独桜―ひとりざくら―
7話
ただ、疲れた。身体を重くしている疲労の九割は、心的な疲労に違いない。鞄の中には、来る時にはなかった一枚の紙切れが入っている。その重みも喬允を憂鬱にしていた。
由紀恵の再婚願望は、一時的なものなのだろう。宙美のことがあって急に心細くなり、頼れる男性が欲しくなった。喬允なら気心も知れてるし信頼できるし最適だ、という安易な選択の結果に違いない。
それにしても、あの強引さと狡猾さは相変わらずだ。宙美のいるところで用紙を出されたら、大人しく受け取るしかないと分かっていたのだ。
もし突き返せば口論になることは必至。宙美の面前で醜い言い合いをしたくはないでしょう？ というわけだ。だから一応持ち帰ったのだが、復縁などあり得ないことは言うまでもない。
「やっぱり、行くべきじゃなかったな」
今さらながらの感慨を呟いて喬允は溜め息をついたが、街灯の向こうにマンションの外観がうっすら見え始めると、徐々に気持ちも浮上してきた。
もうすぐ奏に会える。今夜は二人でのんびり過ごして、面倒なことは明日に考えればいい。喬允は自然と速まる歩みに面映いものを覚えつつ、自宅を目指した。
帰宅時間はメールしてあるから、きっと今か今かと待っていることだろう。返信がないのが気になったが、きっと食事の仕度で忙しいに違いない。
マンションに着くと、急いだせいで息が上がってしまった。エレベーターの中で呼吸を整えつつ、出張中の出来事を頭の中でおさらいする。もちろん、奏に怪しまれないためでっち上げた嘘のエピソードだ。
疚しさがないわけではなかったが、こんなことは今回きりだと自分に言い聞かせることで、疼く良心を何とか宥めたのだ。
鍵は当然持っているが、呼び鈴を鳴らす。すぐに奏が中から開けてくれて、嬉しいようなはにかむような笑顔で迎えてくれる……はずだった。
「……おかしいな。いないのか？」
少し待ったが開く気配がない。喬允は首を傾げつつ鍵を取り出して開けようとした。その時、何の前触れもなくカチャリと音がして、内側から鍵が開けられた。ますます募る不審を呑み込んで、喬允は扉を開けた。
「なんだ、奏。いたのか」
「ああ、いたよ。お帰り」
「あ、ああ。ただいま」
これまで幾度となく繰り返した日常のやり取りだったが、何かが決定的に違う。しかし、深く追及する間もなく奏がさっさと部屋に戻ってしまったので、喬允は仕方なく靴を脱いで上がった。
「ああ、疲れたな」
本心からの言葉だったが、どこか嘘くさく聞こえてしまうのは、これが出張中の嘘エピソードを導くものだったからだ。二晩連続で接待で、学会発表が終わったら観光地巡りで──と続く。が、それに先んじて奏が口を開いた。
「大変だったね。そんな、怪しまれないようわざわざ背広着てネクタイ締めて」
喬允の背筋を、さっと冷たいものが走った。しかし努めて動揺を抑え、
「ん？ 何のことだ？」
「昨日、オレンジタウンのフードコートで喬兄を見たよ」
「…………」
喬允に、一体何が言えただろうか。どんな誤魔化しも弁解も不可能だと察するのに、十分すぎる奏の言葉だった。呆然とする喬允に、奏は美しさがそのまま凶器になるような研ぎ澄まされた笑みを浮かべて、
「そんなはずないって？ 俺みたいな人間が、休日の家族向けショッピングモールにいるはずないって？ うん、まあその通り。あんなところ、仕事じゃない限り足を踏み入れることもない」
「仕事……」
喬允は惚けた口調で奏の言葉を繰り返すだけ。対して奏は淡々と事実を述べる。
「ああ。日時を指定して、フードコートの窓際の席を監視するように、という依頼内容だった」
「誰がそんな依頼を…………あ、まさかっ……」
喬允の目が大きく見開かれるのに比例して、奏の笑みが深くなる。さらに陰鬱な影を増しながら。
「確証はない。けどほぼ間違いなく喬兄の元奥さんだろうね」
「由紀恵がなぜっ……」
奏はその問いには答えず、まるで依頼者に結果報告をするかのように詳細を告げる。
「自分の食事はそっちのけで、宙美ちゃんのハンバーグを切り分けてあげたり、こぼれた水を拭いてあげたり、とても優しいお父さんだ。若くて美男美女の夫婦に、愛らしい女の子。どこからどう見ても幸せいっぱいの“普通の”家族だったよ」
「違う……もう家族じゃない」
反論する喬允の声は弱々しい。当然だ。あの時喬允も、ガラス窓に映り込む自分たちの姿を見て同じことを思ったのだから。
喬允は、これまで慎重に積み上げてきたものが一気に崩壊するのを感じた。しかし、このままではいけないと奮起する。
「奏、嘘をついたことは本当に悪かった。けれど信じてくれ。疚しいことがあるから嘘をついたわけじゃない」
「疚しいことって、元奥さんとどうにかなるってこと？ はは、それは分かってるよ。俺が気にしてるのは宙美ちゃんの方だ」
「宙美、だって？」
「ああ。俺は元奥さんを見くびっていたよ。あの女、バカじゃない。これまでの喬兄の態度を見て、そして宙美ちゃんの病室で俺と会って悟ったんだ。自分では敵わないってね」
「敵わない……」
確かに奏と対面した時の由紀恵には、彼女らしくない焦慮、狼狽のようなものが感じられた。化粧や装身具に頼らずとも素のままで輝きを放つ奏の美貌、そして落ち着いた立ち居振る舞いを見て、彼女は瞬間的に敗北を悟ったのだ。
それを遠慮なくずばりと指摘できてしまうのは、さすが奏と言わざるを得ない。
「そう。喬兄には言ってなかったけれど、病室で二人きりになった時、喬允を返して、と懇願されたよ。彼女の性格ならむしろ、奪い返してやると宣戦布告したはずだ。それは無理だと察したからこその言葉だったんだろう」
「あいつ……そんなことをお前に言ってたのか」
病院から戻ってからの奏に精神的な消耗が感じられたのは、そのせいだったのだ。
「自分の力では取り戻すことはできない。だから彼女は宙美ちゃんとの絆を利用したんだ。離婚すれば夫婦は他人だけど、娘は永遠に娘だからね。俺が見せられたフードコートの光景は、彼女からのメッセージだ。これは一回限りのことではなく、今後も幾度となく繰り返される光景なのよ、あなたはそれに耐えられるのかしら……と」
「いや、一回限りだ。三人で出かけるようなことはもうない」
それは、嘘偽りない本心だった。しかし奏は、本心の裏側まで見通すかのように目を細め、
「幼稚園の卒園式、小学校の入学式、運動会、授業参観……パパも絶対来てねって言われて、拒絶できる？」
「それは……」
思わず口ごもってしまう。すると奏は深く息を吸い込んでから、
「俺と宙美ちゃん、どっちが大事？」
「お前がそんな聞き方をするとは思わなかった」
自然と声が尖ってしまう。しかし奏はさらりとかわす。
「確かに、曖昧なままにしておいた方がいいこともある。けれど、そうは言ってられない状況になってるんじゃないか？ たとえば、はっきりと復縁を求められたとか」
「それは……」
「もしかして、婚姻届渡されたとか。すでに署名済みの」
奏の鋭さを恨みつつ、喬允は力なく頷いた。これ以上、奏に嘘はつきたくなかったのだ。
「やっぱりね。で、喬兄はそれを後生大事に持ち帰ってきた、と」
「傍に宙美がいたから。突き返したら間違いなく口論になってた」
「さすが。抜かりないね。で、どうする気？ パパが戻ってきたら、宙美ちゃんはさぞ喜ぶだろうね」
「どうするって、よくそんな聞き方ができるな」
あくまで冷静に会話を進める奏に、喬允は苛立ちを隠せない。どうしてそんなに平然としていられるのか。もしかして、この関係にそれほど未練はないということなのだろうか。
「お前は……いいのか？ 俺がもし再婚すると言ったら──」
「俺に引き止める権利はないね」
「権利とかそういうことじゃない！ 愛情と感情の問題だろうが。お前は俺がいなくても平気なのか？ 傍にいてほしいとは思わないのか？」
ずっと傍にいてとは決して言わない奏。それが、喬允を縛り付けないための思いやりだということは分かっていた。未来を約束するよりも、今を積み重ねてゆくことの方が大切だとも。
けれど、互いの気持ちを確認するために言葉が必要な時もあるのではないか。しかし奏は静かに首を振り、
「……ずるいな、喬兄は。自分で分かってる？ それってあとあと罪悪感からのがれるための予防線を張ってるだけなんだよ」
「どう…いうことだ」
「今回のように、今後も宙美ちゃんが父親を必要とする局面は幾度となく訪れる。そのたびに喬兄は、父親に戻ることを拒絶した罪悪感に苦しむ自分を、“あの時奏に引き止められたから仕方ない”と宥めるんだ」
喬允は思わずカッとなって怒鳴った。
「ふざけるな！ 俺がそんな卑劣な男だと──」
「卑劣とまでは言ってない。だからずるいって言っただろ。愛情と感情の問題だ、なんてカッコいいこと言ったけど、結局は俺が泣いて、行かないでずっと傍にいてとすがりつくのを待ってるんじゃないか」
喬允はぐっと言葉に詰まった。しかし奏は容赦なく続ける。
「俺がいいとも嫌だとも言わなくても、自分で決めるのが筋じゃないのか」
「……ああ、そうだな」
奏の言うことが正論だと、喬允も認めざるを得なかった。しかし、それ以上思考が進まない。どうしたらいいのか分からない。
「もう一度訊くよ。俺と宙美ちゃん、どっちが大事？」
さっきと同じ問いだったが、感じる重みがまるで違う。喬允はほとんど本能的に逃げた。逃げ切れるとは思っていなかったが。
「それは……どちらも大事だ」
「こうなった以上、それは通用しない。どちらかを選ばなくてはならない。そして、選ぶというのは選ばない方を捨てるということだ」
「だとしたら俺は……俺は……宙美を捨てることはできない」
一瞬の静寂。やがて口を開いた奏の声は、なぜかとても穏やかで、澄んでいた。
「そう。分かった」
奏は短い言葉で了承を告げると、静かに立ち上がった。慌てて後を追いかける喬允に、振り向かぬまま背中越しに、
「夕食は用意してあるから。適当に温めて食べて」
「あ、ああ。分かった。ありがとう」
「俺は、明日の仕事の準備があるから」
奏はそう言って、結局一度も振り向かずに部屋にこもってしまった。喬允は深く息をつき、
「明日、もう一度じっくり話し合う必要がありそうだな」
しかし、二人に明日が訪れることはなかった。
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