他人の絆
＜3＞
ドアフォンが鳴って慌てて出ると、小さなモニターいっぱいに宙美の笑顔が映っていた。
『パパぁ、そらみだよ。開けて〜』
「あ、ああ。待ってろよ。って、ママはどうした？」
『もう行っちゃったよ』
すぐに窓から外の通りを見ると、一台のタクシーが遠ざかっていくところだった。
「そんなに俺と顔合わせるのが嫌なのか」
つい愚痴めいたものが口をついて出てしまう。すると肩をぽんぽんと叩かれた。
「ほら、早く迎えに行ってあげなよ」
「あ、ああ」
奏の尤もな諭しに力なく頷き、一階のエントランスへ急いで下りていく。ちなみに昨夜話し合った結果、奏は同居人としてちゃんと紹介することにした。いや、話し合ったというより、喬允の意見に奏が渋々従わさせられたというべきだろうが。
「宙美、久しぶりだな。おっきくなったなあ」
電話越しではなく直接会うのは宙美の誕生日にプレゼントを渡して以来だから、約一年ぶりになる。抱き上げて一年間の成長を両腕に刻むと、早速部屋へ戻ることにした。
宙美は喜びと好奇心で瞳を爛々と輝かせ、走ったら危ないという喬允の小言も無視してエレベーターを飛び出した。
「パパ、はやくぅ」
「はいはい」
急かされて苦笑しつつ扉を開けると、そこに笑顔の奏が立っていた。宙美は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐにぱあっと顔を輝かせる。
「こんにちは、宙美ちゃん。俺のこと覚えてるかな」
奏の柔らかな問い掛けに、宙美は熱烈に頷いて、
「パパのおともだちの、かっこいいおにいちゃん！」
「そ。かっこいいおにいちゃん」
喬允が「自分で言うか」と突っ込むと、奏はちらと肩を竦めてかわした。そして宙美にすっと手を差し伸べ、
「ようこそ。待ってたよ」
すると宙美はさっきまでの威勢のよさはどこへやら、楚々と靴を脱いできちんと揃え、奏の手に自分の手をちょんと乗せた。まるで、エスコートを受け慣れたレディのように。そのまま奥の部屋に入ってゆく二人を見送りながら、喬允はぼそっと呟いた。
「女は生まれた時から女、か……」
奏が簡単に自己紹介すると、次の瞬間から宙美は「かなでちゃん、かなでちゃん」と連呼してじゃれついた。
子供というのは残酷なほど正直で、美しいものとそうでないものを峻別して露骨に態度に表わす。喬允はどっちに嫉妬したらいいんだか、と苦笑混じりに情けないことを考えつつ、すっかり打ち解けた二人を眺めた。
「この羊さん可愛いね。宙美ちゃんの枕？」
「うん。そらみね、この子がいないとねむれないの」
持参した鞄の中から次々と“お泊まりグッズ”を取り出し、慣れた口調で説明する宙美を見ていると、こうして違う家に一人で泊まることが普段から多いのだろうと分かる。
それについて喬允が意見する立場にないのは明白だが、だからといって見て見ぬふりも卑怯な気がする。
――― 一度、あいつときちんと話し合う機会を持った方がいいな
どうしたって愉快な時間にはならないだろうと分かっているが、そのくらいは父親の務めとして果たすべきだと思う。
それに、どんな不愉快で刺々しい時間を過ごしたとしても、家に帰ればすぐに忘れてしまうだろう。奏の笑顔と温もりと、『お疲れさま』のひと言さえあれば。
そんなことをつらつら考えていると、宙美が鞄の中から丸い筒を取り出した。
「パパぁ、これ見て。そらみがかいたの」
筒の中からは、懐かしいクレヨンの匂いがした。丸めて収められていた画用紙には、鮮やかなオレンジ色で大きく『わたしのかぞく』と書かれ、その下には手を繋いだ三人が拙いタッチで描かれている。
真ん中の小さな女の子は宙美、左側のスーツらしきものを着た男性は喬允、そして右側の女性は由紀恵だ。
「へえ、大したものだなあ」
「じょうず？」
「ああ、とっても上手だよ。パパをハンサムに描いてくれてありがとう」
「ママも、じつぶつよりハンサムね、って言ってたよ」
「はは。ママも実物より絵の方が美人だ、って言っておいてくれ」
そして喬允は、絵を飾る場所を探そうときょろきょろした。すると、さっきまで輪の中にいた奏がいなくなっていることに気付いた。
「奏？」
キッチンから気配を感じ、そっと覗き込むと、奏はそこにいた。一瞬、こちらに向けられた背中が震えているように見えてぎょっとしたが、振り向いた顔はいつもの奏だった。喬允はほっと息をつき、
「何してるんだ」
「何、って、お茶の用意でもしようと思って。宙美ちゃんはココアとかがいいのかな」
「ん、ああ。ココアでいいんじゃないのか。手伝おうか？」
「いや、大丈夫。早く戻ってあげなよ」
体よく追い払われたような気もしたが、考えすぎかと肩を竦めて戻り、絵をキャビネットの上に飾った。
「あ、そうだ。宙美は夜ごはん何が食べたい？ 何でもいいぞ」
「えっ、パパがつくるの？ すごーい」
「い、いや、作るのはパパじゃなくて奏おにいちゃんだけどな」
喬允は慌てて訂正しつつ、自分も簡単な料理くらいできるようになろうと思った。
「えっとね……オムライス！」
「オムライスか。そういえば最近食べてないなあ」
実に子供らしい選択に、喬允は思わず目を細めた。が、
「ケチャップのごはんをたまごでまいたやつじゃなくてね、ごはんの上にふわふわたまごがのってて、スプーンでわったらたまごがとろっとするやつがたべたいの！」
「な、なるほど……」
つまり、高級洋食屋が出すようなオムライスということらしい。こういうこだわりを「子供らしくない」と断じるのは偏見だろうか。
「でも、そういうのはお店で食べるやつだろう？ ちょっと難しいかもしれないな」
喬允がやんわり諭すと、宙美はちょんと口を尖らせて、「パパがなんでもいいってゆったから…」と不満げ。するとこのやり取りを聞いていたのか、奏がキッチンから顔を出し、
「宙美ちゃん、卵がとろっとしたオムライス作ってあげるよ」
「ほんと？！」
「ああ。かっこいい奏ちゃんは嘘つきません」
「やったあ！」
両足をぱたぱたさせて喜ぶ宙美の頭を撫で、「よかったな」と笑いかける喬允。そんな二人を見つめる奏も微笑ってはいたが、瞳は憂いの翳りを帯びて時折何かを訴えるように揺らいでいた。
しかし、喬允がそれに気付くことはなかった。
それから宙美が好きだというアニメビデオを観ているうちに、夕食の時間になった。奏は予告通り『洋食屋さんのふわとろオムライス』を見事完成させ、宙美はもちろん喬允までうならせた。
そして入浴を済ませた頃には、今日一日の興奮が睡魔を引き寄せたのか、宙美は大あくびを連発。もうちょっと起きてるとぐずったが、何とか宥めすかして寝室へ連れていった。
「うわあ、おっきいベッド」
初めて目にするキングサイズのベッドに、眠気が一瞬吹っ飛んだようだ。宙美は勢いよく飛び乗ると、歓声を上げて転げ回った。
普段、自分と奏が抱き合って眠り、時には口づけを交わし時には身体を繋げ、熱い精を染み込ませているその場所に自分の娘がいる。その目の前の事実をどのように扱ってよいか分からず、喬允は形だけの笑顔を浮かべたまま深い困惑に沈んだ。
「ほ、ほら、もう寝なさい」
ぎこちない台詞、ぎこちない動作で促すと、宙美は「はあい」と素直な返事をして、小さな身体をもぞもぞと布団の中に押し込んだ。
「パパは？」
「ああ、パパも一緒に寝るよ。すぐ戻るから待ってなさい」
宙美は再び無邪気な返事をすると、あっという間にうとうとし始めた。何の不安もない幸せそうな微睡みを眺めつつ、これまでのようにこの場所で奏を抱くことができるだろうかという問いが浮かび、そんな自分に嫌悪を覚える。
が、答えの出ない不毛な自問に係っている暇はないと言い聞かせて、急いでリビングへ引き返した。
そこでは、奏が黙々と布団を敷いていた。いつものように同じベッドで寝るわけにはいかない。かといって来客用の簡易寝台があるわけでもない。そもそも、そんなものの必要性が頭をかすめたことすらなかった。
自分たちがどれほど閉ざされた空間で二人きり、肌を寄せ合って暮らしてきたか、あらためて思い知らされる。
「奏……悪いな」
奏にこんな不便を強いてしまうなら、やはり友人の家にでも泊まってもらった方がよかったのかもしれないと心を痛め、それと同時にそんな殊勝な考えを嗤う。
物分かりのいい大人のフリしやがって。奏の外泊なんて、俺の妬心とエゴが許すはずないのに、と。
「謝らなくていいって。それよりほら、宙美ちゃんが一人で淋しがってるだろ。傍にいてあげないと」
「あ、ああ。そうだな」
笑顔でひらひらと手を振る奏に強張った笑みを返しつつ、『お前は一人で淋しくないのか？』という言葉を呑み込む。
奏が淋しいと言うわけはないし、たとえ言われたとしても、傍にいて身体を温めてやることはできないのだから。
「それじゃ、お休み。身体冷やさないようにな」
おやすみ、と返す奏の顔を見ないまま、喬允は娘の待つ寝室へ戻った。
眠りの継ぎ目でふと目覚めた喬允は、闇の色でまだ夜が深いことを知った。隣からは、ぷすー、ぷすー、と元気な寝息が聞こえてくる。
この広いベッドがよほど気に入ったのか、小さな身体を『大』の字に広げた宙美は、眠っているにもかかわらずまさに躍動する生命そのものだった。どんな暗黒も、彼女の薔薇色の頬を染めることはできないだろう。
喬允はそっと起き上がって上着を羽織り、寝室を出た。足音を忍ばせて廊下を進み、リビングへ。そして、決して広いとは言えない空間に閉じこもるようにして眠っている奏の傍に、膝をついた。
奏は冷たい夜気から身を守るように、横を向いて身体を丸めている。眉間には浅い皺が寄り、頬は青白い。小さな宙美よりずっと弱々しく儚げで、見てるだけで喬允の胸は音をたてて軋んだ。
「こんな顔して寝るな、お前はっ……」
喬允は手を伸ばして頬を撫でようとしたが、指先が肌に届く前に引っ込めた。触れたそばから奏を護る薄い殻が破れて、闇の侵蝕を許してしまいそうだったから。
いや、それだけではない。ささやかな接触が、奏の素肌と温もりに対する餓えを本格的に目覚めさせてしまうおそれがある。
すぐ傍にいるのに触れることができないという状況が、こんなにも心身を掻き乱すものだとは想像もしていなかった。たった一日だというのに。
喬允はふっと自嘲をこぼすと、掛け布団の上に手を置いた。そこから感じるわずかな温もりを手のひらに写し取り、寝室へ戻った。
再び眠りにつくまで、手は甘く火照っていた。
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