独桜―ひとりざくら―
4話
その日。大切な記念日の金曜。とはいえ、当然ながら仕事を疎かにすることはない。喬允は出勤後に直接訪問した病院からいったん営業所に戻り、自分のデスクで資料整理をしていた。
「三島君、神山総合病院の件はどうなってる？」
営業所長の近田課長からの質問に、喬允は笑顔で堂々と答えた。
「来週、医局で面会のアポを取りました」
「そうか。くれぐれも頼んだよ」
以前だったら、「なにを悠長なことをやってるんだ！」と苛立ちを剥き出しで叩きつけられたに違いない。しかし一年前、飯山大学病院の外科部長である福山ドクターの信頼を得て、新しい抗生剤『セフィロゾール』の採用を勝ち取って以来、近田は喬允のやり方にも一定の理解を持つようになった。
人の顔を見ればもっと派手に売り込め、テコ入れしろ、接待だ接待！ とうるさく、喬允はひたすらうんざりしていたのだが、ライバル他社との激しいシェア争いにさらされている現状を考えれば、近田の焦りも分からないわけではなかった。
不思議なもので、喬允も一年前の『セフィロゾール』採用により自分のやり方に自信を持つ持つことができたことで、近田にも素直にアドバイスを求めるようになった。
あの頃、ひたすら自分のやり方に固執していたのは自信のなさの裏返しだったのだと、今になって分かってきたというわけだ。
そんなことをつらつら考えつつ資料を整理していると、携帯電話が鳴った。見知らぬ番号に眉根を寄せて出ると、
『警察ですが。三島喬允さんの携帯電話でよろしいでしょうか』
「え？ あ、ああ。はい、そうです」
答えながら反射的に、奏の身に何かあったのではないかと思い喬允は身構えた。以前のような危険と隣り合わせの仕事はもうしていないはずだったが、やはり便利屋という職業柄、事故や事件に巻き込まれやすいことは承知している。
しかし、相手が口にしたのは意外な人物の名前だった。
『娘さんの宙美ちゃんですが、現在行方が分からなくなっています。大変申し上げにくいのですが、面識のない男に連れ去られた可能性が高いかと』
血の気が引く、とはまさにこういう状態をいうのだろう。さあっと冷えて思考も感情も凍結した頭の中に、電話から届く声がただ虚しく響いた。
『母親とその友人一家と買い物している途中、ちょっと目を離した隙にいなくなったということのようです。今、署の方で待機していただいているのですが、動揺が激しく時折取り乱した様子で──』
「分かりました。すぐに伺います」
こういった極限の状況に冷静に対応できるほど、由紀恵は強くない。喬允は警察署の場所を聞いて電話を切った。
「三島さん、大丈夫ですか？ 顔が真っ青ですよ」
昨年入ったばかりの新人MRが、不安そうにこちらを見ていた。彼だけではなく、近田所長も何事かと心配そうに見ている。
「今の電話は警察からでした。娘が……事故に遭ったようです」
事情が事情だけに、本当のことを伝えるのは憚られた。しかしそれでも、十分すぎる衝撃を受けたようだ。
「娘さんが？！ そ、そうか。三島君、早く行ってあげなさい。医局の方には、私が連絡をしておくから」
「は、はい。よろしくお願いいたします」
喬允は近田に頭を下げると、素早く荷物をまとめて営業所を飛び出した。そして真っ直ぐ警察署へ向かう。到着すると狭い待合室のような所へ通されたが、部屋の中に入る前からすでに由紀恵の喚き声が聞こえていた。
「早く捕まえてぇ！ 警察なんだからできるでしょっ。パトカーいっぱい出して追っかけてよ！」
おそらく、誰かが宥めているのだろう。ぼそぼそとした低い声も室内から聞こえた。喬允は深呼吸をして腹の底に力を入れてから、扉を開けて中に入った。
喬允の姿を認めた由紀恵は、一瞬怯えたような顔つきをした。それなりに長い付き合いだが、こんな彼女は初めて見る。きっと、宙美から目を離したお前が悪い、母親失格だと咎められると思ったのだろう。
もちろん、喬允にそういう怒りが全く湧かなかったわけではない。しかし今するべきことが、非難や責任追及でないことは分かっている。
「由紀恵、落ち着きなさい。宙美が戻ってきた時、そんな取り乱した状態ではあの子に余計な不安を与えてしまう。いつもと変わらず、優しく毅然とした母親でいるんだ。いいね？」
由紀恵は瞬きも忘れた様子で、真っ赤に腫れ上がった両目で喬允を見据えた。が、やがて静かに頷くと、すがるように喬允に抱き着いてきた。小刻みに震え続ける背中をあやすように撫でながら、
「宙美は必ず戻ってくる。必ず。信じて待ち続けよう」
「は、はい……」
弱々しいかすれ声ながらも、由紀恵はしっかり答えた。すると、そんな二人を遠巻きに見ていた女性がおずおずと近づいて、喬允に向かって深く頭を下げた。
「申し訳ありませんっ、私たちがお喋りに夢中になってしまって、それで、それでっ……」
続きは嗚咽に呑み込まれてしまい、言葉にならなかった。彼女が一緒に買い物をしていた友人で、その傍で顔を真っ赤にしつつも泣くものかとふんばっている少年は息子だろう。
「顔を上げてください。誰が悪いのかは分かりきったことです。幼い子供を暴力的なやり方で連れ去った卑劣な人間。そいつが一刻も早く捕まることを、一緒に祈ってください。それから、君」
喬允は、いよいよ泣き出しそうに顔を歪めている少年に優しく声を掛けた。
「いつも宙美と仲良くしてくれてありがとう。あの子が帰ってきたら、また一緒に遊んでくれるかな？」
少年は口を一文字に結んだまま、大きく頷いた。喬允は「ありがとう」と返し、まだ抱き着いたままの由紀恵をひとまずソファに座らせた。そして、傍らに控えていた署員に詳しい状況を質す。
説明によると、店内の防犯カメラに宙美を抱えた男性の姿が映っていたことから連れ去りが発覚したらしい。男性は二十代後半から三十代。駐車場の防犯カメラを警戒したのか、店の外に留めていた車に乗せて逃走したが、幸運なことに目撃者がいた。その証言を頼りに、男の車を追っているということだった。
喬允が説明を聞き終えると、部屋の奥から老齢の男女が近づいてきた。喬允が挨拶をするより先に、二人同時に深々と頭を下げた。
「喬允君、申し訳ない。娘がしっかりしていればこんなことには……」
二人は由紀恵の両親。つまり宙美の祖父母に当たる。父親は総合病院の院長で、MRになりたての喬允がかつて担当していた。それが縁で由紀恵と知り合い、結婚したのだ。
「山内先生、ご無沙汰しております。先生が謝罪する必要はありません。それに、宙美は必ず無事に戻ってきます」
喬允の力強い言葉に、二人は肩をすぼめて項垂れるばかりだった。こうして対面するのは確か二年ぶりだったが、十歳くらい老け込んでしまったように見える。
「お二人ともお疲れのご様子。いったんご自宅に戻られてはいかがでしょう。ここは、私と由紀恵に任せてください。宙美が見つかったら、真っ先にご連絡します」
心身ともに相当消耗したのだろう。二人は少しためらったが、最終的には喬允の提案を受け入れて自宅に戻ることにした。由紀恵の友人とその息子も帰り、待合室は喬允と由紀恵二人だけになった。
とはいえ、こんな状況下で話すことなどあるはずもない。ソファに浅く腰掛け、ただじっと時間の経過に耐える。ふと隣を見ると、由紀恵が胸の前で祈りの形に手を組んで震えていた。その手も横顔も真っ白で血の気はないのに、目だけは爛れたように赤くなっている。
喬允は思わず手を伸ばし、震える手を包み込むようにして握った。由紀恵はびくっと身じろいだがすぐに身体を弛緩させ、喬允にぐったりともたれ掛かる。その肩を抱き、時折あやすように叩いてやると、由紀恵の痛ましい震えは少しずつ収まってきた。
そうして、どのくらい経っただろう。突然部屋の外が騒がしくなった。何事かと思う間もなく扉が開き、署員が息を弾ませて駆け込んできた。
「見つかりましたよ！ 娘さんは無事保護されました」
ずっと待っていた言葉。喬允と由紀恵はどちらからともなく抱き合い、喜びと安堵を分かち合った。
「よか…た、よかった……ああああ……」
喬允は込み上げる嗚咽を何度も呑み込み、由紀恵の腰を抱いて立ち上がった。そして署員に心からの感謝を伝えた。
「ありがとうございましたっ……」
「いや、本当によかった。それで娘さんですが、目立った外傷はありませんが取り敢えず近くの病院に搬送されるとのことです」
「分かりました。我々もすぐにそちらへ向かいます。さ、由紀恵」
「は、はい」
由紀恵は泣き腫らした目で喬允を見上げ、殊勝に頷いた。そして甘えるように身体をすり寄せる。喬允はその肩を抱き、もう一度職員に礼を言うと宙美が運ばれた病院に向かった。
広い個室の白いベッド。その上に寝かされた宙美は、この空間に今にも埋没してしまいそうなほど儚い存在に見えた。この時ばかりはさすがに喬允も冷静にはなれず、ベッドに駆け寄って何度も何度も名前を叫んだ。
「宙美っ、宙美っ、よかった、よかった……」
由紀恵に至っては言葉にならず、ベッドにしがみついてただ泣き続ける。やがてぐしゃぐしゃの顔を宙美に向け、
「ごめんね、ごめんね……ママがしっかりしてなかったからっ……」
すると宙美は真っ赤な顔をぶんぶん振って、
「ママはわるくないもん、そらみが……言うこときかないでおもちゃのとこに行こうとしたからっ……」
喬允は、母を庇おうとする娘の優しさに胸打たれながら、小さな頭を優しく撫でた。
「宙美もママも悪くない。悪いやつはちゃんと警察が捕まえてくれたんだ」
「ほん…とに？ あのこわいおにいちゃん、そらみのとこにもうぜったい来ない？」
宙美の顔に生々しい怯えが表れる。それを見た喬允は瞬間的に、顔も知らぬ男に強い殺意を抱いた。しかし何とかこらえて努めて優しい声で、
「ああ。絶対に来ない。だから怖がることはないぞ」
宙美はこっくりと頷くと、やがて全身を震わせ声を上げて泣き出した。
「ぅっ、ぇ、ぇぇっ……うわああああ……ん……」
この小さな身体に溜め込んでいた恐怖や不安がどれほどのものだったか、喬允も由紀恵もあらためて思い知った。きっと連れ回されている間は、声を上げたり泣いたりしたら承知しないぞと脅されていたのだろう。
「宙美、よくがんばった。えらいぞ、えらいぞ」
喬允は喉にからんだ涙声で褒め続けた。
可愛い子だったから一緒にドライブしたかった。それが犯人の第一声だったらしい。欲望と行動が見事に直結した、想像力の欠けた現代の若者らしい短絡かつ身勝手な犯行だ。
それ以上の詳細は今後の供述を待たねばならないだろうが、この言葉だけでも怒りを沸騰させるには十分だった。
唯一の慰めは、性的ないたずらをされなかったということだ。もちろんそれは男の逮捕が早かったからであり、それは目撃者がいたという僥倖があったからというのは分かりきったことだ。そういった被害がなかったからといって、男に対する怒りが減じるものではない。
ともかく喬允は約束通り由紀恵の両親に連絡し、状況を説明した。二人とも心底安堵した様子で、喬允に向かって何度も「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
宙美は明日、簡単な健康診断を受けるということで、今夜は病院に泊まることになった。喬允と由紀恵も付き添いが許され、皮肉なことに久しぶりに親子三人で夜を過ごすことになったのだ。
喬允は、今日が何の日であるか忘れてはいなかった。帰宅どころか全く連絡もないことに、どれだけ奏が心配しているかも想像できた。
しかしあの緊迫した状況下で由紀恵の傍を離れ、家に連絡を入れるわけにもいかず、ようやく携帯電話を開くことができたのは、宙美が落ち着きを取り戻し眠りについてからだった。すでに夜の十一時を回っていた。
携帯には、奏からの着信が数回あった。喬允は心の中で詫びつつ、自宅の番号を呼び出した。ワンコールで出たが、電話の向こうは黙りこくったまま。沈黙から伝わるのは怒りよりむしろ不安、哀しみだった。喬允は声を一段落とし、
「奏、すまん。今夜は帰れない。今、病院にいる」
はっと息を呑む気配が伝わった。余計な心配をかけないため、喬允は急いで説明を継いだ。
「俺が事故に遭ったわけじゃない。実は──」
凡その事情を語り終わると、一拍おいて奏が今にも泣き出しそうなか細い声で訊ねてきた。
『ほんとに、宙美ちゃんはそのクソ野郎に何もされなかったんだな？』
「お前……声と言葉にギャップありすぎだぞ。大丈夫だ。そういう意味での被害は幸いなことに何もなかった。もし宙美が何かされてたら、こんな風に落ち着いて電話できてないさ」
『そっか……でも、よかった、なんて言えない。知らない男に脅されながら、何時間も連れ回されたんだ。今後の精神的なケアが重要だと思う』
「ああ。お前の言う通りだ。そのことに関しては、これからもカウンセラーと相談しながら由紀恵と一緒に努力するつもりだ」
すると奏は電話の向こうで重い溜め息をついた。
『そう、だよな。親でないとできないことがたくさんある。もどかしいよ。俺には何もしてあげられない』
「うん？ お前にしかできないことがあるぞ。俺の心のケアとか」
『それは……任せて』
照れながらぽそっと答えるその姿が目に浮かぶようだ。喬允は声が自然と甘くなるのを感じつつ、「明日には帰るからな」と言って電話を切った。
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