独桜―ひとりざくら―
18話
本多が退室すると、ざわざわと肌を刺す緊張感を孕んだ静寂が支配した。その緊張感が、奏の怯えや困惑に由来することは明らかだ。
奏は喬允の視線から逃れるように俯いて、ちぢこまっている。それをほぐしてやるには、いつも通りの声で呼びかけるのが一番だと分かっていた。
「奏、ちょっといいか？ 身体を起こすから手を貸してほしい」
「え？ う、うん！」
奏はバネでも仕込まれているかのようにかくかくと何度も頷き、喬允の背中に腕を差し入れて支えた。そしてそのままゆっくりと起き上がらせる。
「痛くない？」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
礼を言うとほぼ同時に、喬允は腕を広げ奏の身体をがっしりと抱き込んだ。それは再会の甘い抱擁というよりむしろ、拘束に近かった。二度と“ここ”から出さないという、無言の決意表明だった。
「やっと……やっと戻ってきたな、奏……」
「喬兄……」
奏は傷に触らないようおそるおそる抱き返し、さまざまな感情の干渉により重く震える声帯から、くぐもった声を絞り出した。
「何て……言ったらいいか分からないよ。ごめんとかありがとうとか、そんな言葉じゃ到底追いつかない」
「ごめんもありがとうも必要ない。願わくば、こうして再会できた喜びを二人で噛み締めたい。それだけだ。だからさっき、本多さんが言ったことは気にしなくていい。すでに過去のことなんだからな」
奏は黙って、喬允の言葉に耳を傾けた。
「もちろん嫉妬や苦悩はある。でも、お前が自暴自棄になる原因を作ったのは他ならぬ俺だからな。だから全部受け止める。もしその身体に他の男の痕跡が残っているのなら、俺が時間をかけて綺麗に消してやるよ」
奏はくすんと鼻を鳴らすと、シャツの襟元を広げて首の付け根を露わにした。白い肌に落とされた青黒いしるしが何なのか、誰が付けたものなのか訊ねるまでもない。喬允は迷う間もなく唇を押し付け、きつく吸い上げた。
「んっ…」
喉の奥で甘くこもる声が耳朶をくすぐり、腕の中の身体がぴくんと跳ねた。そんなあえかな反応が、懐かしくもあり新鮮でもある。喬允はあらためて、奏と離れていた時間の重みを噛み締めた。
「ひとつ、消したぞ」
唇を離し満足感を隠さず告げると、奏は嬉しさを露わにして頷いた。が、すぐに緩んだ顔を引き締め、
「喬兄、さっきの質問。家族を捨ててきたというのは本当なのか？」
「ああ、本当だ。婚姻届は返したし、由紀恵には直接会うのはもうやめようと言った。それから宙美には──」
奏が息を詰めるのが伝わってきた。やはり、宙美の方が気になるのだろう。
「宙美には、宙美のことは二番目に大事だと伝えた」
「嘘だろ？！ ほんとにそんなこと言ったのか」
「ああ、言った。その場しのぎの嘘がどんな結果をもたらすか、今回のことで嫌というほど思い知ったからな。真実より価値のある嘘なんてないってことも。でも、決断するまで一週間もかかってしまった。情けないけど、これが優柔不断な俺の限界ってことだな」
「でも、だって、そんな……」
柄にもなくおろおろする奏に、喬允はしょうがないなと肩をすくめ、
「選ぶというのは選ばない方を捨てるということ、そう言ったのはお前だぞ」
「だから、捨ててきたと？」
「そうだ」
即答を返す喬允を、奏は眉根を寄せた複雑そうな顔つきで見つめた。やがて抱擁を解いて腕をだらりと下げ、自身に問いかけるようにぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「これで……よかったのかな。俺の方を選んでほしいともちろん思ってたけど、でも……」
「でもいざそうなると、手放しで喜べないんだろ？ 分かるよ。お前はもともと繊細で優しい心の持ち主だから。優しいというのは想像力や共感力が豊かということだ。宙美の淋しさを思って、お前が胸を痛めるのはよく分かる」
奏は力なく首を振った。
「俺は優しくなんかない。自己中心的で、自分勝手で──」
「自己中心的な人間は、“ずっと”という言葉は相手を縛り付けることになるからと口にせず、代わりに机にこっそり書くような真似はしない」
奏は初め、何のことか分からなかったようだ。が、すぐに、ぼぉっと音がしそうな勢いで顔から火を吹いた。
「ま、まさか喬兄、俺の部屋のっ……」
「ああ、見たぞ。短いけれど熱烈なラブレター」
「＃％＆☆！！！！」
奏は火を吹いた状態で、身の置き場もないと言わんばかりにあわあわした。付き合いは長いが、こんな奏は初めて見る。
「はは。お前もそんな風に焦ったりうろたえたりするんだ。可愛いな」
最後のひと言がさらに効いたのか、脳みそが煮え立っているのではというほど真っ赤な顔で、喬允を恨めしげに睨む。そして何か言い返そうと口を開いたが、適当な言葉が出てこなかったのかむっつりと黙り込んだ。
しかし沈黙は長く続かず、奏は「ごめん」と言って項垂れた。謝罪の理由を喬允はもちろん分かっていたが、からりと笑い飛ばし、
「まったくだ。ああいう大事なことは直接言え、バカ」
「なっ…！ そうじゃなくて、あんな縛り付けるような言葉──」
「うるさい。バカはバカだ。何が引き止める権利は自分にはない、好きなようにすればいい、だ。たった一度でいい。ずっと傍にいて、そう言ってくれればよかったのに」
「やっぱり喬兄はあの机に書かれた言葉を見て、それで……」
「ああ、確かに。あれが背中を押してくれたことは間違いない。机に書かれたあの想いに応えたいと、心からそう思った」
「ということは、結局、俺の自己中心的な言葉が宙美ちゃんから喬兄を奪ったことになる」
再び罪悪感が湧いてきたのか、奏は痛みをこらえるように顔を歪めた。言葉ごときでその痛みを消し去れるはずはないと分かっていたが、やはり自分にできるのは真摯に愚直に語りかけることだ。
「お前が罪悪感に囚われる理由はない。俺は自分で選んだ。選択の責任は俺にある。それに俺は、正しさで選んだわけじゃない。もっとも、こっちが正しい道だと思って進んでも必ずしもいい結果に辿り着くとは限らないしな。そんなの考えても仕方ないだろ。大事なのは、選んだ以上は信念を持ってその道を進むことだ」
奏はわずかに表情を和らげ、
「後悔、しない？」
「ああ。奏、ずっとずっと傍にいる」
机に書かれた言葉をなぞるように答えると、奏の頬が薔薇色に染まった。だらりと下げていた腕を再び喬允の身体に巻きつけ、はだけた襟元に顔を押し付ける。
「薬品くさいだろ？」
喬允の問いに小さく首を振り、首筋や胸元に唇を這わせる奏は、喬允が“ここ”にいることをあらためて確認しているように見えた。それは神聖で且つ官能的な儀式のようだった。
「三島喬允は、真野奏を一生愛することを誓う」
それは、奏の行為に触発された心から自然と溢れた誓いだった。しかし奏には青天の霹靂だったようで、こちらを見上げる目には純粋な驚きが満ちていた。
確かに、自分のキャラクターには合っていない、恋愛ドラマのクライマックスシーンに吐くような台詞だった。喬允は急に恥ずかしくなって空咳をしてごまかす。すると傷に響いて、ずきんずきんと疼くような痛みが湧いた。
「いてて……」
顔をしかめて身体を折ると、奏が目に見えて蒼褪めた。
「だ、大丈夫っ？ 喬兄！」
「大丈夫だ。ちょっと響いただけだ」
それは嘘ではなく、痛みはあっさり引いてくれた。それでも不安そうな顔をしている奏に、喬允は微笑みかけ、
「はは、慣れないことはするものじゃないな」
「……ばか」
不安げな顔から一転に、甘えた上目遣いに。
「喬兄、さっきのもう一回言って」
このおねだりが来ることは予想していたのだが、
「い、いや。勘弁してくれ。ちょっとその……自己陶酔がすぎた」
喬允は、汗もかいていない額を拭いながら訴える。しかし奏は肩をすくめてさらりとかわし、
「妙なところでストイックなんだからなあ。いいじゃないか。俺なんか、机に書いたラブレターを読まれたんだぞ。これでおあいこだ。ほら、早く、早く」
「うう……」
瞳をきらきらさせてねだる奏に、押されっぱなしの喬允。こういう時の奏には敵わないことは、先刻承知済みだった。
「み、三島喬允は、真野奏を一生愛することを誓ぅ……」
男らしく堂々と誓えばいいものを、この期に及んで恥ずかしさが先に立ってぼそぼそと小さな声になってしまうのが喬允らしかった。
しかし奏は満足したようで、涙の前兆で煌く瞳を喬允に真っ直ぐ向けて、「俺も誓います」と応えた。それに呼応するように、二人の間に流れる空気を神聖な緊張感が支配した。
やがてどちらからともかく顔を近づけ、唇を重ねる。半月ぶりの口づけだったが、これは誓いのキスだという共通認識があったからだろう、深く吸い上げるようなものにはならず、軽く触れ合わせるだけだった。
しかしそれでも十分酔えるほど、互いの唇はひたすら甘かった。
喬允の入院は、当初の見立て通り一週間程度になりそうだった。早く回復して一緒に二人の部屋へ戻りたい、けれど一日中べったり喬允に引っ付いて色々お世話できるのも嬉しい。そんなぜいたくな煩悶を抱えつつ、奏は毎日病室に通った。そしてかいがいしくお世話したのだが……。
「はい、喬兄。あ〜んして」
「かっ、奏。自分で食べられるから」
「何言ってんだよ。喬兄は怪我人なんだ。安静にしてなくちゃいけないんだ。だ、か、ら。はい、あ〜ん」
「だから手は怪我してないって」
「はいはい、照れない照れない」
何度も言うようだが、こういう時の奏は無敵だった。喬允は観念して口を開ける。すると見計らったかのように絶妙のタイミングで、本多がノックもせず入ってきた。
「なんだ、新婚ごっこか」
喬允は慌てて口を閉じ、ガチッと音を立てて金属製のスプーンを噛んだ。
「うわっ、喬兄平気？ なんかすごい音がしたけど」
「う、うう」
涙目で頷く喬允に、奏は「喬兄可愛い」と言って頬に軽くキス。そして本多をギロッと睨み、
「勝手に入ってくんなよ。何の用だ」
「ご挨拶だな。龍崎の処遇が決まったから教えてに来てやったのに」
「龍崎の？」
「ああ。破門ではなく島流しだな。九州の末端組織に送られた。龍崎はお前たちに恨みを抱いているはずだから、破門や絶縁で組織から完全に手放してしまったら、何を仕出かすか分からない。もともと、頭の回路があちこちブチ切れた男だからな。私兵化していた半グレ集団はもう使えないが、あんたの帰りを待ち伏せして……なんてことも考えられる。事件になった場合、たとえ組織を離れていても元○○組の冠は付くからな。厄介なことになる」
「だから、首輪は付けておこうってわけか。そうするよう上に進言したのは本多さんだろ」
「そうだ」
「まるで俺たちを龍崎の復讐から守るため、みたいに聞こえるけど、本当の理由は、自分が龍崎に狙われるリスクを回避するためだろ？ あんただって相当恨まれてるだろうし」
奏の指摘を、本多は鼻で笑った。
「まったく、最後まで可愛げのない奴だな。まあいい。私の話はこれで終わりだ。奏、これでもうお前と会うことはないだろう。というより、そうなることを心から願っている」
「分かってるよ。口を開けば迷惑だ、だもんな」
「そういうことだ」
本多は喬允にちらと視線を送った。奏を頼んだぞ──彼がそんな感傷的な思考回路を持っているとは到底思えないが、それでも喬允は力強く頷いた。今度こそ必ず幸せにします、との想いを込めて。
本多は口元に霞のような笑みを閃かせたが、すぐに背中を向けてしまったので本当に微笑んだのかどうかは怪しかった。
「本多さん、ありがとうございました」
優雅な背中に声を掛けると、本多は軽く手を上げて応え、そのまま振り向かず去っていった。
「喬兄が礼なんて言う必要ないんだよ」
不満げな奏を「まあまあ」と宥め、喬允は食事の続きを頼んだのだった。
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