独桜―ひとりざくら―
5話
翌朝も、そして昼も、宙美は病院で出された食事に全く手をつけようとはしなかった。「そらみほしくない」と疲れた声ながらも頑なに拒絶して、大好きなりんごジュースもちょっと口をつけただけだった。
昨夜も何も食べなかったが、無事に保護され両親の元に戻り、緊張とストレスから解放されれば自然と食欲も戻るだろうとあまり心配はしていなかった。
しかし繊細な心が受けた傷は、大人が思っているよりずっと深かったようだ。お腹は空いているはずなのに、泣きそうな顔で「なにもたべたくない」と言う。そんな宙美に対し、情けないことに喬允も由紀恵も無力だった。
とにかくこのままでは体力が弱ってしまうということで、点滴を受けることになったのだが、娘の白くてぷくぷくした腕に細い管が刺さるのを見ていられず、喬允は俯いて目を逸らしてしまった。無力感に苛まれながら。
しかし夕方近くになると、宙美も少しずつだが普段の快活さを取り戻していった。「おなかすいた」という言葉を聞き逃さず、喬允は喜び勇んで訊ねた。
「何が食べたい？ 宙美の食べたいものなら、パパが何でも持ってきてあげるよ」
すると宙美はぱぁっと顔を輝かせ、屈託のない声で答えた。
「そらみ、かなでちゃんのつくったオムライスがたべたい！」
「あ……えっと、それは……」
顔の筋肉が固まって、うまく表情が作れない。喬允は由紀恵から注がれる痛いほどの視線を意識しつつ、
「お店で売ってるオムライスじゃだめか？」
「やだ。かなでちゃんがつくったのがいい！」
「うう〜ん、でもそれは……」
「パパ、なんでもいいってゆったのに……」
不満を隠そうとせず唇を尖らせる宙美の仕草は、駄々を捏ねる子供のそれだったが、この場合は宙美の方に理がある。確かに喬允は、何でも持ってきてあげる、と言ったのだから。
「ここで作るわけにはいかないから、持ってくるうちに冷めて卵が固まって、ふわふわオムライスにはならないぞ」
「それでもいいもん。つめたくなってもきっとおいしいもん」
「わ、わかった。奏おにいちゃんに訊いてみるよ」
喬允が折れると、宙美は「やったあ！」と両手を上げて喜んだ。喬允は「ちょっと電話してくる」と由紀恵の顔を見ずに告げて、部屋を出た。そして非常階段の踊り場で奏に電話して、簡単に事情を話した。
「というわけなんだ。どこか、お前が作ったのに似たオムライスを売ってる店はないか？」
すると奏はからりと笑って、
『そんなめんどくさいことしなくたって、実際に俺が作って届ければ済むことだろ』
「いっ、いや、それは、そこまでしてもらうのは……」
『気が引ける、って？ 嘘ばっかり。元奥さんと会わせたくないんだろ。俺が嫉妬を燃やして刺々しい態度で噛みつくとでも思った？ 安心して。そこまで馬鹿じゃないから』
「そんなことは分かってる！ ただその、お前が……嫌な思いをするかもしれないと……」
宙美を介して由紀恵と相対することで、一度失ったはずの家族らしさが病室内にうっすら漂い始めたような気がしていた。喬允がそれを望んでいるわけではないし、かつて家族だった頃の残像に過ぎないと分かっていたが、そういった空気に敏感な奏のことだからすぐに察知して、疎外感に苦しむのではないか。喬允はそんな危惧を抱いたのだ。
喬允の気持ちを、奏は正しく汲み取ったようだ。くす、と柔らかな笑いとともに、
『ありがと。でも大丈夫だよ。それに……顔も見たいし』
「宙美のか？ 心配はいらないぞ。やつれてもいないし──」
『バカ。喬兄の顔だよ。もう一日以上見てない』
「あ、そ、そうか。そうだな」
思いもかけぬ甘い言葉に、喬允は狼狽する。すると拗ねたような声で、
『ま、喬兄は俺の顔見なくてもぜんぜん平気みたいだからね。やっぱり一方通行か』
「い、いやっ、そんなことないぞ。俺だって──」
慌てて反論する喬允の声を、奏の笑い声が遮った。
『ごめんごめん。いいんだよ。ていうか当然だろ。大事な娘があんな大変な目に遭って、恋人の顔呑気に思い浮かべる余裕なんてあるはずないし。それじゃ、俺はオムライス作って超特急で届けるから。宙美ちゃんに、もう少し待ってて、と伝えてといて』
「ああ、分かった」
電話を切った後も、耳の辺りに奏の拗ねた声や明るい笑い声が滞留して、くすぐったい感じがする。一日以上顔を見ていないことは確かに指摘されるまで気づかなかったが、いったんそう思うと何だかたまらないような気持ちになって早く顔が見たいと気が急いてしまうのだから、我ながら現金だなと呆れてしまう。
ともかく、あと一時間もすれば奏の顔が見られるのだ。喬允はつい綻んでしまいそうになる口元を意識的に引き締めて、宙美の元に戻った。
「宙美。奏おにいちゃんがオムライス作って届けてくれるって」
「きゃああ、やったあ」
手放しで喜ぶ宙美の傍で、唇を真一文字に結んだ由紀恵が何もない中空をじっと睨んでいる。その表情に喬允は背筋がひやりとするのを感じたが面に出さず、宙美との会話に“逃げた”。
しかし検査を受けるため看護師とともに病室を出てしまい、部屋には喬允と由紀恵だけが残された。すると由紀恵はフン、と鼻先で笑って、
「あなたの同居人、子供を手なずけるのがお上手なようね」
いかにも馬鹿にしたような物言いに、喬允は滅多に騒ぐことのない腹の虫が一斉にざわつくのを感じた。それを意思の力で抑える間もなく、舌が勝手に動く。
「なんだその言い方は。わざわざ作ってここまで持ってきてくれるんだぞ。それに手なずけるって、宙美は動物じゃない」
厳しい口調でぴしゃりと言い返す喬允を、由紀恵は驚きを隠さず見つめた。確かに、こうして由紀恵の言葉に真っ向から反撃したのは、初めてのことかもしれない。離婚を切り出された時ですら、その理由をこわごわ訊ねるしかできなかったのだから。
由紀恵もさすがに今回は分が悪いと思ったのか、珍しく何も言い返さずふいと顔を背けてしまう。だからといって、謝罪するわけでもない。喬允はこの機会に、一度きちんと正さねばと思っていたことを口にした。
「お前、宙美をしょっちゅう他人に預けて遊びに行ってるようだな。男を作るなとは言わないが、宙美が小さいうちはある程度自制すべきじゃないのか」
喬允はなるべく穏当な言葉を選んだつもりだった。しかし由紀恵はきりきりと音がしそうなほど激しく眉を吊り上げ、
「えらそうなこと言わないでよ。あなたがどれだけご立派な父親だっていうの」
「離婚後居場所も教えず、俺から父親の権利を根こそぎ奪って平然としていたくせに、よくそんなことが言えるな」
二人はベッドを挟んで睨み合った。尖った視線と視線がぶつかり合うその場所には、さっきまで宙美が寝ていたのだ。その事実に思いを致せないほど、二人とも己の感情に囚われていた。
「ただいまぁ」
検査から戻った宙美の朗らかな声も、その場の硬直した空気をほぐすことはできなかった。喬允はぎこちない笑みを浮かべて「お帰り」と答えたが、由紀恵は体面を取り繕おうともせず、険しい顔つきのまま宙美の方を見ようともしない。その大人気ない態度に、喬允の怒りはさらに膨張した。
「パパ、ママ？ どうしたの？」
このぎすぎすした空気に、宙美が気づかないはずはない。天真爛漫な宙美には不相応な浅い皺を眉間に刻んで、不安げな眼差しを父と母に交互に送る。
喬允は「どうもしないよ」と言って笑ったが、由紀恵は黙りこくったまま。いい加減にしろ、という苛立ち混じりの叱責が喬允の口から今にも飛び出そうとしたその時、扉をノックする音が響いた。
喬允はほっと息をつき、疲弊した声で「どうぞ」と応えた。宙美の眼前で口汚く罵り合うという最悪の事態は、何とか免れたようだ。
「こんにちは。ご注文の品をお届けに上がりました」
明るく屈託のない挨拶とともに部屋に入ってきたのは、他ならぬ奏だった。まさかこんなに早く来ると思っていなかった喬允は、瞬きも忘れ一日ぶりに会う恋人に陶然と見入った。それはまさに、尖った感情と不穏な熱が充満したこの鉛色の空間に射し込む光明そのものだった。
美しいとか形容しようのない微笑みは、それ自体が光を発しているかのようにきらきら輝いて見える。明るい色の髪と瞳は、殺風景な病室に華やかな色彩を添えた。
「わあっ、かなでちゃん！」
嬉しそうに名前を呼ぶ宙美の眉間から皺は消えていた。代わりに満面の笑みを浮かべ、ベッドの上で両足をぱたぱたさせる。奏は由紀恵に向かって軽く一礼すると、早足でベッドに近づいた。
「かっこいい奏ちゃんが、宙美ちゃんのためにオムライス作ってきたよ」
「たまごふわふわの？」
「もちろん」
ここでようやく我に返った喬允は、先刻の感情を引きずった熱っぽい声で、
「お前……ずいぶん早かったな」
「ああ。制限速度無視してぶっ飛ばしてきたから。その甲斐あって、ほら、まだ完全に冷め切ってないよ。宙美ちゃん、さあどうぞ」
宙美は「いただきます」と言ってから大きなスプーンをがしっと掴み、ものすごい勢いでかき込み始めた。
「こ、こら。慌てないでゆっくり食べなさい」
喬允は思わず注意したが、宙美は聞こえないのか皿に頭を突っ込むようにして豪快に食べ続けた。ついさっきまで「なにもたべたくない」と弱々しく頭を振り、点滴を受けていたとは思えぬほどの健啖ぶりだ。あっという間に平らげた宙美は、「ごちそうさまでした」と言って満足げに笑った。
「ほら、宙美。奏おにいちゃんにお礼を言いなさい」
喬允に言われて、宙美はベッドの上で居住まいを改めた。そしてぺこりと頭を下げて「かなでちゃん、ありがとう」としっかりした声でお礼を言う。奏が「どういたしまして」と笑うと、宙美はかすかに頬を染めてもじもじした。
「私からも、お礼を言わせていただくわ。ありがとう。それに、喬允が色々お世話になってるそうで」
いきなり割り込んできた由紀恵は、口調こそ堂々としていたが、表情にはどこか彼女らしくない焦慮のようなものが感じられた。むしろ、それを隠すために自分が優位にあるような態度を装っているとも見える。
「この人の世話、大変でしょ。料理も家事もなんにもできない人だから。ご迷惑じゃないのかしら」
奏は答えるより先に「初めまして」と頭を下げ、丁寧な挨拶をした。
「真野奏といいます。こちらこそ、喬允先輩にはお世話になってます。宙美ちゃんが元気なようで安心しました」
そして、顧客となった女性の心を惹きつけて離さない、アイドル顔負けの作り込まれた笑顔を浮かべ、
「料理や家事は好きでやってるので。迷惑なんてとんでもありません。自分は職業柄、収入が不安定なので、家賃折半で一緒に住まわせてもらえてとても助かっています」
「職業って何？ 水商売かしら」
「由紀恵！ そういう聞き方を──」
喬允は思わず声を荒げたが、対照的に奏は穏やかな口調で、
「いわゆる便利屋。何でも屋ですよ。庭の木を伐ったり犬の散歩をしたり、家庭教師をすることもあります。まあ、喬允先輩のような堅実な職業から見れば水商売と大差ないかもしれませんが、人の役に立ってるという自負はあります」
付け入る隙を与えない、とはこのことだろう。奏の大人の応対に、さすがの由紀恵も気まずくなったのかふいと顔を背けて口を噤んでしまった。
喬允はやれやれ、と口に出さずこぼし、奏の背中を労うように軽く叩いた。奏は分かってる、という風に頷いて、笑み含んだ柔らかな眼差しを送ってきた。
一瞬の視線の交錯は、喬允の胸に甘い疼きをともし、口元が自然と綻ぶ。言葉を介さない会話は、ひどく心地よかった。
「あらあら。宙美ちゃんはごはん食べられたのね。何を食べたのかしら」
宙美を担当している女医が部屋を訪れ、空の皿を見て笑顔で訊ねた。
「オムライス！ たまごがふわふわのやつだよ」
「ま、美味しそう。よかったわね〜。食欲も戻ったみたいですし、検査の結果も問題ないようです。帰宅されても大丈夫ですよ」
医師は途中から、由紀恵に向かって話した。喬允に言わないのは、家庭の事情をちゃんと把握しているからだろう。「ありがとうございます」と頭を下げる由紀恵に頷きを返すと、宙美に笑顔を向け、
「宙美ちゃん、よくがんばったわね。もうお家に帰ってもいいわよ」
宙美は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに淋しげな表情になった。そしてすがるように喬允を見上げる。医師も含めた全員がその表情の意味を悟り、室内は微妙に重苦しい空気で満たされた。
「それじゃ、私はこれで。仕度が済みましたら、一度ナースステーションに声を掛けてください」
医師は笑顔を崩さぬまま、若干早口でそう告げて退室した。
「……それじゃ、仕度をするか。奏も待っててくれ。ついでだから一緒に帰ろう」
喬允は誰の顔も見ずにそう言って、荷物の置いてある付き添い部屋へ移動した。
「あなた、ゲイなんですってね」
喬允と宙美がナースステーションへ挨拶に行っている間、必然的に奏は由紀恵と二人きりになった。
相手は喬允の元妻。すでに別れているとはいえ嫉妬が湧かないわけではない。それに、喬允から聞いた話やさっきの初対面時の応対などで、彼女がどんな人間か凡その理解はついていたから、愉快な時間になるはずはないと分かっていた。
とはいえ、いきなり爆弾を投下してくるとは予想外だった。しかしそこは奏も海千山千。うろたえて尻尾を掴ませるようなことはしない。
「探偵を雇って身辺調査しましたか。どうりで最近、ヘンなのが周辺をうろついてるなと思った。にしても、元旦那の同居相手がそんなに気になりますか？」
皮肉たっぷりの問いに由紀恵は答えず、威嚇するようにぐいと胸を張って、
「宙美から聞いたわ。夜、手を繋いで寝てたって」
追加の爆弾を投下したつもりなのだろう。由紀恵の瞳に、獰猛な輝きが宿る。奏は素早く思考を巡らせた。
宙美が泊まった時、手を繋いで寝ていたのは確かに見られている。しかしカマをかけられている可能性もゼロではない。そこまで賢い女性とは思えないが、一応慎重に対処すべきだろう。
「記憶にはないですね。でも正直に言うと、俺の方にはそういう感情がないわけじゃない。喬允先輩は俺の性癖を知っても、これまでと変わらず接してくれました。ゲイだと知った途端、珍獣でも見るような目つきになったり、エイズが伝染るから近づくな、なんて平気で言う人間もまだたくさんいるというのに。あの人のそういう、芯の通った優しさには惹かれます。けど、ご存知のように喬允先輩はいたってノーマルな男性です」
「ふぅん。つまりあなたの片想いなのね」
「くすぐったい表現ですね。まあ、そんな重いものでもありません。淡い恋心です。ノーマルな男性を本気で追いかけるような根性は持ち合わせていないので」
からりとした口調で答えて肩をすくめた奏に対し、由紀恵は重い沈黙を返した。が、静寂は数秒に満たなかった。由紀恵は奏を見つめたまま口を開き、
「なら、返して」
「え……？」
「喬允を返して」
本当の爆弾の威力に、奏はぐらつく身体を支えるので精いっぱいだった。
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