＜神威紅──16歳と11カ月10日＞
わあっと喚声が起こり、続いて熱っぽいため息が追いかける。みなの視線と感嘆を集めているのは、一週間前に転校してきたばかりの御剣戒だった。
普通、転校生は一日も早く新しい環境や仲間に馴染もうと率先してクラスの輪に入ってくるものだが、御剣にそういったそぶりは皆無だった。
無愛想で寡黙で、むしろ人との関わりを避けているように見える。そこに自分との共通点を見つけた紅だったが、友人関係を結ぼうなどとはもちろん考えなかった。
御剣は全てにおいて抜きん出ていた。容姿は今さら言うまでもなく、頭脳や運動神経についても、たった一週間でその優秀さを全校生徒に知らしめた。
誰もが彼と親しくなりたいと思い笑顔で近づくが、本人にその気がないのは一目瞭然。望みは叶えられぬまま、見えない壁に阻まれすごすごと引き下がるのがオチだった。
結果、彼はひとつの魅力的な、不可触の謎として君臨することになったのだ。
そして今も、体育のバスケットボールの授業で見事なクイックリリースを見せて熱い注目を集めたが、全く表情を変えぬままさっさとタオルを取りに行った。
「神威っ、何してるんだ。さっさとコートに入れ」
「あ、はいっ」
御剣の美しいシュートに見とれていた紅は、教師の叱責で慌ててポジションについた。そしてミニゲームが始まったが、チームメイトは誰も紅にパスしようとはしない。
こういう類いの無視は今に始まったことではないし、取り敢えずコートを走ってさえいれば参加していることになるのだから、紅は別段気にせず時間が過ぎるのを待った。
結局、紅が一度もボールに触れることなく試合は終わった。紅はやれやれと溜め息をつき、コートから出ようとした。その時、
「危ない！」
誰かの叫びが耳に飛び込むと同時に、ボールが顔目がけて真っ直ぐ飛んでくるのが見えた。紅は思わず目をつぶる。バシッと小気味よい音が聞こえたが、それ以外には何も起こらない。おそるおそる目を開けると、
「え……？」
視界いっぱいに広がる逞しい背中。その主は御剣だった。まるで紅を庇うように立ち、ボールを受け止めた御剣は、「ごめん、ごめん」とふざけ半分の謝罪を口にしながら駆け寄るクラスメートに投げ返した。
「危ないだろ。顔に当たったらどうするんだ」
その声と投げ返してきた力で御剣の怒りを察したのか、ボールを受け取った生徒は慌てて真面目に謝罪する。
「向こうでパスの練習してたら手が滑っちゃってさ。ごめんな」
そしてそそくさと逃げていった。すると御剣は、くるりと紅の方を振り向いた。
「あっ、あの……」
ふざけてボールをぶつけられることはたまにあったが、こんな風に助けてもらったのは初めてだった。しかも相手は人気者の転校生。戸惑いが先に立ってしまったが、ともかくお礼はきちんと言わねばと紅は口を開いた。しかし、
「お前もぼーっとしてるな。自分でもちゃんと気をつけろ」
まるでお前にも非はあると言わんばかりの言葉に紅はついムッとして、喉元まで出かかっていたお礼の言葉を呑み込んだ。そして、
「そんな言い方しなくたっていいだろっ」
「うるさい。わめくな」
御剣は耳元で軽く手を振って、紅の方を見もせず立ち去った。紅はまだむくれたままその背中を見送ったが、すぐに走ってその後を追いかけ、
「み、御剣戒！ 助けてくれてありがとなッ」
挑みかかるような口調でお礼を叩き付けた。御剣は振り向いて冷ややかな半目で見返し、
「なんだよそれ。喧嘩売ってんのか礼を言ってるのかはっきりしろ」
「聞こえなかったのかよ。ちゃんとありがとうって言っただろっ」
「ああ分かった分かった」
御剣はうるさいと言わんばかりに頷いて行ってしまったが、ほんの一瞬その唇が綻ぶのが見えた。笑みの残像は思いのほか美しく優しく、紅は魅入られたかのようにその場に立ち尽くした。
「なんで御剣君、あんなの助けたのかしら」
「ほっとけばいいのにね～」
声のした方にちらと目を向けると、御剣の転校当初から何とかその歓心を買おうとまとわりついている女子三人組が、険のある眼差しでこちらを睨んでいるのが見えた。
中でもリーダー格の葉山美優（はやま・みゆう）は、全てに無関心な御剣が紅を救うために行動を起こしたことがよほど悔しかったらしい。ひときわ尖った表情をしていた。
───嫉妬？ 羨望？ 冗談じゃない。僕をそんなくだらないことに巻き込まないでくれ。
紅はまとわりつく視線を断ち切るように、くるりと背中を向けた。すると、
「ほんっとに暗いわよね」
「神威先生の弟なんて信じられない」
「いつ見てもブサイクな眼鏡」
聞き慣れているはずの中傷が、なぜだか今日は心に重く響いた。
放課後、昇降口に向かって一人で歩いていた紅はふと立ち止まり、廊下の窓ガラスに映った自分の顔を見た。こちらを見返してくるのは、まさに眼鏡妖怪。もし夜中にばったり出くわしたら、自分でもぎょっとしてしまうかもしれない。
「ブサイクな眼鏡、かあ。確かに」
顔の三分の一を覆う黒縁眼鏡はただ滑稽で、さらに長い前髪のせいで不気味さもプラスされている。きっと御剣も、美優たちのように口にこそ出さないけれど、心の中では笑っているに違いない。
それがどうした、嘲笑なら慣れていると心の表層では強気な自分を演じていられるが、ちょっとでも気を抜くと深層からじわりと苦いものがこみ上げてくる。それに心を支配されないよう、丹田に力を入れて腹の底に押し戻そうとした時、背後から声を掛けられた。
「紅、今帰りかい？」
校内で紅に話しかけるなんて物好きは、一人しかいない。
「あ、兄さ……神威先生」
慌てて言い直す紅の頭を、蒼はあやすようにぽんぽんと撫でた。
「二人だけの時は兄さんでいいよ。ああ、そうだ。今日の弁当は美味しかった。いや、今日の弁当も、か」
「ん…それならよかった。また頑張るよ」
紅はめったに緩むことのない口元にかすかな笑みを乗せて、兄を見上げた。すると蒼は不審げに眉根を寄せて、
「紅、何かあったのか？」
「え？ どうして……」
「何だか落ち込んでるみたいだぞ。ちょっとでも気になることがあったら、すぐ僕に伝えるようにいつも言っているだろう？」
暗いのは元々だよ、という言葉を呑み込んで、紅は「何でもないよ」と答えた。が、わずかな躊躇ののち、おそるおそる探るような口調で、
「あの…兄さん。この眼鏡はまだしてなくちゃいけないのかな」
紅の問いに、蒼の眉間はさらに寄った。いつになく険しい表情に、紅は思わず首を竦める。すると紅の怯えを覚ったのか、蒼はふっと目尻を下げ、
「いつも言ってるだろう？ 紅は女の子みたいに華奢な容姿だからね。また変質者に連れ去られたりしたらと思うと……。確かにちょっと心配性かもしれないけれど、もう少しの間我慢して顔を隠していてほしい」
「ん、分かったよ。ごめん、我がまま言って」
兄さんは僕のことを大事に思うからこそ、こんなに心配してくれるんだ、紅は自分にそう言い聞かせた。大きく不恰好な眼鏡はすなわち、兄の愛情の証なのだ。
「分かってくれて嬉しいよ、紅。……まあ、いずれにせよあと少しだから」
「え？」
思わず聞き返した紅に、蒼は降り注ぐ春光のような微笑みを向けて、
「さ、暗くなる前に帰りなさい。僕は今日、大事な会議があってね。帰りは遅くなるから。きちんと戸締りするんだよ。いいね？」
そう言って、紅の背中を優しく押した。その手の温かさに安らぎを覚え、紅はあらためて兄の存在の大きさを感じた。
誰に何と言われようと、何と思われようと関係ない。自分には兄がいてくれるのだから。
御剣のことも、もう考えるのはやめよう。そう思ったら急に心が軽くなって、紅はぱたぱたと足音を弾ませて夕日に染まる廊下を駆けていった。
「……さて、そろそろ行くか」
紅の背中を見送った蒼は、くるりと踵を返して廊下を戻った。そして途中で階段を下りて地下階へ向かう。蛍光灯の明かりは頼りなく、薄暗くて黴臭い。もちろん、こんなところに会議室があるはずもなかった。しかし、
「入りますよ」
緑青を吹いたような色の重厚な扉の前で声を掛け、中からの返事を待たずに開けた。一応周囲に視線を走らせて誰もいないことを確かめてから、身体を滑り込ませる。
もっとも、目撃されたところで別段困ることはないのだが。この明神学園高校で一番の人気教師である自分が、放課後に地下階にいたぐらいで不審を買うことはないだろう。
室内には、教師と生徒合わせて五十三人がすでに待機していた。蒼が入室すると彼らはすかさず椅子から立ち上がり、恭しく一礼した。
蒼はゆったりと視線を巡らせて全員揃っていることを確かめると、優雅な手つきで着席を促す。そして、挨拶も前置きもなくいきなり本題に入った。
「ついに、ひと月を切ってしまいました。しかし、これまでずっと監視を続けてきたが、神子が前世の記憶を思い出す気配はない。何らかの手を打つ必要があるでしょう」
蒼の声はいつもと変わらぬ穏やかさを保っていたが、その核では灼けるような焦燥感がくすぶっていた。それを受け、蒼の右隣に座っている香西（こうざい）という名の化学教師が頷き、
「長（おさ）の仰る通りです。このまま何もせずただ待ち続けるわけにはいかない。我ら暁（あかつき）一族の完全復活のために、今こそ行動を起こさねば」
あちこちから上がった同意の声に、蒼は淡々と頷いた。
「みなの気持ちは分かっています。何としても、十七歳の誕生日を迎えるまでに前世の記憶と神力を取り戻し、緋の六芒星を宿す『暁の乙女』として覚醒してもらわねばなりません。それで初めて、我らが守護神、暁天之命（あかつきのあまのみこと）への祈願が行える」
「しかしどうやって……。神子の前世記憶にかけられた封印は、我々が想像していた以上に強力なものでした。十七歳に近づけばそれだけ潜在する神力も増幅し、自然と封印も解けると考えていたのに」
今度は、蒼の左隣に座る保健医の真田（さなだ）が、忌々しげに指摘する。蒼は「確かに」と応じ、
「封印を解いて前世の記憶を戻し、神力を覚醒させる方法ですが、考えられる最適な方法はやはり、危険な目に遭わせて防衛本能から能力を呼び覚ますことでしょう」
「危険な目、といいますと？」
「そうですね。まあ事故を装って階段から落とすとか、不良グループの私刑を受けさせるとか。方法はみなに任せます。ああ、もちろん死なない程度にね」
蒼は天使の微笑みを保ったままさらりと答え、それからわずかに目を細めた。
「供犠に捧げる前に死なれては、元も子もありませんからね」
何度思い出しても、口元が綻んでしまう。わざわざ追いかけてきて、『助けてくれてありがとなッ』とふてくされた子供みたいな口調で感謝を伝えた紅。
「あのはねっかえりめ。昔の方がもっと淑やかだったぞ」
御剣は愛しさに重くたわんだ声で呼びかける。もちろん返事はないが、赤い顔でぷいっと横を向き、大きなお世話だよっ、と言い返す紅の姿が目に浮かぶようだ。
転生して初めて交わした紅との会話は帰宅してもなお、御剣の脳裡に甘い余韻を響かせていた。
確かに、転生前と比べて性格は少し変わったようだ。しかし真面目で礼に厚いところは昔のまま。懐かしくて愛おしくて、胸が締め付けられる。再会してたった一週間しか経っていないのに、御剣はすでに紅から目が離せなくなっていた。
そしてこの一週間で分かったのは、紅は前世の記憶を持っていないということ。御剣は深い安堵を覚えたが、まだ油断はできないと自分に言い聞かせた。
学内には、暁一族の気配が複数感じられる。おそらく彼らは、紅を神子として利用するのを諦めてはいないだろう。
特に、紅の兄だと言っている神威蒼。正面から対峙したわけではないから確証は得られていないが、彼は暁一族の長、その生まれ変わりに違いない。きっと、紅が十七の誕生日を迎えるまでに記憶を呼び戻そうと手を尽くすだろう。
「今度こそ、お前をちゃんと守ってみせる。前世で果たせなかった誓いを……」
御剣は己を鼓舞するように呟いて、決意を新たにした。
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