独桜―ひとりざくら―
19話
「あーあ。もう退院かあ。あっという間だったなあ」
奏は退院の仕度を手伝いながら、しみじみと呟いた。傷が順調に回復したのは嬉しい。でも病室という密室で二人きり、わんこよろしく傍にぺったりくっついて、食事や着替えの手伝いをしたりたまにベッドの上でいちゃついたりできる時間は、奏にとって至福のひとときだったことは間違いない。
だからつい、こんな名残惜しいと言わんばかりの感慨が漏れてしまったのだが、予想通り喬允は苦笑して、
「こら。全治三カ月の方がよかったか？」
「まさか。重傷にならなくてほんとによかった。でもさ、この一週間、あまりに濃密な時間を過ごしたから……」
「確かに。こんなにお前と寄り添って過ごせたことはなかったな。お互い仕事も忙しいから、同居してるといっても週末と夜しかのんびりできなかった。そういう意味では、充実した時間だった」
「だろだろ？」
喬允の同意が嬉しくて、奏は勢い込んで身を乗り出した。しかしそれとは対照的に、喬允ははあっと含みの感じられる溜め息をついて、
「それにしても、お前があそこまで世話焼き女房だとは思わなかった」
喬允が何を言おうとしているのか分かっていたが、奏は一応唇を尖らせてみた。
「何だよ。喬兄のために頑張ったんだぞ。食事だって、まずい病院食じゃ食欲も湧かないだろうから家で作ってきてさ」
「いや、それは感謝してる。けど……」
入院して最初の三日間は、念のため入浴が禁じられた。その代わりに蒸しタオルをもらって身体を拭くのだ。もちろん奏は自分がやると言い張り、喬允の艶やかな肌、上質な筋肉、逞しい骨格を愛で慈しみながら丁寧に拭いていった。
上半身が終わったら、次は色の違うタオルで下半身を拭く。しかし喬允は頑として、“こっち”は自分でやると言って譲らなかった。
当然ながら奏はタオルを死守。こういうことも妻たる者の務めだと主張したのだが喬允には受け入れられず、延々と言い合いを続けるうちに蒸しタオルはすっかり冷め切って、ただの冷たいおしぼりに。ようやく奏が折れて、しぶしぶ部屋の外で待機したのだった。
「下の方も拭いてあげたかったのにな……」
恨みがましく本音を呟くと、喬允はげほげほと咳き込んだ挙げ句「お前は…」と呆れた。奏は意識的に眼差しの温度を上げてしっとりと見つめ、
「俺がやった方が、きっと気持ちよかったと思うよ」
すると喬允はふいと横を向き、
「そんなの、分かってる。だから、駄目なんだ」
“だから”を強調して答えた。その耳が赤く染まっているのを見た奏は、もっともっと苛めたくなってしまう。
「収拾がつかなくなったら、ちゃんと口でしてあげたのに」
「バッ、バカなことを言──」
「怪我してる喬兄に無理はさせられないからな。その辺は弁えてるつもり」
「お前は……」
二度目の呆れ口調は、先刻より糖度が増していた。耳朶を甘くくすぐられ、奏は首をすくめながら喬允に抱き着いた。
「今度入院した時は、俺が全部拭いてあげる」
冗談半分、本気半分で告げると、頭をコツンとやられた。奏はくすくす笑いながら、もしここに本多がいたら、冷ややかな顔つきで新婚ごっこか？ と嫌味をぶつけてくるに違いないと思い、さらに愉快になった。
退院手続きを済ませて病院を出ると、初夏を想わせる爽やかな薫風が二人を祝福するかのように吹き抜けた。確かに、もうすぐゴールデンウィーク。それが終われば、夏はすぐ目の前だ。
「なあ、奏。ちょっと寄っていかないか？」
喬允の誘いに、奏が首を横に振るはずはない。どこへ寄るのかも聞かずに賛成し、二人は自宅への帰路から逸れた。
途中で、喬允がどこに寄ろうとしているのか何となく察した奏は、少なからず驚いた。まさか、覚えていたのだろうか。あの約束を。
「喬兄、ここは……」
「ああ。去年、桜を見に来たよな。それで、来年もまた来ようと約束した。いや……あれは約束というより、俺の勝手な願望だった。お前は曖昧に笑うばかりで返事をしてくれなかったからな」
喬允は淋しげに笑み含んだ顔でそう言うと、桜の枝に手を伸ばした。
「来年も一緒にいられるとは限らない、そう思っていたんだろう？ お前の不安は的中してしまったな。今年は一緒に花見ができなかった。もうすっかり葉桜だ」
「うん……というより、来年なんて来なければいいと思ってた。いっそのこと、このまま時が止まってしまえばいいと。幸せな時間を永久保存しておけるなら、俺は悪魔に魂を売ってもいい」
「悪魔、か。意外だな。お前の口からそんな言葉が出てくるなんて」
「そう？ 俺は無神論者だけど、理性を超越した“何か”の存在は信じてる。それが悪魔なのか天使なのかGODなのかは些末なことで……あっ、喬兄見て！ あそこの枝！」
奏が思わず大声を出してしまったのも無理はなかった。青々とした葉の中にともる桜色。それは周囲の鮮やかな緑に比べれば儚い色彩だったが、凛と咲く姿は美しく健気で、道行く人の目を自然と引き寄せた。
「季節外れに開花する独桜か」
喬允の独白めいた言葉に、奏は首を振った。
「違うよ。独りじゃない。ほら、よく見て」
奏に促されて目を凝らした喬允は、はっと息を呑んだ。
「本当だ。二輪の花が寄り添って咲いてる……」
喬允は深い感慨の窺える声でそう言うと、奏をちらと見て照れ臭そうに続けた。
「まるで、俺たちみたいだな」
「うわっ、まさか言うとは思わなかった」
奏のからかいに、喬允はムキになって抗弁する。
「な、なんだよ。言ってほしいと思ってたんだろ？」
「別に〜。敢えて言葉にする必要もないかなと」
「お前……けっこう意地が悪いな」
赤い顔でじろりと睨まれ、奏は笑いながら謝った。
「ごめんごめん、嬉しくてついふざけた。うん、確かに俺たちみたいだ。季節外れで空気が読めなくて、周囲の色に染まらずわが道を行く。……喬兄、今年も一緒に花見できたね」
「ああ、そうだな。奏……」
喬允の声色が変わった。見上げれば、表情まで厳粛なものになっている。奏も思わず背筋を伸ばした。喬允は助走をつけるかのようにふっと息を吐いて、
「奏、来年も一緒に桜を見よう」
「………」
その瞬間、奏の脳裏をさまざまな思いが駆け巡った。もちろん不安もある。憂慮もある。けれど、奏の答えは出ていた。
「うん。来年も再来年も、ずっと一緒に桜を見よう」
喬允の顔がくしゃっと歪み、震える唇がひとこと「ありがとう」と紡いだ。
「ただいま……」
帰宅した喬允は、目を細め一週間ぶりの我が家をしみじみと見回した。その様子がおかしくて、奏はからかうような口調で、
「どうしたんだよ。たった一週間空けただけなのに、懐かしそうな顔しちゃって」
「ん？ ああ……」
喬允はふわふわと頷いたが、やがてこらえきれぬ嬉しさで唇を緩め、
「やっぱり奏がいるのといないのでは、室内の空気が全く違う。お前が出ていった後の部屋は全てがよそよそしくて、他人の部屋に迷い込んだみたいな不思議な非現実感があった。なのにお前が戻った途端、元通りだ」
話しながらリビングに移動すると、あらためて奏に向き直った。そして深い感慨のこもった声で続ける。
「つくづく、ホームというのは戻るべき場所、温かく迎え入れてくれる場所なんだと思う。そういう場所に、奏という存在が不可欠なんだということもあらためて思い知ったよ。これからも、よろしく頼む。知っての通り優柔不断で頼りない男だけど、でももうお前を泣かせるようなことはしない」
予想もしていなかった重く真摯な言葉に不意を打たれた奏は、普段は理性でコントロールできている涙腺が勝手に緩むのを感じた。
慌てて唇を噛み、喉にぐっと力を入れる。そんな奏の状態に気づいているのかいないのか、喬允は困ったように笑って、
「奏、返事は？」
もちろん、こちらこそよろしく──そう返すため唇を開くと同時に、目尻から涙がつぅっと伝った。それを見た喬允は目を剥いてうろたえる。
「う、わっ。奏？ どうしたんだ一体……」
「どうしたんだ、じゃないだろ。何だよ、もう泣かせるようなことはしないって言ったそばから泣かせて。嘘つき」
甘い咎めとともに抱き着くと、涙の理由に何となく思い当たったのか、喬允は笑いながら抱き返してくれた。そして指で奏の顎を支え、濡れた目尻をちゅっと音を立てて吸う。そのまま自然な流れで唇へ。
奏は柔らかな舌で歓待し、二人はしばし濃厚な口づけに没頭した。喬允は奏のうなじを片手で支え、上から穿つように舌をぬぷぬぷと挿し込んで口腔を嬲る。奏は喬允の背中に腕を回し、緩やかなS字にくねらせた身体を喬允の身体に沿わせるようにして密着させながら、唇と唇、舌と舌の交わりに耽った。
どのくらい経ったのか、どちらからともなくほどけた時にはかなり息が上がっていた。しかしここでがっつくほど、二人とも青くはない。ゆっくりと抱擁を解いて、その分の埋め合わせをするかのように熱い視線を交わらせた。
「喬兄、こちらこそよろしく」
奏がさっき言いそびれた返事をすると、喬允は笑顔で頷いた。
それから喬允は、会社や担当の医局に退院の報告をしたり、必要な手続きについて問い合わせをしたりと、事後処理に追われた。その間に奏は、退院祝いを兼ねた今夜のディナーに腕をふるう。
嬉しくて幸せで張り切りすぎてしまい、食卓に乗り切らないほどのご馳走を作って喬允に呆れられた。こんなに食えないぞと言いつつもどんどん箸を進める喬允を見ていると、そろそろ出尽くしてもよさそうな幸福感がまたこんこんと湧いてきて、奏は隠れてそっと目尻を拭ったのだった。
その夜。ベッドの上に腰掛けた喬允は、奏の奉仕を受けていた。奏はその部分を指先でそっとなぞる。すると喬允は「うっ」と切なげに低く呻いてから、熱い息を吐いた。それに連動して、嫌味のない程度に割れた美しい腹筋が妖しく波打った。
「か…なでっ……」
切羽詰ってかすれた声がひどく色っぽい。奏はこくんと喉を鳴らし、その部分にさらに顔を近づけた。
「喬兄……痛い？」
「いや、痛くはない。が、くすぐったい」
「薬塗ってるんだから、もうちょっと我慢して」
奏はぴしゃりと言って、脇腹の傷口に薬を吹き付けた。そして新しいガーゼで覆い、紙テープで固定して完了。我ながらうまくできたと満足げに頷いたが、真新しいガーゼを見ていると嫌なことを思い出してしまった。奏は顔をしかめ、
「入院中、喬兄のガーゼを取り替える看護師を何度張っ倒したいと思ったか」
突然の物騒な告白に、喬允はぎょっとする。
「な、なんだいきなり」
「喬兄を担当してた看護師だよ。なんか妙に色目遣ってただろ？ ガーゼ替える時もさ、うっとり目ぇ細めて、必要以上に時間かけてべたべた触って……ああ、思い出したら余計腹立ってきた！」
ひとりヒートアップする奏とは対照的に、がっくり項垂れる喬允。
「お前は……」
「なんだよ。その、いかにも呆れてものが言えない、的な感じは」
「いや、実際その通りなんだが」
喬允の反応に、奏は唇を尖らせ不満を露わにする。
「喬兄は、無頓着すぎるんだ。自分がどれほど魅力的か、人を惹き付けるかまるで分かってない」
そして尖らせた唇を喬允の腹に押し当て、傷の周囲をゆっくりとなぞる。
「か、奏……くすぐったいぞ」
喬允は戸惑いを隠さず、奏の頭をそっと押し戻そうとする。しかし、
「駄目。消毒中」
「は？」
「色目遣う看護師に触られたとこ、消毒中」
奏は答えながら、腹筋の割れ目に舌を這わせて“消毒”を続行する。もちろん、看護師はそんなところまで触れてはいないが、すでに奏の中で目的はすり替わっていたから関係なかった。目的は言うまでもなく──
「奏、だ、駄目だ。それ以上はっ……」
悶えるようにビクビクと揺れる腹筋の動きが、舌に伝わってくる。奏はいったん顔を上げてちらと唇を舐めてから、すでに形を変え始めているそこに狙いを定め、再び顔を近づけていった。
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