＜神威紅──16歳と11カ月13日＞・I
ちょっとでも気を緩めたら、意識は黒板やテキストを離れ斜め後方へ引き寄せられてしまう。その先にあるのは御剣の席。しかし今日は無人だった。
───どうしたんだろう。風邪かな。でも昨日は元気そうだったしな……。
昨日、昼休みの屋上で別れたまま御剣は教室に戻ってこなかった。気になって担任に質したら、早退したとのことだった。
そして今日も欠席。一日や二日の欠席なんて別段珍しいことでもないけれど、紅が鉛色の不安を振り切ることができないのには理由があった。
ゆうべから今朝にかけて見た夢。最初は悪い夢ではなかった。前日の夢に初めて登場した半人半獣『カイ』と一緒に、太陽の下でお弁当を食べる夢。カイは長い鉤爪の生えた手を器用に操って、紅が用意した弁当を美味しそうに食べていた。
まるで前日の出来事をなぞるようなほのぼのとした夢はしかし、次の瞬間急転直下した。周囲は暗転し、視線の先にぼんやり浮かび上がったのは血まみれの御剣だった。
うつ伏せに倒れたまま動かない彼を、誰のものとも分からぬ複数の足が蹴り回している。紅は叫ぼうとしたが舌が強張り、駆け寄ろうとしたが足が動かない。
唯一自由な心の中で『やめろ！』と叫んでいると、それに応えるように御剣がゆっくり顔を上げた。そして鉄錆色に染まった唇を歪めて懸命の訴えを繰り返す。
『紅、逃げろ。お前は十七歳の誕生日に───』
「やめ…ろぉ……」
夢の残像に引きずられ思わず頭を抱え込んで呟くと、頭上から教師の声が。
「どうした、神威。そんなに僕の声が聞きたくないか？」
「あ、いえ。何でもありません」
周囲で悪意に満ちたクスクス笑いが湧いたが、頭の中を素通りした。笑われようが馬鹿にされようがどうでもいい。それよりもっと大切なのは───
───帰り、御剣の家を訪ねてみよう。
クラスの女子によれば、彼は一人暮らしをしているらしい。いきなり訪ねてきっと怪訝な顔をされるだろうけど、この不安を抱えたままでいるよりはずっといい。たとえ顔が見られなくても、ドアフォン越しに声を聞くだけでいいのだ。
紅は積極的な自分に驚きと面映いものを覚えつつ、放課後になるのをひたすら待った。
「ええっと……このマンションの五階……」
エレベーターのボタンを押そうとした手が震えているのに気づき、紅はいったん深呼吸をしてなに緊張してんだよと自分を叱咤した。
そして今度こそボタンを押して乗り込んだが、二階、三階と上昇するにつれて、不愉快そうに『何しに来た』と睨んでくる御剣の顔がより鮮明に脳裏に浮かび、そのたびにぶんぶん頭を振った。
やがてエレベーターは五階に止まり、紅は覚悟を決めて下りた。そして御剣の部屋の前に立つと、うるさいほどの鼓動が鼓膜を震わせた。まるで、耳元で兵隊が行進しているかのようだ。
───よ、よし、押すぞ。
汗ばんだ指先で呼び鈴を押すと、その瞬間をピークに緊張が引いていった。ここまでくればあとは野となれ山となれ。紅はほとんど自棄っぱちの精神状態で返答を待った。
しかし、扉の向こうはしんと黙して何の反応もない。紅は安堵と落胆が半々の溜め息をついて、これで駄目なら諦めようともう一度押してみた。するとややあって、
『……はい』
彼らしくない弱々しい声に、紅の不安は一気に膨張した。思っていたよりずっと重篤のようだ。
「あ、あの、同じクラスの神威───」
『紅かっ？』
御剣の声には、驚くと同時に咎めるような響きもあった。それは次の言葉でさらに倍増した。
『何しに来た』
想像通りの反応だったが、口調の険しさは想像を遥かに上回っていた。紅は思わず首を竦めたが、声だけは平静を装って、
「何って、見舞いに決まってるだろ」
夢のことなどもちろん言えるはずもなく、最も穏当な答えを返した。しかしそれすら、御剣の神経を逆撫でするには十分だったようだ。
『すぐ帰れ。こういう余計なことはするなと昨日言ったはずだ』
「もちろんすぐ帰る。ノートのコピーとちょっとしたお見舞い品を渡すだけだから」
『……気持ちはありがたいが、必要ない。このまま帰ってくれ』
御剣の固く強張った声には、厳然たる拒絶の意志があった。まさかここまで頑なな態度を見せられると思っていなかった紅は、自分の軽率な行動を呪った。そのせいか、御剣への返答には卑屈な響きが混ざってしまった。
「悪かったな、余計なことして」
するとスピーカーから濃厚な溜め息が届いた。
『気持ちはありがたいって言っただろ。どうしてそう可愛げのないこと言うんだ』
「僕に可愛げなんてもの期待するな。だいたい、気持ちはありがたいってことはつまり迷惑だってことだろ？ だから謝ったんだ。家まで押しかけたりしてごめんなっ。ただ……」
紅はいったん言葉を切り、こくんと喉を鳴らして不穏な熱い塊を何とか嚥下した。それが、涙を先導するものだと分かっていたから。
「心配、だったんだ。ひどい怪我をしてるんじゃないかと……」
ドアフォン越しに、息を呑む気配が伝わってきた。そして、
『なぜ、俺が怪我してると思ったんだ』
「え？ それは、あの、なんとなく……」
夢で見たなどと言ったら、気味悪がられてしまうに違いない。紅は何とかごまかそうとしたが、『正直に言え』と御剣に迫られ、仕方なく打ち明けた。
「夢を見たんだ。御剣が血だらけで倒れてて、たくさんの足に蹴られてて、それで」
言葉にすると情景の凄惨さや生々しさが際立って、紅の心を内側から圧迫してきた。夢だとは分かっている。この扉を隔てた向こうには、いつもより覇気はないけれど御剣本人がちゃんといる。
けれど言葉によって再構築された悪夢の世界は、圧倒的な力で紅の情動を揺さぶった。
「それで、血をいっぱい流しながら僕に逃げろって……」
鉄錆色の唇を思い出した瞬間、必死に抑えていた心の堰が切れた。溢れたのは涙だけではなく、これまで経験したことのない、甘くほろ苦い糖蜜のような感情。それをどう扱ってよいか分からぬまま、紅は疼く本心を言葉にした。
「たかが夢を本気にするなんて、自分でもおかしいと思う。でもどうしても……御剣に会いたかったんだ」
御剣からの反応はない。当然だろう。紅はふっと自嘲を漏らし、
「ごめん。気味悪いよな。ノートとお見舞い品はここに置いとくから、後で取りに───」
紅の言葉を遮るように、目の前の扉が勢いよく開いた。
「だから勝手に気味悪いとか決め付けるな。全くお前はっ……」
御剣に勢いよく腕を引かれ、紅はよろめきつつその胸に倒れ込んだ。
「みつる…ぎ……」
抱き締められていると自覚した瞬間、悦びと安堵で頭がぐちゃぐちゃになり、紅は言葉を超えた感情の深層に沈み込んだ。
「ぅ、ぅぅーーーっ」
会いたかったという想いは、シャツを掴む指の力と噛み締めるような嗚咽に表れていた。しばらくすると、複雑に絡まり合っていた感情の綾は解きほぐされ、最後に残ったのは御剣の体温がもたらす心地よさだった。
「御剣……」
紅はまだ身体を預けたままうっとりと名前を呟いたが、返ってきたのは荒い呼吸だった。しかも御剣の身体は熱く、かすかな血臭と薬品の匂いがする。それでようやく、紅は御剣の状態を察した。
「お前っ、やっぱり怪我して……」
「んあ？ 大丈夫だ。大した怪我じゃない。気にするな」
そう言って淡く微笑む御剣の額は青ざめ、唇は血の気が失せて白くひび割れていた。肩や腕には包帯が巻かれ、顔に散ったうっ血の痕が生々しくも痛々しい。
誰が見たって『大した怪我じゃない』はずはないと分かる。立っているのもつらいほどの痛みが、その全身を苛んでいることも。
「どうしてこんな大怪我を……」
呆然と訊ねる紅に、御剣はどう見ても無理してると分かる笑みを向けて、
「バイクで事故った。完全に俺の不注意だ。お前がそんな死にそうな顔するな」
「で、でもっ。入院してなくていいのかよ」
「入院はしてた。昨夜から今日にかけて。で、さっき自主退院してきた」
御剣はそう言って不敵に笑い、部屋に入るよう紅を促した。その背中は相変わらず広くて優美だったけれど、悲劇的な何かを背負っているように思えて、紅は戦慄を禁じ得なかった。
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