＜神威紅──16歳と11カ月12日＞・II
「どう、いう意味だよ……」
あまりに意表を衝く問いに、紅は震える声でその真意を質すのがやっとだった。対して御剣は淡々と、
「質問を変えよう。両親が死ぬ以前の、兄に関する記憶はあるか？ 一緒に遊んだり喧嘩したり、そんな日常の記憶だ」
「そ、それは……」
すぐに答えを返せなかったのは、それが意外な問いだからではなかった。寧ろ核心を衝くものだった。なぜなら、両親が死ぬ前の紅の記憶には欠落や不明瞭な部分が多く、特に兄のことはほとんど覚えていなかったのだ。
重大な事件や事故に遭遇した場合、そのショックが記憶の混乱や欠如を引き起こすのは珍しいことではないから気にしなくていい。蒼はそう言って紅を慰めてくれたが、まさか御剣にそれを指摘されるとは思っていなかった。
紅の反応から答えを察したのか、御剣は静かに頷き、
「やっぱりな。お前が勝手に兄だと思い込んでるだけか。あるいは、誰かに思わせられているか」
そう言って、ふっと溜め息をつく。それは紅にとって、これまで幾度となく経験してきた侮蔑と嘲笑の兆し以外の何ものでもなかった。
『あなたたちって、本当に兄弟なの？ ぜんぜん似てないのねえ。外見も中身もまるで正反対。もうちょっとお兄さんを見習って───』
「ははっ、そうだよな。誰だってそう思うよな。僕と兄さんが兄弟なんて信じられないって」
今さら誰にどう思われようと傷つかない。侮蔑も嘲笑も陰口も、ひょいと頭を低くして黙ってやり過ごせばいいだけのこと。なのに、紅の口は止まらなかった。舌を灼くような自虐の言葉が次々と溢れ出る。
「兄さんは綺麗で聡明で、黙っていても人を惹き付ける太陽みたいな人なのに、僕は何の取り柄もない石ころ同然の人間なんだから」
「紅、いきなり何を言い出すんだ。誰がそんなことを……」
「おまけに根暗で醜くて、他人を信用できないひねくれ者だし。御剣だって……ほんとはそう思ってるんだろっ？」
最後の最後で、感情の抑制が崩れた。悲鳴にも似た問いかけが、紅の喉から迸る。次の瞬間、乱暴に抱き寄せられ、気がつけば紅は御剣の腕の中にいた。
「お前が醜いだと？ 何の取り柄もないだと？」
「は、離せ！」
突然の抱擁にパニックになった紅は、全身でもがいて逃れようとした。しかし御剣は腕を緩めず、紅の耳元で囁く。
「馬鹿を言うな。お前の笑顔と優しさに救われた人間が“ここ”にいるというのに」
「離せって……」
身体の抵抗も抗議の声も、自然と弱まってゆく。それに反比例するように、安らぎが紅の心と身体を温かく潤していった。
そんな自分に、紅は心底驚いた。人とのこうした触れ合いが苦手で、特に相手が男性の場合は恐怖に硬直してしまうほどなのに。
「紅、お前は誰よりも美しく純粋で、人を幸せにする天性の明るさを持っている」
御剣の言葉は、甘くひずんだ声と相まって紅を陶然とさせた。しかし、わずかに残った理性が弱々しい反論を仕掛ける。
「そんな……でたらめ言うな」
「でたらめじゃない。事実だ。俺は、お前に救われたんだ」
「う、うそだ、そんな……こと……」
断言する御剣に反論はあっさり跳ね返され、言うべき言葉を失った紅は黙り込む。身体を預けたままそっと目を閉じ、御剣の鼓動に耳を澄ませると、それは予想に反してトクトクと速い律動を刻んでいた。
「こんな風に……人と触れ合ったのは久しぶりだ」
「紅？」
「僕、小さい頃から人に触れられるのが苦手で。特に男性が怖いんだ。向こうに他意はないって分かっていても、身体が勝手に竦んで拒絶してしまう。たぶん、変質者に連れ去られそうになったことがトラウマになってるんだろう。でも御剣は……怖くない」
もしかしたら、自分は変われるかもしれない。御剣の励ましと温もりに勇気を得て、周囲に対し少しずつでも心を開いてゆくことができるかもしれない。じわじわと湧き上がる明るい展望に唆されるように、紅はおそるおそるだが抱き返そうとした。しかし、
「えっ？」
御剣はいきなりするりと抱擁を解き、紅に背中を向けた。行き場を失った紅の手は、空しく宙を彷徨う。御剣は感情の熱に焼かれたようなざらりとしたかすれ声で「済まない」とだけ告げると、素早く立ち上がった。
俯いた顔は陰になりその表情は見えなかったが、爪が食い込むほど握られかすかに震える拳が、荒れ狂う心理を物語っていた。紅は驚き、つい詰問めいた声を上げた。
「なんで御剣が謝るんだよ」
「お前は分からなくていい。全て俺の……罪だから」
「罪？ 一体なんの……」
何がなんだか分からぬまま、紅も続いて立ち上がろうとした。すると御剣は来るなと言わんばかりに首を振った。明らかな拒絶の意思表示に固まる紅に、
「おかしなことを言って悪かった。さっきの言葉は忘れてくれ」
「ちょっと待てよ。いきなり忘れろって」
「それから、もうこんなことはしなくていい。分かったな？」
御剣は硬い声で一方的に言い置くと、振り向くことなく屋上を後にした。残された紅は空の弁当箱を見つめ、項垂れるしかできなかった。
御剣は拳を握り締めたまま、感情に任せて校内を彷徨っていた。そうすることで、徐々に気持ちを落ち着かせるしかなかった。この悔恨と自責の嵐を。
『小さい頃から人に触れられるのが苦手で』
『特に男性が怖いんだ』
紅の言葉が胸に突き刺さる。分かっていた。自分には、紅の優しさを受ける資格などないと。なのに向こうから近づいてくれたのが嬉しくて、その優しさに甘えてしまった。自分が前世で紅に何をしたのかを忘れて。
紅の男性不信、その原因は過去のトラウマなどではなく、前世にあるのは明らかだった。前世で受けた傷が心の深層に澱となって沈殿し、他人への恐怖を喚起する。そしてその傷は、他ならぬ御剣が付けたものなのだ。
紅が人と打ち解けられず、人間関係の網目から外れたところで孤独を強いられているのもおそらくそのせいだろう。前世の紅は明るく社交的で、その天真爛漫な笑顔で誰とでも、人より化け物に近い不浄の終夜一族ともすぐ心を通わせることができたのだ。
───俺ができる償いは……お前を神子の宿命から守ってやることだけなんだ。
だからこれ以上紅と親しくなるのはやめよう、胸の裡でそう続けると、同じ場所から鈍い痛みがじわりと湧き上がってきた。しかし御剣は敢えて正面から痛みに対峙し、紅を抱き締めた時の感触を思い出すことでさらに心を鞭打った。
俺はもっともっと苦しまねばならない。そうすることで、前世で自分が犯した罪の重さをより深く思い知ることができるのだ───
「……誰だ」
とうに昼休みは終わって午後の授業は始まっているはず。にもかかわらず、普段から人気のない校舎裏に複数の、しかも暁一族の気配があるとなれば、連中の狙いが自分であることは疑いようもなかった。
御剣は深呼吸して目を閉じた。視覚が閉ざされた分、他の感覚が鋭敏になって周囲の動きや感情の流れが読みやすくなった。
───あからさまな殺気だな。奴ら、ついに勘付いたか。
御剣はカッと目を開けわずかに腰を落とし、戦闘態勢に入った。すると、それに呼応するように人影がひとつ、ふたつと現れた。
「長、間違いありません。この男は終夜一族の生まれ変わりです」
そう言って憎悪に淀んだ視線を向けるのは、保健医の真田。長と呼ばれたのはもちろん、神威蒼だ。その隣には、化学教師の香西もいる。
「そうですか。やはりね」
蒼は抑揚に乏しい声で応じると、御剣を正面から見据えて、
「御剣戒、君と少し話がしたい」
「今は授業中だろ、神威先生。こんなところで油売ってていいのかよ」
「僕は教師である前に暁一族を統率する者。優先順位は明らかだ。そんなこと、いちいち言わなくても君はとうに気づいていたのだろう？」
御剣は軽く肩をすくめ、
「まあな。あんたが暁の長だということはだいたい見当がついてた。でも、保健のセンセイが暁の『目』だったとはな。どうりで、こんなに早く俺の正体がばれたわけだ」
「そういうことだ。『目』は祭祀を取り仕切るばかりが能じゃない」
一族の祭祀長を俗に『目』と呼ぶが、と同時に人間の前世や因業を見通す神力も持つ。
「で、香西があんたの腹心か」
蒼はかすかに眉を吊り上げただけで答えず、ただ拒否も反論も許さぬ冷徹な支配者の口調で「邪魔をするな」とだけ言った。御剣は不敵な笑みを返し、
「何のことだ？」
「白を切るな。貴様の企みはお見通しだ。また前世のように我ら一族の繁栄を阻もうとしているのだろう。しかし───」
「勝手に決め付けるな。あんたら一族が繁栄しようが没落しようが、俺には関係ない。せっかく平和な世に生まれ変わったのに、前世の怨恨を引きずるほど執念深くねえよ」
蒼はあからさまに疑わしげな目を向けたが、取り敢えず話を進めることにしたようだ。
「ならば話は早い。紅に関わるな。あれは暁一族の命運を握る神子、『暁の乙女』だ。十七の誕生日までに、自分が何者であるのかを思い出してもらわねばならない」
「……紅を暁天之命に捧げて、いったい何を祈願するつもりだ」
御剣の問いを受けて、蒼はいったん顔を伏せた。やがて肩を小刻みに震わせながらゆっくり上げた顔には、狂笑の前兆めいた筋肉の痙攣が走っていた。
「何を祈願するかだと？ 決まっているだろう。我が一族の覚醒だ」
その確信に満ちた答えは、御剣には到底理解できないものだった。
