独桜―ひとりざくら―
14話
夢を見たような見ないような、不思議な眠りだった。目を開けてもまだ眠りの浅瀬にいるようで、喬允は焦点の合わぬ目で天井を見るともなく眺めた。やがて徐々に視界が鮮明化し、自分がどこで寝ているのかようやく把握した。
「ああ、戻ってきたんだった……」
一年間、奏とともに暮らした部屋。奏とともに夜を過ごしたベッド。もちろん今は一人だ。いつも隣にあった温もりの不在に心が悲鳴を上げかけるが、それを抑え込んで喬允は起き上がった。
今はそういった感情にかかずらっている時ではない。必要なのは行動。とにかく奏を捜すのだ。
今日は日曜。丸一日捜索に費やすことができる。喬允は簡単な朝食を済ませてから、まずは奏の友人で唯一面識のあるユージに電話をかけてみた。もしかしたら、何か手がかりが掴めるかもしれないと淡い期待を抱いたのだが、
『奏ちゃん？ ううん、ここ最近はすっかりごぶさた。たまに電話で話すくらいだったけど、最近はそれもないわね。あ、もしかしてまたケンカ？』
「は、はい。そんなところです」
どうやら彼は何も知らないようだ。ならば敢えて説明することもないだろう。
『しょうがないわねえ。でもまあ、そんな深刻にならなくていいと思うわよ。奏ちゃんは旦那様のこと好きで好きでしょうがないみたいだし。旦那様もそうやって必死に捜すってことは、奏ちゃんのことを愛してるってことだし』
もし一週間も放っておいたことを打ち明けたら、彼は声色を変えて“ふざけんな、何やってんだ！”と怒鳴るかもしれない。彼、ユージが奏の幸せを心から願っていることを、喬允は知っていた。
『ちょっとしたズレ、軋みみたいなものは、そのつど修正していけばいいのよ。先は長いんだからね』
「ええ、仰る通りですね」
喬允の神妙な受け答えが可笑しかったのか、ユージはきゃらきゃらと笑った。そして『笑ってごめんなさい』と詫びてから、
『とにかく、もし見かけたらすぐ連絡するわね』
「はい。ぜひお願いします」
喬允は電話を切ると、溜め息をついた。もちろんそんな簡単に見つかるとは思っていないが、手がかりがひとつ失われたのはそれなりにダメージがあった。
しかしここでめげるわけにはいかない。喬允は気を取り直して外に出た。そして奏の寄りそうな場所を片っ端から潰していったが成果はなく、気がつけば生まれたての若い闇で辺りは薄墨を刷いたように薄暗くなっていた。
夜の始まり。となればすべきことは決まっている。喬允は勇んであの界隈に向かった。かつて奏が我がままで移り気な女王様として君臨していた、享楽の世界だ。
喬允はネオンを頼りに店を一軒一軒回った。しかし、返ってくる答えはどれも似たようなものだった。奏の姿はここ数カ月目にしていない、と。
喬允は疲労の溜まった足を引きずって、部屋に戻った。捜索が無駄足に終わったことに落胆はあったが、どこか予想していた結果でもあった。桜祭りの会場で奏と一緒にいた男からは、本多と似た特殊なオーラが感じられた。有り体に言えば、カタギではない匂いがしたのだ。
喬允は携帯電話を操作して、本多の番号を呼び出した。以前、奏の代わりに仕事を請け負った時、緊急連絡用にと教えられた番号だ。
まだ通じているかは心許ないが、ともかくかけてみた。暫く呼び出し音が鳴り、十回以上数えたところでようやく相手が出た。
「失礼ですが、本多さんの携帯電話で間違いないでしょうか」
『……ああ、そうだが』
本多は実に嫌そうに答えると、重い溜め息をついた。根拠のない直感だが、本多のこの反応で、奏が彼の元を訪れたに違いないと察した。
『奏を捜しているのか』
話の早いことに、向こうから振ってくれた。喬允は餌を前にした犬よろしく、喜び勇んで飛びついた。
「はい！ そうです。あなたを頼っているのではないかと思いまして」
『ああ。確かに一週間前、奏は私のところに押しかけてきた。人の迷惑も顧みず、半ば強引にな』
本多は心底うんざりしているようだった。喬允は思わず謝罪を口にする。
「そ、それは失礼しました」
『謝罪には及ばんが。それより、別れた妻と子供のところに戻ったのではないのか』
「奏が、そう言っていたのですか？」
『そうだ。子供との絆はやはり固かったと負けを認めていたな』
「その絆を断ち切るのに、一週間もかかってしまいました」
戯言をぬかすなと一笑に付されるかと思ったが、本多は存外真面目な声で『捨ててきたのか』と聞き返してきた。
「どちらかを選ぶということは、選ばない方を捨てることだとあいつは言いました。だから俺は奏を選んで子供を……捨てた」
『なるほど』
「奏に会わせてください。会う機会を作ってもらえれば、あとはあなたに迷惑をかけるようなことは決して──」
『無理だな』
喬允の懇願を遮る本多の声は、動かせぬ現実の重みを知らしめる鉄槌のごとく容赦なかった。どんな不可能でも可能にしそうな凄みと狡猾さを持ち合わせた本多が、ここまではっきり無理だと言い切ったことに、喬允は驚きと衝撃を隠せない。
一瞬返す言葉を失ったが、すぐに思い直した。ここで引き下がるわけにはいかない。
「理由もなくあなたがそう言うとは思えません。けれどこちらも、ああそうですか分かりましたと引き下がるわけにはいかない」
『それはまあ、そうだろうな』
あっさり納得してくれたのはおそらく、ここまでの会話で喬允の覚悟を察していたからだろう。見かけによらず、そういった人心の機微にも敏い男だということを、短い付き合いの間で喬允は感じ取っていた。
「奏は今、どこで何をしているのですか。包み隠さず教えてください」
自分にとって愉快でない話も受け止める、そんな気概を込めて喬允は再度懇願した。それに対し本多の語った事実は、喬允の覚悟を揺るがすほど毒々しく、絶望的なものだった。
『奏は、私の上司の情人になった』
「あなたの上司の……」
『ああ。上司というのが外向きの表現だということは分かるな？ つまりは、私の所属する組織のトップ、親玉だ。奏の無鉄砲を通り越して自暴自棄なところに私はしばしばうんざりしたものだが、私の上司とはウマが合っているようだ。最近は他の愛人を放置して、奏ばかり可愛がっている』
桜祭りの会場で目にした男のシルエットが脳裏をよぎる。喬允はぎゅっと拳を握り、
「だから、取り戻すのは難しい、と」
『ああ、あの執着ぶりを見る限り、そう簡単に手放すとは思えん。下手をすれば、あんたはもちろん奏にまで危害が及ぶ可能性がある。悪いことは言わない、諦めた方がいい』
喬允は、いったん言葉を呑み込んだ。躊躇したからではない。声が震えるのを抑え込むためだ。
「諦めるつもりはありません。必ず奏を取り戻す。そのためなら何でもします。本多さん、力を貸してくださいとは言いません。どうか俺に知恵を貸してください」
『……何でもします、か。口だけなら何とでも言えるな、と言いたいところだが、あんた以前、奏に代わって危険な仕事を請け負ったことがあったな。それも、なかなか堂々たる仕事ぶりだった。しかし、今回のヤバさはあの比ではないぞ』
「構いません、危険は承知の上です。俺にはもう失うものは何もない。奏以外には」
芝居がかった台詞だが、嘘偽りのない本心だった。娘との絆を断ち切った今、自分に残されているのは奏と共に歩む道か、全き孤独の道だった。
『なるほど。まあ覚悟はできているようだな。ならば包み隠さず教えよう。奏は今、かなりまずい状況に巻き込まれようとしている』
反社会的組織のトップの愛人、それ以上に“まずい状況”というがあるのだろうか。
「それは一体……」
おそるおそる訊ねる喬允に、本多は珍しく『ふむ…』と躊躇を見せた。
『少々込み入った話になる。できれば電話ではなく直接会って話したい』
奏を襲いつつあるまずい状況の中身が気になったが、ここは本多に主導権を持たせた方が利口だろう。
「分かりました。なるべく早くお願いします」
『ああ。では明日。時間はあんたの都合でいい。それより』
本多は声を一段低めた。おそらく、特別な局面で武器として使用する声なのだろう。
『明日、話を聞いてしまったらもう後戻りはできないぞ。分かってるな？』
聞く人が聞けば、十分脅しとして通用するだろう。こちらが本多という男の本質なのかもしれないと冷静に分析しつつ、喬允は怯まず答えた。
「退路は疾うに断っています。あとは前に進むだけです」
午後四時という中途半端な時間のせいか、繁華街の喫茶店に客の姿はまばらだった。しかし、たとえ満席だったとしても彼の姿を見つけるのは容易かっただろう。奥の壁際の席に深く腰掛け、コーヒーカップに口を付けている本多は、人の視線を否応なく惹き付ける独特の存在感を放っていた。
「お待たせしてすみませんでした」
喬允が軽く一礼して向かいの席に腰を下ろすと、本多はちらと目配せしてカップを戻した。そして喬允に視線を据え、
「まさか、本当に来るとは思わなかったな」
喬允は思わず眉間に皺を寄せた。
「信用してなかったのですか？」
「大抵の決意や覚悟は、一晩寝て朝を迎えれば消えているものだ」
「それは決意とは言いません」
「決意をそのまま実行する人間は英雄か愚か者だ」
ここでウェイトレスが注文を取りに来たため、決意を巡る議論はおしまいになった。
「それで、昨日のお話なのですが」
本多は分かっている、という風に頷いて、周囲に素早く視線を走らせた。聞き耳を立てている者などいないのは一目瞭然だが、そうすることでこれは極秘の会話であることを暗に示そうとしたのだろう。
「奏はどうやら、淫剤の客引きをさせられるようだ」
喬允はごくりと喉を鳴らした。本多の言葉だけでは具体的なことはよく分からないが、途轍もなく“ヤバい”香りがするのは感じる。喬允の困惑を感じたのか、本多は声を潜め続けた。
「セックスドラッグの宣伝、と言い換えてもいい。効果を実感してもらうため客に試させる。その相手を奏が務めるということだ。奏自身も同じものを使って」
「ま、待ってください！ その薬───」
喬允は何とか途中で自制し、声を小さくした。
「その薬は違法薬物ですか？」
「当たり前だ。違法でなければ売る意味がない」
本多の世界の論理は理解しがたかったが、今はそれを追及している時ではない。
「つまりあなたの上司は、売ろうとしている薬の効果を宣伝するため、薬を与えて客に奏を抱かせると」
「そういうことだ」
注文したコーヒーが運ばれてきたが、カップに手を伸ばす気にもなれない。ぐらぐらする頭を支えるので精いっぱいだった。そんな喬允には構わず、本多は淡々と説明を継ぐ。
「そういうブツに喜んで飛びつきそうな顧客を募り、その中から男のケツを掘るのが好きな変態をピックアップして奏に相手をさせる」
「待っ…てください。その、あなたの上司は奏を愛人にしたのでしょう？ それもかなり気に入っている様子だと。ならばなぜ、他の男に抱かせるような真似を……」
彼がどれくらい奏を愛しているのか分からないが、惚れた相手に男娼まがいのことをやらせるその精神構造が全く理解できない。しかし本多は、その不可解な精神構造をあっさり解きほぐしてみせた。
「それが、何より強力な所有の証になるからだ。“これ”は自分のものだ、だからどう扱ってもいい。つまり他の男との行為を強要することで、より強く所有を実感できるというわけだ」
「そんな……それじゃまるで、玩具を手にした子供じゃないですか」
「まさにそうだ。子供というのは、大事にしていた玩具をいきなり床に叩きつけることがあるらしいな。そうすることで、自分のものであることを実感しているのだろう」
痛めつけることで所有を実感する。ひどい倒錯だと思うがあり得ないことではないだろう。黙り込む喬允に、本多は続けて、
「もうひとつ、これは私の推測に過ぎないが、奏の心に他の男がいることを彼は知っているのではないか。だから薬漬けにすることで心を壊し、快楽のことしか考えられない性奴隷にでもしようとしているのかもしれん」
「心も身体も完全に所有するために」
「そうだ」
「………」
身体の震えが止まらない。怒りのせいだ。そんな害獣の所有欲を満たすために、奏の心と身体と尊厳が踏みにじられようとしているのか。
「すでに顧客の選別を始めているようだ。まずは太い客から売り込みを始めるだろう。とはいえ、入手ルートもまだしっかり確保できていない。典型的な見切り発車だな」
苦々しい口調で吐き捨てる本多に、喬允は不審を抱いた。
「あなたは関与していないのですか？ 話を聞いていると、本多さんは上司のやり方に否定的なように聞こえるのですが」
「慧眼だな。あんたの言う通りだ。彼は勝手に暴走しているだけだ。やり方が稚拙すぎる。とにかく金が欲しいという意図が見え見えだ。これでは相手に足許を見られてしまう」
本多はばっさり切り捨てると、身体をわずかに傾けて顔を近づけてきた。
「あんたを信用して話すが、私の上司は見栄とプライドの塊だ。より早く出世して、より多くの人間に威張り散らしたい、より多くの人間が自分の前にひれ伏すところを見たい、そんなことばかり考えている」
「本多さんの世界でなくとも、そういう人間はいます」
「たとえば有名大学病院の医師とか、か。まあ、人間なんて一皮剥けば大して変わらないということか」
本多の口元を、微笑のようなものがさっと閃いた。それは瞬きする間もなく消えてしまったが。
「話を続けよう。彼は我々の組織ではトップだが、組織自体の地位は大したことはない。我々の世界は、あるいはあんたの世界より強固なピラミッド構造になっている。本家をトップとして、末端の五次、六次団体まである。末端組織でトップになっても、所詮はサル山の親分みたいなものだ」
「なるほど。それでは出世欲は満たされないでしょうね」
「その通り。そこで彼は、サル山を捨てることにした。出世の階段を上るなら、身軽な方がいいと考えたのだろう。上の団体に取り入って、自分だけが引き立ててもらえるよう画策を始めた」
「自分だけ？ それではあなたたち部下は……」
「サル山の猿どもがどうなろうが、知ったことではないということだ」
本多はさらりと言ったが、言葉ほど達観しているわけではないことは、眉間にうっすら刻まれた縦皺から見て取れた。
「出世する手っ取り早い方法は金だ。それも、大金をタイミングよく上納すればより効果的だ。そこで彼は、保釈金を自分が出すと申し出た」
「保釈金、ですか？」
「ああ。親組織のトップが密売で引っ張られてな。その保釈金を自分が全額肩代わりするとぶち上げたんだ。金額は三千万。その見返りとして、上部組織の幹部に迎えるという密約が交わされた」
「密約ということは、本多さんは知らないことになっているのですね？」
「まあ、そういうことだ」
本多は口角をかすかに吊り上げて嗤った。どうやら、出世欲の強い上司より本多の方が一枚も二枚も上手のようだ。
「しかし正直言って、そんな金を短期間で用意できるほどうちは裕福ではない。弱小組織の、偽らざる実態だ」
「だから見切り発車で違法薬物を……」
「そういうことだ。しかしセックスドラッグで稼げる金は高が知れている。それ以外にも金策に走らないことには、期限内に三千万は難しいだろう。かなり切羽詰った状況にあることは確かだ。手っ取り早く強盗で稼ごうとするかもしれん。ただでさえ暴対と暴排で当たりが厳しくなっているというのに」
思わずまあまあと宥めそうになり、喬允は慌てて自制した。対応を間違えてはいけない。相手は、居酒屋で上司の愚痴をこぼしているサラリーマンではないのだ。それを裏付けるように、本多の切れ長の目が妖しく光った。
「そこで、だ。出水製薬MRの三島喬允さん、あんたにちょっと協力してもらいたい」
「協力、ですか？」
「ああ。“本物の”出水製薬MRでないと成功しない計画だ」
本多の『計画』を聞いた喬允は、顔が強張り手のひらに冷たい汗がにじむのを抑えられなかった。
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