒らされてしまう。それが分かってたから………僕………」
あとは言葉にならなかった。きれぎれの呪詛と嗚咽が混ざって、珠里の唇を汚してゆく。二階堂は暫し黙って頭を撫でていたが、珠里の呼吸が穏やかになってきた頃合を見計らって、もうひとつの爆弾を投下した。
「憎悪に振り回されたくないというお前の気持ちは解る。しかしそれを抑え込むだけでは打ち克ったことにはならない。珠里、“化け物”を克服するお前に相応しい方法を教えてやるよ」
「克服する……方法？」
「ああ。母親を殺せ。そうすることでお前は自由になれる。いや、それしか方法はない」
「こ、殺すって……そん…な……」
二階堂は喉の奥で陰鬱な笑いを転がし、
「文字で殺すんだよ。憎しみを全て吐き出して、母殺しの物語を書くんだ。お前ならできる」
その声は、罪に染まった蛇のように昏く淀んでいた。
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