独桜―ひとりざくら―
17話
筋書きがあるのはここまでだ。あとは相手の出方次第。暴力的な手段に出ることはもちろん予想されるが、その場合は倉庫のどこかで待機しているはずの本多に頼るしかあるまい。
ともかく今は、怯えや不安を見せず堂々たる態度を維持するのが最善だと喬允は自分に言い聞かせた。
「データ捏造が嘘っぱちだと？」
「ええ、そうです」
喬允は龍崎の顔を真っ直ぐ見据えて頷いた。その背後でことの成り行きを不安げに窺う奏にどうしても視線が吸い寄せられてしまうが、極力自制した。
対して龍崎は、ふんと鼻を鳴らす。その顔から最前までの分かりやすい威嚇の表情は消え、むしろ穏やかな凪が支配する。しかし微動だにしない硝子の目に射竦められた喬允は、この場で初めて、心底恐怖を覚えた。
「……面白え。目的はなんだ。いや、こう訊いた方がいいか。誰に頼まれた」
静かな口調で問いながら、龍崎は右手を真っ直ぐ伸ばした。その手には、鈍く光る鉄の筒。ドラマや映画で見たことはあるが、こうして眼前に突きつけられたことなどむろん一度もない。
カタギ相手に銃を突きつけたりはしないだろうという考えの甘さを思い知ったが、そういう楽観的予測がなければこんな行動に出られなかったことも事実だ。
「もう一度訊く。誰に頼まれた」
引き金に、ゆっくりと指をかける。それだけで脅しの効果としては十分だった。その時、重い空気をしゅっと引き裂くような鋭い音がして、目の前を何かが素早く横切った。何が起きたのか理解するより先に、離れた場所でガシャンと硬いものが落下する音がした。
「なっ……！」
呆然としたのは喬允も龍崎も同じだった。奏が鋭い蹴りで龍崎の拳銃を弾き飛ばしたと分かったのは、数秒後のこと。それほど、奏の攻撃は電光石火の早業だった。
「奏っ」
思わず叫んだ喬允が自分の過ちを覚ったのは、龍崎の顔にどす黒い翳が差すのを見た時だった。それまで奏に向けられていた愛執が、濃度と激しさはそのまま憎悪に変わった瞬間だった。
「……てめえらグルだったのか」
地を這うような声で呟くと、素早く折り畳みナイフを取り出し奏に襲いかかる。その敏捷な動きは、彼が名ばかりの武闘派ではないことを知らしめていた。
しかし奏も、あるいは龍崎以上に実戦経験豊富だった。ひゅっひゅっと音をたてて空を斬る刃をかわしつつ、声を嗄らして叫ぶ。
「喬兄、逃げろ！」
しかし皮肉なことに、その叫びが龍崎に教えてしまった。奏に直接苦痛を与えるよりも、喬允を痛めつけた方がより効果的であると。
龍崎は身体を反転させ、喬允に襲いかかろうとした。奏は素早く反応し、龍崎の正面に回る。ナイフの切っ先が容赦なく振り下ろされたがすんでのところでかわし、その手首を掴んでぎりぎりとひねった。
「ぐあッ」
龍崎は呻きとともにナイフを落とした。武器さえなければ、一対一の喧嘩で奏が負けるはずはない。喬允はわずかに緊張を緩めた。が、
「あ！」
龍崎は拘束されていない手でポケットから別のナイフを取り出し、奏に刃を向けた。
「危ないッ」
迷いもためらいもなかった。喬允は二人の間に飛び込み、奏の身体に覆いかぶさる。次の瞬間、脇腹がカッと熱くなった。
「喬兄？！」
奏の声に苦痛の色はなかった。それでようやく喬允は、自分の身体で刃を受け止めたのだと察した。途端に、全身を炙られるような灼熱の痛みに襲われた。
「う……ぐっ……」
その場にがくりと膝をつくと、汚れた床に鮮やかな血の華が散った。
「う、うそだろ……喬兄、喬兄ッ！！」
ぐおんぐおんと響く重低音の耳鳴り。その向こうで、奏が叫んでいる。
「いやだぁッ、だ、誰か、誰か助けてぇ！ 喬兄が、喬兄が……あああああーーーッ！」
完全に心の均衡を失った情態と分かる、狂乱の叫び。その痛ましさが、喬允にほんの一瞬だが自分が受けた傷のことを忘れさせた。ゆるりと顔を上げて淡く微笑み、
「大…丈夫だ、奏……。俺は──」
何とか落ち着かせてやりたくて、必死に宥める。しかしそれ以上は無理だった。身体からすぅっと力が抜け、床が近づいてくる。
「喬兄っ！ 喬兄ーーーッ」
奏の千切れんばかりの声に胸を痛めながら、喬允は意識を手放した。
──んえ、えっ、えぇっ……
奏？ その声は奏なのか？
──喬兄、喬兄ぃ……
お前、泣いてるのか？ どうした、何があったんだ。涙で縛り付けるようなことはしたくないと、俺の前では絶対に泣こうとせず、目に触れないところで秘かに涙をこぼしていたお前が。
──喬兄、ごめん、ごめんなさい……
馬鹿だな。謝るのは俺の方だ。自分で決断し選択することを避け、ただお前の与えてくれる愛情にどっぷり浸かって楽に生きていた。突きつけられた選択からは目を背け、嘘でその場をやり過ごし、全てを曖昧で中途半端な状態で放置していた。
その結果お前を失い、それで初めて自分にとってどれほど大切だったか思い知るなんて、安いフィクションだと我ながら思う。でも俺にとってはフィクションではなく真実だった。この真実に至るため、お前にまでつらい思いをさせてしまった。
──喬兄……っく、う、うぅっ……
ほら、もう泣くな。いや……泣いていい。これからは、何も我慢しなくていい。泣きたければ泣け。束縛したければしろ。来年の花見の約束も遠慮するな。分かったな？ 奏、奏───
「かな…で……」
重いまぶたが動くのとほぼ同時に、その名が自然と唇からこぼれた。するとすぐ近くで息を呑む気配が伝わり、喬允はそちらに顔を向けた。
「たっ、たかにい……っく、うぐ、ううっ、ううーーーっ……」
喬允が寝ているベッドの枕元にしがみつき、歪んだ唇から嗚咽とも呻きともつかぬものを吐き出しているのは、間違いなく奏だった。
しかし、くしゃくしゃに潰れ涙で汚れた顔、泣き腫らして真っ赤になった目に、奏が持つ結晶の美しさと猫族の女王然たる優雅さは皆無。まるで、親を捜して何時間も彷徨い続けた迷子のようだ。
奏のこんな顔は初めて見る。これ以上ないほど崩れていたが、これはこれで愛らしく保護欲が湧いてくる。喬允はそっと手を伸ばしてその頭をふわふわと撫で、
「ひどい顔だぞ。せっかくの男前が台無しだ」
すると奏は、頭に乗った手をおそるおそる掴んで唇を押し付けた。
「たかに…ごめ、なさい……俺のせいでっ……」
「お前が謝ることじゃない。それより奏、怪我はなかったか？」
奏は喬允の手を両手でしっかり握ったまま、こくこくと頷いた。
「へい、き……喬兄が、守ってくれた、から……」
喬允は思わず苦笑した。
「どうせなら、もうちょっとカッコよく守りたかったな。お前が拳銃を弾き飛ばしたみたいに。まあ、俺にできるのは身体を張ることぐらいで──」
「ばかっ。何言ってんだよ！ かっこいいとか悪いとか、そんなのどうでもいい。ていうか、かっこ悪くていいから逃げてほしかった。俺のことなんて放っておいて逃げてほしかった」
奏は泣きながら訴える。溢れる涙が蒸発するほどの熱い想いが込められた言葉に、喬允も真摯に返した。
「俺は、お前を取り戻すために出向いたんだ。なのに一人で逃げ出せるはずないだろう」
「でもっ──」
「無茶なことをしているという自覚はあった。龍崎のような男を相手にあんな真似をして、タダで済むはずはないと。でも危ない橋を渡っても、奏をあの男から取り戻したかったんだ。そのためには、龍崎を失脚させる必要があった」
奏はふぅっと深呼吸して喬允の目を真っ直ぐ見据え、
「喬兄はどうしてそこまでして俺を？ 家族を捨ててきたというのは本当なのか？」
その問いは重いものだったが、答えるのは簡単だった。喬允は、奏にも劣らぬ強い視線を返してから口を開いた。が、答えるより早く部屋の扉が開いた。
「ああ、目が覚めたのか」
相変わらず取引先に向かうエリートビジネスマン然とした本多が、喬允のベッドに近づいてきた。そして奏をちらと見下ろし、かすかに眉をひそめ、
「ひどい顔だな。せっかくの再会なのに、もう少し整えられなかったのか」
「う、うるさいっ。あんたには関係ないだろ！」
「まあ確かに関係ないし関心もないが」
「だったら出てけよ。俺は喬兄と二人きりになりたいんだ」
喬允は慌てて割り込んだ。
「こら、そんな態度を取るんじゃない。すみません、本多さん」
「いや。こいつの幼稚さには慣れている」
「なんだとぅ！」
ムキになって噛み付こうとする奏を宥めるため、喬允は身体を起こした。しかし目覚めたばかりで、どの筋肉を使うと傷に影響あるのかまだ把握しておらず、無防備に動かした身体に痛みが走った。
「いっ、つ……」
痛みに呻く喬允に、奏は血相を変えて飛びついた。
「喬兄！ だめだよ動いちゃ！ 安静にしてないと……」
「誰のせいだ」
本多の突っ込みに奏は何か言い返そうとしたが、自分の非を認めたのかしぶしぶながら「ごめん…」と謝った。喬允は苦笑で痛みを紛らわしつつ、
「お前を取り戻すことができたのは本多さんのお陰でもあるんだ。恩人なんだからあんまり失礼なことを言うんじゃないぞ」
穏やかに諭したが、奏は納得できないとばかりに反論した。
「恩人なんてとんでもないよ。喬兄にあんな危ないことさせて。データ捏造をでっち上げてそれを餌に龍崎を引っ掛け、失脚させるなんて」
奏の追及を、本多はさらりとかわした。
「言ったはずだ。私はただの人助けに興味はないと。手を貸す以上は、こちらにもメリットのある方法を取るのは当然だろう」
「何で喬兄に協力させたんだ。あんたのためなら喜んで手を貸す人間は山ほどいるはずだ」
「龍崎という男は、一見豪胆だが妙に疑り深く慎重な面もある。それに私は、彼から全面的に信頼されていない。データ捏造の話を持っていけばまず間違いなく疑念を抱く。ネタの信憑性を高めるためには、本物の製薬会社MRの協力が必要だった。あいにく、私には他にMRの知人はいない」
平然と言い返す本多に、奏はなおも食い下がろうとした。喬允は、今度は身体を動かさず言葉だけで仲裁する。
「まあまあ。それより本多さん。俺が倒れた後のことを聞かせてください。あの男はどうなったのですか？」
「ああ。あんたが倒れる前の話からしよう。私は先回りしてあの倉庫に待機していた。成り行きを注視しつつ事態を収集する機を窺っていたのだが、案の定奏が余計なことをしてくれた。口を出すな、傍観していろと忠告したのに」
「な、なんだよッ。目の前で、喬兄が銃を突きつけられたんだぞ。ぼぅっと見てられるわけないだろ！」
「龍崎が所有している銃のメンテをしているのは私だ。予め弾は抜いてある。カタギの人間を巻き込んで危ない目に遭わせるんだ。その程度の下工作は当然してある。私との付き合いもそれなりに長いのだから、そのくらい察してもいいはずだ。まったく……」
本多は冷ややかな眼差しとともに、大仰に溜め息をついてみせた。奏は「ううっ」と口ごもり、横を向いてぼそっと言い返した。
「そんな、冷静になれないよ。他のことならともかく、喬兄のことになると……」
頭に血がのぼっておかしくなる、と続ける奏の横顔はほんのり赤らんでいた。喬允は吸い寄せられるように手を伸ばし、その頬をふわふわと撫でた。
すると奏は仏頂面のままさらに顔を赤くしたが、やがてへの字に結んでいた唇をほろりと解いて嬉しそうに緩めた。本多は「やれやれ」と含蓄ある呟きを漏らし、
「まあ、過ぎたことはもういい。話の続きだ。あんたが龍崎に刺されてすぐ救急車を呼び、それから龍崎に全て終わりだということを教えた。三千万の上納期限は今日だ。どう足掻いても間に合わない。証文まで交わしたのに、用意できませんでした、あと少し待ってくださいなんて通用する世界ではない。龍崎が持ってくる金を当てにしていた親組織の方も、期限内に保釈金を一括納付できず面子丸潰れだしな」
「ではあの男は……」
「破門、あるいは絶縁。後者の場合は二度とこの世界には戻れない」
「で、空いたトップの座にあんたが収まるというわけか」
嫌みったらしく指摘する奏に、本多は平然と「そういうことだ」と返した。彼がただの人助けに興味はないと言ったのは、つまりこういうことだったのだ。
「当然龍崎は暴れたが、私と奏で押さえつけた。そうするうちに救急車が到着し、この病院を指定して搬送してもらった。あんたも覚えてるだろう。以前、奏が入院した病院だ。ここなら余計な詮索はしないし、いろいろ融通も利く。会社に提出する診断書も、適当にごまかして作ってくれるしな。ああ、あんたの傷だが、大したことはない。一週間程度の入院で、あとは自宅療養で問題ないそうだ」
「ナイフで腹刺されて、大したことないわけないだろ！」
悲愴な声で噛みつく奏を、本多は意外なほど真剣な顔で見返し、
「私の判断ではない。医者の見立てだ。それより奏、お前は自分の身体を心配した方がいい。この男と別れてからまともな食事もとらず、龍崎と淫剤漬けの変態的なセックスに耽っていたのだからな。心身ともに正常な状態に戻るには、少し時間がかかるかもしれんぞ」
本多の言葉に、奏はさあっと蒼褪めた。拳をぎゅっと握り締め、
「な…んでここでそんなこと言うんだよッ……」
「この男には知られたくなかったか？ しかし彼はお前と龍崎との関係も全て知っている。知った上で取り戻しに来た」
「そんな……」
奏はこわごわ顔を上げ、怯えた眼差しを喬允に向けた。喬允はそれを恬淡と受け止める。
「お前の男は、お前が知っているよりずっと豪胆で寛容で……愛情深いということだ」
最後の言葉を口にするのはいささか不本意だったのだろう。本多は言うやいなや素早く身を翻し、病室から足早に出ていった。
BACK TOP 孤独なライオンINDEX NEXT